第55話 名前


 文化祭最終日の夕方。

 周囲は文化祭の片付けに追われている中、僕は沙夜を鯉のいる池に呼び出していた。


「今日はあなたが私を今か、今かと待っていることに疑問を持ちます」と沙夜は文句を言いながら現れた。


「悪いな。片付けの最中に呼び出して」


「いいえ。問題ありません。それよりも話というのは何でしょうか」


「あぁ……うん。今から言うことは僕たちの関係を崩すかもしれない。それでも聞いてくれるか?」


「お断りします。と言ったらどうするのでしょう」


「それでも聞いてもらう」


「私の選択肢はないということですか。続けて下さい」


 沙夜は諦めたようにため息を吐く。


「沙夜。僕の名前を呼んでくれないか」


「急に何を言っているのかよくわかりません」


「気付いていたか? 沙夜が僕の隣に引っ越して以来、今日までずっと沙夜は僕の名前を呼んだことがない。一度も」


「それくらい気付いています」


「じゃ、何で呼んでくれないんだ」


「何故、呼ぶ必要があるのでしょうか」


「寂しいからだ」


「寂しい?」


「名前を呼ぶことは相手に問いかけると言うことだ。呼ばれなければ独り言と同じだ。僕が呼んでいるだけじゃ一方通行じゃないか。だから、演技でも良い。名前を呼んでくれないか」


「私があなたの名前を呼ばないのは怖いからです」


「怖い?」


「名前を呼んだことで離れてしまうのではないかと思うからです。確かに名前を呼べば親しくなれます。しかし、親しくなった後に離れてしまえば精神的に怖くなります。それならば初めから名前を呼ばなければいいです。離れたとしても問題ないよう名前を呼ばないようにしていました」


 初めて沙夜が名前を呼ばない理由を語った。沙夜は僕と離れることを恐れて呼ばなかった訳だ。


「僕は沙夜の前から離れないって約束する」


「本当ですか?」


「あぁ、だから名前を呼んでくれないか?」


「その前に一つ、お話があります」


「何?」


「私の世話役ですが、今日限りで解約したいと思っています」


 僕から辞めようと切り出すつもりが先に沙夜に言われてしまった。その経緯はなんだろうか。


「理由を聞いてもいいか」


「はい。理由としまして、これからはあなたの力なく自分の力でも成長したいと考えたからです。確かに私を単独にさせると何をするか自分でも分かりません。でも、もう子供じゃないんです。これから自分のことは自分で解決したいんです。ですから世話役としては終わりですが、これからは影で私を見守ってくれませんか?」


「も、勿論だよ」


「そうですか。ありがとう。太陽」


 沙夜が初めて僕の名前を呼んだ瞬間だった。僕は何年越しで名前を読んでくれたことに感動した。やっと呼んでくれたと嬉しくて堪らない。


「それともう一つお話があります」


「な、何?」


「私はあなたのことが……いえ、太陽のことが以前から好きでした。勿論、恋愛対象として。しかし、私は太陽と恋人同士になりたいとかイチャイチャしたいとか望みません」


「そ、それは何故かな?」


「私にはまだ早いと感じたからです。それに太陽は私以外に好きな人がいます。恋のトラブルに首を突っ込むほど出来た人間ではありません」


「知っていたの?」


「はい。私は人間観察をしてある程度の感情を読み取ることが可能です。結果、太陽の好きな人はずっとこちらを見つめているあの人だと推測します」と沙夜は僕の後ろに指を差した。


 え? と思い、後ろを振り返ると壁から誰かが隠れる姿を発見する。

 その正体は春風だった。


「やぁ、夏宗君。こんなところで奇遇だね」


「何故、隠れて見ているんだ」


「たまたま通りかかって。そしたら出るに出られなくて。それよりも夏宗君。私のこと好きなんだね。知らなかったよ」


「あ、いや、その」


 僕は赤面で目を逸らした。意外な形で春風に思いを知らされてしまった。恥ずかしすぎて逃げ出したいくらいだ。


「私はあなたたちがとてもお似合いだと思います。どうぞ、私を気になさらずお付き合いしてはどうでしょう」と、沙夜は後ろから背中を押す。意外な恋のキューピットに僕は戸惑う。


 いや、ここで言わなければいつ言うんだ。


「春風!」


「は、はい」


「僕と付き合って下さい」


 僕は手を差し出した。言っちゃった。つい流れで告白した。もう後戻りは出来ない。


「ごめん……なさい」


 と、あっさり振られてしまった。ショックで顔を上げられなかった。差し出した手は震えが止まらなかった。


「あ、その、勘違いしないでね。嫌って訳じゃないの。ただ、今の私は彼氏を作る余裕がないと言うか集中したの。夏宗くんなら分かるよね」


 そう、春風は女優という夢の為に今を頑張りたいということである。それは分かっている。それでもショックは大きい。


「うん。ごめん」


 僕は作り笑いをしながら顔を上げた。


「一つだけ約束したいんだけど、タイミングが合えば付き合ってもいいよ。それまで待って欲しいかな」


「それって……」


「うん。両思いってやつ。付き合うとゴールみたいで嫌なんだよね。私はゴールまでの道のりを楽しみたいタイプだから。面倒くさいと思うけど、勘弁してよ」


「う、うん」


「じゃ、私は先輩たちの手伝いがあるから行くね」


 駆け足で春風は行ってしまった。その足取りはそわそわしたように感じた。


「日本人独自のお世辞というものです。本気にしないことをお勧めします」


 と、沙夜は身も蓋もないことを言う。


「え? 両思いってハッキリ言ったし」


「本気にしないことをお勧めします」


「もう、分かんないよ。どっちだ!」


このモヤモヤをどこかにぶつけたいが沙夜には出来なかった。

ただ僕は頭を抱えることしか出来なかった。

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