分かれた道で
馬車に揺られながらマトリカは考えを巡らせていた。リルソフィアのこと、自分の出自のこと、エルフのこと、人間のこと、そしてこれから起こる出来事について。何一つ答えが出ないとわかっていても、考えは頭の中を駆け回るのであった。
「……貴様は、よく泣かずについてきたものだ。人間なら喚きそうなものだがな」
東の長が呟く。その顔には哀れみとも取れる笑みが浮かんでいた。
「人間というものは、すぐ喚くものなのですか。あたしには、よくわかりません……」
マトリカのこの答えに東の長は声を出して笑った。
「いや、不思議なものだ。貴様は人間の血を持つだろうに、人間と言うものを知らないのだな。まあそうだな、教えてやろう」
マトリカは東の長の見下したような態度に少しばかり不快に思ったが、彼女の力強い美しさにその思いもすぐに収まっていくのを感じた。この感覚こそが人間故なのか、とも。
「人間とは遥か昔、多くの王国を築いた短命の種族だ。野蛮にも土地や財宝を巡り戦を繰り返していたという。荒れ果てた土地を見かねた神が手を差し伸べたが、人間は欲のために神をも裏切った。人間とは美しさに固執し、欲に溺れる不完全な生き物なのだ」
人間はとにかく駄目な生き物なのか、とマトリカは考えが、一つ疑問に思うことがあった。
「あたしは、人間であるとして、魔王の血も入っているということですが……その昔の人間と全く同じなのですか」
「いや、違うからややこしいんだ」
東の長は表情を険しくして答えた。
「貴様は人間だが魔王の子でもある。それは貴様は人間でありながら神の子でもあるということだ。見たところ、神とはとても思えないが……エルフは恐ろしいのだ。愚かな人間と古からの悪である魔王のどちらの血も引く貴様がな。そして僅かではあるが数十年に渡りエルフの目も欺き、貴様をエルフのもとで育てるのを許したことが」
マトリカは余計に自分がわからなくなった。ただ、良くないということだけをしきりに繰り返し言われているように思った。
「辺境の荒れ地で、あたしは何をすれば?」
「何もする必要はない」
思わずマトリカは東の長に疑問の目を向ける。東の長は褐色の燃えるような目を逸らすことなく続けた。
「ただ、歩くのみだ。いや——実際のところ、私もそれ以上はわからないのだ。エピフール王にはここまでしか知らされていない。貴様に言えるのはそれだけだ」
マトリカは馬車の外に目を向ける。先程までとは違う、岩の多い大地が広がっていることに気付いた。
「随分と、違いますね。あの森とは……」
心なしか気温も上がったようであり、時折砂煙も舞っている。東の長はフンと鼻を鳴らした。
「ここは東の篝の谷。闇の国に一番近い、不毛の地だ。もう少しで辺境の荒れ地に着く」
「エルフの土地なのに、不毛なんですか? なんか変なの……」
とても美しいエルフたちが住んでいるとは思えない場所だわ、とマトリカは呟いた。
「……今や神々はこの地に目を向けることはない。少ない谷の住人たちで残った木々を守ることしかできない。闇の邪気で多くの草花は既に死んだ」
東の長は唇を噛みしめているようであった。岩のせいか、馬車は大きく揺れる。
「エルフは完璧な存在だと、王は言っていましたが——」
「エルフは今や進化の道を閉ざされている。神が動かなければ、神によって創られた我々は——ああ、着いたようだな」
マトリカは最後に東の長が何と言おうとしたのか気になったが、聞くことはできなかった。東の長はマトリカに馬車から降りるように促す。
マトリカの目の前に広がるのは今まで見たことのない黒い大地であった。立っている場所はまだ僅かに光を感じられたが、あと一歩踏み出せば黒に飲み込まれそうだった。
「多く喋りすぎたが——貴様はこの道を行くしかない。エルフが踏み入ることのできないこの道を行くのだ」
マトリカは今までに見たことのない黒に恐怖を抱いた。だが同時に、この黒を知っているような感覚にもなっていた。東の長の方を振り返るとマトリカは進む前に、ずっと聞きたかったことを言った。
「あの、お名前は? 最後に、ここまで送ってくれた方の名を聞きたいんです」
東の長は驚いたような表情をすると、少し笑って答えた。
「アスキュフラーミュ。炎と灰の乙女だ」
「――素敵な名前。きっとエルフで一番強い美しさを持つ名ですね」
マトリカも同じように笑うと、黒い大地に一歩足を踏み入れた。そして、また一歩と歩き出していく。やがて強い風が吹くと、マトリカの姿は見えなくなった。
「……神が動かなければ——我々は気づかぬうちに影となり得るかもしれん」
アスキュフラーミュは悲しげに呟くと、黒の大地に背を向け去っていった。
「へえ、料理が上手じゃん。こんな味付け食べたことないけど、なかなかいける」
「ああ、僕も食べたことのない味だな。美味しいよ」
「リルソフィア、何故こんなにお料理がお上手なの? わたくしたちがいつも食べているものとは違いますわね」
リルソフィアの家に何故か東以外の長たちが集まり、食事をしていた。リルソフィアは飲み物を注いだり、食器を下げるのに大忙しであった。
「それは、マトリカが好き嫌いが多くて……。味付けをしっかりしないと食べないんです。私が食べていたものは味がないと……淡泊すぎるものは苦手のようで」
「ふーん。つくづく面倒な生き物だな、人間って。よく育てられたもんだよ」
南の長はしっかりと煮込まれたを野菜をかじると溜息をついた。
「いろいろなハーブとか、組み合わせると不思議な味がするんです。今まで食べることは最低限でしたが、マトリカと食べるようになってからは毎日三回食事しているんです」
リルソフィアは食器を洗いながら答えた。すると西の長は驚いた声を上げた。
「一日三回も? 数日は食べなくても問題ないはずなのに、やはり人間との違いなのだろうか、不思議だ」
「ですが魔王の血も流れているというのに、人間味が強いのですねマトリカは」
北の長はナプキンで口を拭きながら言った。
「魔王なら食事など必要なさそうですもの」
「エルフに育てられればそうなるんじゃないの? 環境っていうかさあ」
南の長はまだ野菜をを頬張っている。
リルソフィアは何故長たちがここにいるのか、少し前のことを思い返していた。東の長とマトリカが去った後、エピフール王はリルソフィアに残った長たちに森での生活を見せてやって欲しいと頼まれた。マトリカとの別れの涙も乾かぬまま、そんなことはできないとリルソフィアは一度断ったが、長たちの是非にという勢いに押されてしまったのだった。エピフール王の考えていることを理解することは困難なことである。いきなりマトリカを追放したと思えば自分は長たちに生活の紹介をする——この流れに乗ることを心は拒んだが、乗る他に選択肢はなかった。
「おや、この絵はとても美しいね。この森が良く描かれている」
いつの間にか椅子から離れていた西の長が、壁に飾ってある絵を見て微笑む。細い目を更に細くし絵を見ていた。
「リルソフィア、君が描いたものだね。素晴らしいよ」
リルソフィアはこの言葉に謙遜した。西の長はまだ絵を見つめている。
「……あら、そういえばこの森にある花畑を見たかったのを思い出しましたわ。ほら、わたくしの住む土地は寒いので花の種類が少ないのです。リルソフィア、案内していただける?」
北の長は急にそう言うと立ち上がり、リルソフィアの手を取った。
「俺も行こうかな。南とは違う花って見る機会が少ないし」
南の長もそう言い立ち上がると、玄関の方へと向かった。
「……ヴィンブローサ、あなたはどうします?」
玄関の前で振り返り、北の長は西の長に言った。リルソフィアが初めて聞いた長の名であった。
「いや、僕はもう少し壁にある絵を見ているよ……リルソフィア、いいかな?」
ヴィンブローサは絵から目を逸らさずに尋ねた。リルソフィアはもちろんです、と答えたが、あまりにも食い入るように絵を見つめる姿に少し困惑した。
「よっぽどリルソフィアの絵が気に入ったのですね——さ、わたくしたちは行きましょう」
「さっさと行こうよ。ここは明るい刻が長いけど、やっぱり眠りの刻になると涼しくなるしね」
二人は足早に外に向かう。リルソフィアも北の長の手に引かれて外へと向かった。ヴィンブローサはこちらを見ることはなく黙ったまま、ひらひらと手を振るのであった。そして扉が閉まると絵を指でなぞり、静寂の中で呟く。
「この絵には少々埃が積もっているようだ——払ってやらなければいけないね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます