#3 片足を幽世につっこんで

 病院廃墟の住居部分。玄関引き戸の鍵は空いている。


「シジュは外で待っていろ」


 肩がわずかに軽くなるのを待ってから屋敷の中へ。

 カビ臭さの残る玄関から、段差が高い上がりかまちを越えて土足で廊下へ。

 一番最初にここへ来た時、白いワンピースに長い髪の何かが後ろ向きに立っていた。あの時はまだ、生きた人間だと思っていたから普通に話しかけた。

 そしてあり得ない角度から首を曲げ、のけぞるようにこちらへ振り向いた女の頭をとっさにつかんで……あのとき俺は無意識に自分の「存在」を消費して、あの霊のマイナス値の「存在」を打ち消したんだ。


 わけも分からずただ闇雲に手を出して運だけで何体かの霊を乗り越えたあのときとは、覚悟も熟練度も違う。

 両手に「1」ずつ「存在」を宿してぎゅっと握りしめる。プラスとマイナスの「存在」をぶつけ合わせるとその「存在」は打ち消し合うが、即座に消えるわけじゃない。特に気合と共に握り込んだ「存在」は、最初に霊の頭をち抜いてから数秒は手の中に残る。消えるまでの間は、霊を連打できる。

 今夜打ち込めるMAXは「29」。少なくとも50匹の悪霊を昇天させてやる。


維知いち……待ってろよ」


 廊下を突き進むと直角の曲がり角。その角の陰に幾つもの「-1」を感じる。

 普通の人の「存在」は「100」。「存在」というのは現実世界に属するパーセンテージのようなものっぽい。霊感がある人は上限が「100」より小さく、「存在」の値が下がれば下がるほど霊をより強く認識できるようになる――それはつまり幽世かくりよへ近づいていくということ。

 「80」を下回ると現実世界の風景がしゃがかかったようにぼんやり見えにくくなる。すると逆に本来は物理的に見えないモノの陰の「存在」も見えるようになる。

 「50」を下回ると現実世界での移動が困難になってくるらしい。だから俺は「50」まで下がりかけたらいったん退くことにしている。それ以上「存在」を失い続けると現実世界を見失い、幽世にごくごく近い世界に漂うしかできなくなる。

 シジュがそうだ。

 シジュはまだ小学生だった頃、この廃墟近くまで来て、元々霊感があったおかげで霊を生きている人間だと勘違いして一緒に遊んだ。シジュたちは鬼ごっこをして、シジュにタッチするとき、シジュの頭に触れた。そう。廃墟ここに居る悪霊どもは、人から「存在」を奪う術を知っている。

 俺も廃墟ここに来たあの最初の夜、白い服の女の頭を偶然つかんでなかったら、シジュと同じ目に遭っていたかもしれない。あの夜、霊のマイナスな「存在」を消した俺を他の悪霊どもが警戒してくれていたおかげで、俺は悪霊ではなく警官に捕まったのだ。

 大声で維知を呼びながら廃墟ここを探しまくっていたからな。近所の人に通報されたっぽい。

 シジュの場合は、誰かに気付かれることなく霊たちと遊び続けて――幽世に近くなると時間の感覚もぼんやりとなくなってゆくっぽくて――やがて、神隠しのように現実世界との接点を見失った。


 俺があの夜の翌日、もう一度廃墟ここを訪れたとき、俺に「あそこは危険だよ」と警告をくれたシジュ。その声を俺が聞くことができたおかげで、とても久しぶりに生きた人間と会話ができたと泣いて喜んだシジュ。

 シジュはシジュを認識できる人には憑いていくことができる。ただ、そういう人たちは自分に憑いてくる霊を見たら大抵は怯えるか祓おうとするかで、シジュは申し訳なさや恐怖からずっと孤独の中に閉じこもっていた。


 初めは俺もシジュのことを廃墟の悪霊の仲間だと思ってた。でも何度もここを訪れ話すうちに、俺が維知を助けるにはシジュの協力が必要だと気付いたんだ。

 シジュは恐らくもう何年もここで「存在」を失いきることなく生き延びてきた。そうやって時間をかけて得た知識を全て俺に教えてくれた。霊の「存在」を打ち消す、この方法も。


 俺が「1」を握り込んだ拳で悪霊を殴り散らすと、病院部分へとつながる廊下へ新しい異形の霊どもが集まってきた。

 最近では霊どもも人の形を崩して近づいてくる。だが「-1」が表示されている限り、俺は奴らを的確に昇天させられる。

 拳に握り込んだ「1」が消えるたび、自分の額から「1」を毟って拳に再チャージする。ここ数日は悪霊に「-2」や「-3」が混ざるようになったが、それぞれ二回、三回と殴ればいいだけ。むしろ敵の本丸が近いのかと気合が入る。

 まだあと「10」は残っている計算……よし、今日こそ。


伶依れい……何やってんの?」


 一瞬、注意を声の方へ向けてしまった。

 その直後、冷たい手が俺の首筋や頬に幾つも触れたのを感じる――ヤバい、「存在」を大量に持ってかれた。

 膝が落ち、地面が近づいた。

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