序章

 其処はかつての姿を思わせない美しい国となっていた。空の神々、創造神は不完全な人間を造ったことを心の底から後悔し、より清らかな種族をこの地に創り住まわせた。自然と豊かさを愛するその者たちはエルフと呼ばれ、幸せに暮らしていた。

 リルソフィアはその美しい国に住む女性であった。いつも赤毛の髪を一つに結び、輝く糸で紡がれた服を着ている。毎日の日課であり仕事でもある絵を描くため、光差す朝暘の森へ来ていた。

 彼女は今まで綺麗なものだけを見て生きてきた。エルフとして、それは当然のことであった。けれどもリルソフィアは自然の姿ばかりを描き、エルフたちの姿を描くことはなかった。エルフは変化することのない完璧な美を持つが、自然は変化し、移ろいゆく。この変化が、朽ちてはまた生まれる儚さが、リルソフィアの心を魅了していたのだった。

「この季節は好きだわ。木々が芽吹いて風も心地良い」

 彼女はいつものようにこの景色を描こうとした。だが、いつも凛々しく咲く花の頭の多くが下がっていることに気がつく。

「おかしいわね……。この季節にこんなに枯れている、なんて」

 これまで枯れた花など幾度となく見てきた。しかし花は枯れているというよりも朽ちているようにリルソフィアには感じられた。いつもの風に、いつもの小鳥の囀り。朽ちた花は乾いた枯れ葉のようであった。

 花に触ろうとした時、どこからか赤子の泣く声が聞こえた。リルソフィアは声のする方へ足を進める。少し離れた大木のそばにその赤子はいた。彼女は赤子に釘付けになった。何故なら、赤子にはエルフでは生まれることのない黒髪の子だったからだ。リルソフィアはしばらく赤子を見つめると、ようやく赤子ぎ汚れた布に包まれており、手に何か紙を握っていたことに気がついた。

「この布、見たことないものだわ。それに、この紙切れは……?」

 リルソフィアは赤子の手から紙切れをゆっくり抜き取った。そこには見たことのない文字が書かれていたが、最後の一文だけがエルフの言葉で書かれていて読むことができた。


 どうか、死からこの子を離して


 赤子は飢えか疲れか、泣き止まない。エルフにはない黒い髪を持つその赤子は何かを求めて泣いている。リルソフィアの体は自然と動いていた。赤子を優しく抱くと、彼女はもう何も言うことなく、森の奥にある家の方角へと向かっていった。


 朝暘の森から山ひとつ離れたところにある王の間では、森を調査していた王の側近が報告に来ていた。

「調査によると、朝暘の森まで枯れた植物などが見られるようです、僅かではありますが。それに、近頃変な生き物を見たいという者がいると、東の方から報告を受けております」

 王座に座るエルフの王エピフールは側近の言葉を受け静かに頷いた。

「トリデンよ、僅かなら良いのだ。変な生き物も、僅かであれば。ただ、もしも、古から住まう大木が悲鳴をあげていたら——考えなくてはならないな」

 金色の髪を揺らし、王は自分の言葉にも頷く。月の光を宿したような紺色の瞳がきらきらと瞬いた。

「しかし、大木のような古の声は私のような平凡な者には到底聞こえません。エピフール王」

 トリデンは申し訳なさそうに言った。エピフールは王座から立ち上がり、その美しい瞳をトリデンに向ける。

「もしもの備えに越したことはない。多くの声を聞ける者たちに準備をするよう伝えるのだ。西の風見の丘、東の篝の谷、北の凍上の砦、南の水鞠の川辺。それぞれの長ならわかるであろう」

 この言葉にトリデンは一度礼をすると、足早に王の間から立ち去った。

 エピフールは神々に問うていた。まだ終わることがないのかと、始まりが来るのかとしかし神々はこのところ沈黙のままであった。心のどこかに、エピフールは不安というものを感じていた。どのエルフよりも長く生きている彼はエルフの完全さこそが、何か危ういものになるのではないかと思うようになっていたのだ。

 しかしこれは誰にも言うことはできない。言葉にすれば、自分さえもが崩れてしまう気がしてならないからである。

 エピフールは耳を澄まし、悲哀の声がないことを何度も何度も確認した。光の溢れる外の景色には、当然のように影ができる。それを拭い去ることは誰にもできはしない。沈黙する神々にエピフールはまた問いかける。

「あなた方が拭い去ることができないならば、私たちエルフにもできる筈がないのです。エルフは光に慣れすぎてしまい、影を思い出せる者はもう少ない。エルフの繁栄をお望みなら、何故私たちは進化できないのか」

 答える者は、やはり何処にもいなかった。


 それから時は過ぎていく。二十年という月日はエルフたちにとってはほんの一瞬のようにも感じられた。

「リル、今日のスケッチは終わった? あたし、さっきリルの膝掛けを縫ったの!」

 長い黒髪の三つ編みを跳ねさせながら少女は木陰でスケッチをしているリルソフィアの横へ座った。少女の名はマトリカという名で、あの日、リルソフィアが抱えて連れ帰った赤子である。

 マトリカは綺麗な柄の入った膝掛けをリルソフィアに広げてみせた。

「まあ、綺麗ね。マトリカの裁縫技術には敵わないわ。もう二千歳になるのに、二十歳の子に負けるなんてなんだか悔しいわ」

 リルソフィアは嬉しそうに膝掛けを眺めていた。

「でも、あたしったら二十歳にもなったのに、リルソフィアは変わらないよね。ずっと綺麗なまま。羨ましいな」

 マトリカは膝掛けをリルソフィアの膝にそっとのせた。リルソフィアは絵を描く手を止めると、マトリカの頬をひんやりとした手のひらで包み込んだ。

「私からしたらあなたの方が美しいわ、マトリカ。夜の帳のような黒い髪なんか特に素敵」

 照れたようにマトリカは笑った。はにかむ彼女のなんと可憐なことだろう、とリルソフィアもつられて微笑むのであった。

 リルソフィアには膝掛けに一つ、気になることがあった。

「この紋様は、あなたのオリジナル? 今まで見たことない、不思議な柄ね」

「それね、良いでしょ? オリジナルよ。本の中から朝と夜が溢れているイメージなの」

 本から光と闇がこぼれ、それをエルフのような者がすくっている様子。マトリカはまた嬉しそうに紋様をなぞった。

「この糸もこの糸も綺麗で大好きなの。リルソフィアがくれる糸はみんなきらきらしていて、ずーっと眺めていられるわ」

 うっとりしたマトリカの声に少し笑いながらリルソフィアはもう一度自分の膝掛けに目を向けた。

 「ここ、なんだか黒く滲んでいるみたい…」

 先程まで金色をしていた、光と闇をすくうエルフのような者の瞳が黒く滲んでいたのだ。

「あれっ、おかしいな。リルソフィアは絵の具使ってないし…糸を知らないうちによごしちゃったのかしら」

 「いえ、そんなはずない。さっきまで——」

 リルソフィアがマトリカの言葉に反論しようとした時、馬の蹄の音がこちらに近づいてきたことに、二人は気がついた。

 真っ白な馬に乗っていたのは男のようであった。この男がエルフ王の側近であることを、男が纏っていたローブを見てリルソフィアは理解した。ローブを留めているブローチがそれを意味していたのだ。

 二人の前に止まると、男は馬に乗ったまま深々と被っていたローブのフードを上げ、青白く光る髪を風の中に大きく舞わせると、はっきりとした声で言った。

「王がお前たちを宴に招待している。言葉は結構。今すぐ馬をもて」

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