始まりの涙
四方を森に囲まれた、いつ生まれたのかもわからない大きな大樹がある。葉は夕焼けのように煌めき、昼でも橙の灯りをつけている。その幻想的な大樹の中の階段を上った先に王の間は存在した。
「さあ、入るが良い。粗相のないように」
幾重にも重なった濃い緑の蔦が、王の間への扉となっていた。側近のトリデンが触れると、一斉に蔦たちは左右に這っていく。リルソフィアとマトリカは、トリデンの後を不安そうに続いた。王の間はとても広く吹き抜けであり、左右の大きな窓ガラスからは橙と黄金の光が入っていた。床には緑の絨毯、良い香りのする草が敷き詰められており、王座の周りには王を守るように黄色のヨウラクユリが咲き誇っていた。
「急に申し訳なかった、リルソフィアにマトリカよ」
エピフールは王座から立ち上がり、胸に手をあてて礼をした。
「いいえ、光栄で御座います、エピフール王」
リルソフィアは片膝をつき、王を敬った。だが、マトリカはその場に立ち尽くし、声も出なかった。今まで見た何よりも美しいエピフール王を前にして、呆然とするだけであった。リルソフィアがマトリカのスカートの裾を引っ張ったが、マトリカは動かない。
「よい、リルソフィアよ。この娘はまだ子供であろう。マトリカ、よく来てくれた」
エピフールはマトリカに近づき、微笑みかけた。月夜の瞳がマトリカを捉える。まるで宝石のようだ、とマトリカは見惚れた。そして、瞳を見つめたまま、なんとか声を絞り出した。
「す、すみません。あまりにも、ええと、王様が美しいもので。今まで見たもので、一番です」
月夜の瞳がまた微笑み、絹のような指がマトリカの頬を撫でる。
「それは光栄だ。その言葉を有難く受け取ろう」
マトリカはまた何も言えなくなった。再び何かエピフールが言いかけた時、遮るようにトリデンが咳払いをした。
「エピフール王、そろそろ」
「そうだな。長たちを呼んできてくれ。それとリルソフィア、もう立ち上がりなさい」
何故長たちが、とリルソフィアは疑問に思いながら立ち上がる。
「トリデン様、何のかはわかりませんが、私たちは宴に呼ばれたはずですが、族長の方々が集まる宴というのは……」
リルソフィアの問いかけは淡々とした声に遮られる。
「言葉はいらない、と言ったはずだが」
トリデンがそう言うと、王の間の扉である蔦が動く音がした。リルソフィアとマトリカは思わず扉の方へ振り返る。東西南北の地を治める族長たちが、次々と入ってきていた。
四人は王座を挟むように、二人ずつに分かれて並ぶ。マトリカはそのエルフたちの姿に少し後退りした。エピフール王が王座に座ると、トリデンが先程より大きな声で言った。
「エピフール王、お願い致します」
エピフールは頷くと、目をマトリカに向けた。マトリカは相変わらず美しい瞳に戸惑う。だが、次の言葉に空気は一変する。
「マトリカよ、其方は——人間ではないか?」
美しいがそれは刃物のように鋭い目つきであった。リルソフィアは、そんなはずはない、と訴えた。
「エピフール王、私は赤子の時からこの子を見ていますが、かつての人間のような愚かな部分はございません」
マトリカは心配そうにリルソフィアを見た。人間とは何かがマトリカには分からなかったからだ。
「では、その髪は? 何故そんなに成長が早いのだ。エルフではないのは明らかだろう」
東の長が疑い深い口調で言った。燃えるような深紅の髪を団子にし後ろにまとめ、褐色の瞳から強さを感じるエルフであった。これに続いて、西の長も口を開く。
「エルフでこの成長はないね。リルソフィア、君は疑問に思ったことはないのかな?」
そう言った長はエルフの中でも細い体と瞳をしていた。若葉色の髪も、高い所で細く纏められている。どこか逆らえないその雰囲気にリルソフィアは言葉に詰まっていた。
「というか、この子は自分がリルソフィアと違うと思ったことはないの? 何も報告しないこのエルフの女も無能だけど、何も思わないこの子もあり得ないって」
南の長は鼻で笑った。花浅葱色の髪は水面のようにきらきらと瞬いていたが、錫色の瞳は冷たく二人を捉えていた。
「いくら長とはいえ、言葉遣いがなっていませんよ。わたくし、リルソフィアさんの気持ちもわかりますわ」
北の長が南の長をなだめるように言った。随分とおっとりとした口調であり、真っ白な髪と長いまつ毛は雪そのもののようであった。金色の瞳がまた彼女の神秘さを際立てている。
「拾ったとはいえ、可愛い赤子をここまで育てたのですから、容姿や出自に疑問を持ってもこの子の生を全うさせたいと思うでしょう」
北の長はリルソフィアに微笑みかけた。咳払いをし、トリデンが目線をマトリカに向ける。
「私としては、先程の王への態度こそがエルフではない確固たる証拠だと思っている。マトリカ、お前は王を美しいと思い、見惚れ、触れられた指をもう一度感じたいと考えているだろう」
マトリカにはトリデンの言っている意味が理解できなかった。
「美しいものを美しいと思うことの何が駄目なのですか?」
マトリカの言葉に、トリデンは溜息をつく。
「もちろん、エルフも鳥や花に対して美しいと感じることは多くある。しかし、エルフの美に囚われることはあり得ないのだ」
エルフは自分や他の者の美に固執することはない。それがマトリカが人間である理由だというのだ。たとえ愚かさのない純真な娘であっても、だ。
「人間など、とうの昔に消えたはずでは? この子一人が生き残った人間とでもいうのですか? 神の手を逃れたというのですか」
リルソフィアは焦ったように捲し立てた。何か良くない方向へと話がいくと感じられたからだ。
「生き残るように仕向けられたのだ」
エピフールが口を開く。リルソフィアはすぐに理解ができなかった。
「魔王が、完璧であるエルフを弱らせ壊すために人間を生き残らせ、仕向けたのだろう。神々の目を欺いてな」
この言葉にリルソフィアはすぐに反論する。
「そんな昔の人間が、生きているわけがありません。それに、仮にそうだとしても魔王は何故今頃……」
「人間を交配させ続けたに決まっているだろう」
南の長がまた厳しい口調で言った。
「魔王は生き残した人間を交配させ続けて、生まれるのを待ったんだよ。エルフに愛され破滅させることのできる子が生まれるのをね」
「エルフに愛され、破滅させる……?」
リルソフィアの背筋が急に寒くなった。南の長が呆れたように続けた。
「エルフと交わり、完璧な存在であるエルフの血を弱らせる。そしてまた人間を繁殖させようと考えているんだよ」
「しかし、魔王は人間を繁殖させて何をしたいのですか」
リルソフィアの疑問に、西の長が難しい顔をして答える。
「うーん、リルソフィア、君は魔王が何を糧にして生きているか知らないのかい?魂を保つために国の生気を食べ、身体を得るために神の子の身体を食い破った。そしてその二つを維持するためには、人間の愚かな心が必要だと言われているんだよ」
エルフの国は魔王には眩しすぎるのだ。しかし、リルソフィアにはまだ腑に落ちないところがあった。
「ただの人間にそこまでできるとは思えません。完全であるエルフがそんな簡単に壊れていくのでしょうか」
エピフール王は目を少しばかり閉じると、呟くように言った。
「——では、マトリカが人間と魔王との間にできた子であると言ったら?」
リルソフィアの頭の中は真っ白になった。
「人間同士の交配をさせ、選ばれた人間と魔王が交わり、生まれたその子がマトリカなのだ」
少しばかり悲しい声であった。エピフールは目を閉じたままだ。
「あたしは、なら、あたしは、どうなりますか? エルフにとって良くない存在だということですよね……」
マトリカは不安を露わにして言葉を紡いだ。これまで自分がリルソフィアと違うことは感じていたが、害を成すものだとは夢にも思わなかった。リルソフィアの愛がマトリカの頭を駆け巡る。同時にその愛が去りゆくことも。
「マトリカ、其方はリルソフィアと共にこれからも暮らしたいと思うか」
マトリカはエピフール王のこの言葉に、すぐ答えることはできなかった。リルソフィアの顔を見たがその瞳には涙が溜まっているように見え、何も言葉を口にできなかった。
「王の問いに答えるのだ」
トリデンが厳しく言い放つ。マトリカは一度息を吐くと拳を握りしめ、何かに耐えるように、しかしはっきりと答えた。
「あたしに死ねというならば——もちろん従います、エピフール王」
場の空気が張り詰めたのを誰もが感じた。
「でも、これは私の母であり姉であるリルソフィアのためです。彼女にたくさんの幸福をもらってきました。あたしの死で彼女の未来に影が歩み寄ることがないのなら、死も、あたしの運命であったと思えるでしょう」
リルソフィアは思わず涙した。マトリカの言葉は彼女にとってあまりにも哀しすぎた。
「マトリカよ、其方の死を持ってもこの物語が終わることはないのだ」
エピフール王は閉じていた目を開き、マトリカを見据えた。
「其方が死しても、魂はエルフを創りし神のもとへは行くことができない。恐らく魔王の下へと戻り、魔王はエルフの光を浴びたその魂を、影を生むのに利用するだろう」
「では、どうすれば? 死を持っても駄目ならば、どうすれば?」
マトリカの声は少し震えていた。エピフール王はすぐに答えた。
「神に訊いたが答えはなかった。神はここのところ考えることを止めておられるようなのだ。だが、私は其方が——其方だけが魔王を殺すことができるのではないかと思っている」
長たちが一斉に頷く。
「それしかない、とわたくしたちも思いますわ」
北の長が少し悲しげに言った。
「わたくしたちエルフも、神でさえもあの隠され閉ざされた影の国に行くことはできない。闇が深すぎるのです。ですが、マトリカ、貴方なら闇の力にも耐えることができるでしょう」
エピフールは立ち上がると、強い口調でマトリカに言い放つ。
「マトリカよ、其方をこのエルフの国から追放する。其方は異質であり、木々を枯らせ、心を蝕む——辺境の荒れ地までこの者を追放せよ!」
言葉と共に蔦の扉が開き、東の長がマトリカに手枷をはめた。
「エピフール王、あんまりです。何故――」
リルソフィアが叫ぶように言ったが、東の長はマトリカの腕を掴みながら厳しい声でそれを遮った。
「何も理解できないのなら黙っていろ。この娘のほうがよっぽど理解しているぞ」
リルソフィアはその言葉にハッとしてマトリカを見た。マトリカは悲しそうに微笑んでいた。しかし、その微笑みは何かを覚悟したようでもあった。
「行くぞ、さっさと来い。では王よ、失礼する」
東の長はマトリカを連れて王の間から去っていく。マトリカは蔦の扉が閉じるまでリルソフィアから目を離すことはなかった。マトリカは口を動かし、リルソフィアに言葉を告げた。
——待っていて
リルソフィアの涙は止まることなく、朝露のように青い草を濡らしていくのであった。
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