第4話
中華料理は不滅だった。マチルダは今は水没した華南の料理を食べていた。といっても工作員が生まれた時には今の世界になっていたので、中国という国も知らなかった。
工作員は食事をしながら、助手のマリーをどうするかを考えていた。力ずくで連れてくるのが一番だと思っていた。マリーを倒すことなど造作もなかった。しかし、そうした場合、目立つことが気がかりだった。隠密の行動なので、手錠をつけるわけにも行かず、銃を突きつけることをできなかった。
警備員を倒したので、リゾートの協力はもはや無理になっていた。それにハンには助手を造反させるように言われていた。造反、そもそもマリーが何を考えているかはわからなかった。どんな秘密を持っているのかわからない。何を考えているのかもマチルダにはわからなかった。
ハン補佐官にはいくつかカードを与えられていたが、どれも切り札にはなりえず、「エリート研究者を造反させるのに私のような下っ端で何ができるのか?」と最初に聞いた時から考えていた。気持ちの整理がつかないままに行くしかないとマチルダは考えることにした。
マチルダは食事を終えると、トイレに行き、荷物から装備を出して着替えた。防弾と放熱を抑えるスーツと麻酔銃を所持した。ここからは秘匿された行動が必要だった。カメラやセンサが至る所にあり、隠し通すことは困難だった。
しかし、弱みは何にもあった。特に人間が見ていたり、探されていなければそうだった。マリーのいる別館までは一キロほどあった。南国の茂みにまぎれて進んだ。汗が吹きでてきた。しかし息はあがらなかった。どうやって転向させるかで頭がいっぱいだった。
大きな木の扉を開けると白亜の石の広間につながっていた。中はひんやりとしていて心地よかった。物音はせず、静かに今に進むと、マリーがグラスを片手にビーチを見ていた。涼しげな顔の女で、まったく日に焼けておらず、こちらの様子にも気づいていなかった。マチルダは静かに近づき、麻酔銃を抜いて女に向けた。
「ずいぶん探したわ」
マリーがマチルダの方に振り向いた。
「誰だったかしら」
「私と一緒にきてもらえますか」
「あなたはだれ」
「誰でもいいです。あなたの雇い主の依頼で来ています」
「私は休暇中よ」
「知ってます。そのことは申し訳ないと思っています」
「休暇が終わってからじゃだめかしら」
「すいません、急ぎなんです」
「いやといったら」
「そのときは仕方ありません」
マリーがほほ笑んだ。とっさにマチルダは麻酔銃を発射したが、それはマリーの体を貫通して後ろの壁にささった。その瞬間、マリーの姿が消えた。ホログラムだったのだ。
工作員が驚いていると、工作員の足元の絨毯がめくりあがり、天井に吊りあげられたワイヤーが工作員の足をとらえて、体を天井に吊り下げた。麻酔銃をおとした工作員は体を曲げて、ブーツからナイフを取り出してロープを切り落とそうとしたが、頑強なワイヤーでナイフでは切れなかった。
「あなたを待っていたわ」
隣の部屋からマリーがやってきた。手にはタブレットを持っていた。
「見事にかかったわね」とマリーが言うと、「見事でしたわ。不覚でした」とマチルダが答えた。
「どんな話をもってきたの」とマリーが聞いた。マリーはマチルダからは距離を取って立っていた。マチルダへの警戒は解かなかった。
「どんなって」とマチルダが答えると、「私を誘いに来たんじゃないの?」とマリーが答えた。こうなることは想定済みだったとマリーは言っていた。マチルダが、それなら話は早いとばかりに、「そうですけど」というと、マリーは「どこの組織?」と聞いた。誰が来るかはマリーにはわかっていなかった。
「それはいえません。ただあなたの雇い主の依頼です」とマチルダが繰り返すと、「私を消しに来たってわけね」とマリーは言った。
「いえ、連れに来ただけです。会いたがってました」マリーはマチルダをまじまじ見た。マチルダは武装してきた。無様に吊り上げらているが、これも駆け引きでどうせ自分を殺すつもりだとマリーは思った。さっさと片づけて逃げた方が、でも一人なのはおかしいとも思っていた。自分の出方次第でバックアップメンバーが動き出す可能性もあるとマリーは思った。
「あなたは、武装してきた」とマリーはタブレットの画面を開き、言った。
「あなたをどうしても連れて帰らないといけないのです」と逆さにつるされて顔が赤くなってきているマチルダが言った。両手もだらりと垂らして抵抗する様子にはマリーには見えなかった。
「私を殺しに来たわけじゃない?」とマリーが聞くと、「どうしてそんなことをいうのですか?」とマチルダが答えた。マチルダにはマリーが思うところが分からなかった。
「博士は、すべてをもみ消すように指示した。そして彼を、あれを私に処分させた」とマリーが言うが、「わたしは知らされていないのです」とマチルダは答えるしかなかった。
「あなたは誰かの指示で、同じことを私にしようとしている」とマリーがいうが、マチルダには訳がわからず、駆け引きなどできなかった。そして
「私の任務はあなたをボスに連れて帰ることです」と繰り返し言った。
マリーは本当かどうか、計りかねていた。マチルダの回答はいかにも一辺倒で、こちらのことは何も知らないように思えた。ただ科学者だと言うので軽く見ていたのか無防備に罠にかかった。
「それが本当だって証明して」とマリーがいうと、
「信じてもらうしかない」ととりつく暇もなくマチルダがいう。苦しそうだった。
「私はあなたを殺せる。あなたは近づけば強いけど、私がこのタブレットにタップすればあなたの足のケーブルに高電圧がかかる。でもそんなことはしなくない。だから証明して」
とマリーが言うと「なにも持っていないんです」が苦し気に答えた。
マリーはマチルダを見ていた。長いこと逆さ吊りにされた顔が紅潮していた。人間はどれだけ逆さにされたら死ぬのかしら。マリーには分からなかった。
「いいわ、じゃあ質問する。あなたのボスの名前をいいなさい」
「いえないです」
「わかってないわね。あなたの命は私が握っていて、私はあなたの説得を受けようとしているのよ。歩み寄りなさい」
「わかりました。ハン大統領補佐官です」
助手は少なからずおどろいた。そのレベルの人間が来るなんて意外だったのだ。
「あなたへの指示はなに」
「話します。私の任務はあなたと博士を探して、大統領に会わせることです。あなたたちの仕事の話を聞きたがってると聞いています」
「それでどうするって聞いている?」
「聞いていません。あなたたちの仕事が何であるかも」
マリーはしばし考えこんだ。この中吊りの女は何も知らないかもしれないと信じ始めていた。
「博士は見つかったの?」
「いえ、博士の行方は分からないのです」
「それは本当?」
「本当です」
マリーは思い出した。あの日、兼田博士はおかしかった。いつも着ていない服を着ていた。何か企んでいる様子だった。
「最後に聞くわ。あなたはハン大統領補佐官とは長いの?」
「はい、新人のころから世話になっています」
「じゃあ、彼の娘のファーストネームはなに?」
「マレイダです」とマチルダは答えた。マリーはマレイダに会ったことがあった。マレイダの科学の勉強をハン大統領補佐官に頼まれてみたことがあったのだった。
「いいわ、あなたを信じるわ。」
マリーは、タブレットを操作し、マチルダはゆっくりと降ろされた。
マリーはマチルダに対する緊張を解けなかったが、マチルダはこれで任務は果たせそうなので、握手を求めほほ笑んだ。工作員が科学者に負けたとかはどうでもいいことだった、相手の方が上手だったのだ。そう思うことにした。結果がすべてだから。ハンに報告するときに少し怒られるかもしれないが、マリーが黙ってついてきてくれることが何よりだった。説得する方法を持っていなかったからだった。マチルダが打ち解けたので、マリーもやがてリラックスし始めた。マチルダはマリーに頼んで、シャワーを借りて汗を流し、戦闘服を脱いで、リゾート風のワンピースをマリーに借りて着た。そして、マリーとマチルダは紅茶を一緒に飲んでから、空港にむかうシャトルに乗った。
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