第38話 主演の練習
「私でしょうか。どうしてもと言うのであればやらない手はないでしょう」
ある一文の劇のセリフであるが何かが違うと僕は感じる。
全体的に口調、表情、仕草といった全てが大きくずれていた。それに台本では崩したセリフなのに沙夜が喋るとわざわざ敬語に直して喋るので台本とは違った演技になってしまう。
そもそも、主役を沙夜に立候補をさせることには成功できたが、いざ演技をさせようとすると難しいものであった。まず基本的な演技が出来ておらずこれでは素人以下であり、とてもではないが今のままでは本番までには間に合わない。演技ともなれば役になりきり熱演しなければならない。だが、沙夜は演技というよりも沙夜本人がそのまま出てきてしまったようなものだ。それでは話にならない。
「沙夜、僕が無理やり主演を立候補させてしまったが、今の沙夜にはその役は到底務まらない」
「私は最初から無理であると宣言していました。しかし、あなたがどうしてもと言うので私は無理を承知で役を引き受けました。なんでしたら、立候補を辞める選択も取るべきでしょうか」
「逆だよ。何がなんでも本番までに完璧な役に仕上げよう。僕は全面に沙夜のサポートをするから」
「ありがとうございます」
とは言ったものの本当に本番までに役を仕上げることができるのだろうか。
第一、その役そのものを掴み取ることができるのか。
僕は言った後に不安を感じた。沙夜の為に作られたシナリオだとしてもそれを素直に沙夜が演じられるとは限らない。沙夜以外にも演技が上手い人は何人もいるのも事実。その中から役をもぎ取ることすら容易ではない。僕はある人に頼ることにした。
「冬月さん。やる気になってくれたんだ。ありがとう。シナリオを作った身としては嬉しい限りだよ」
白雪先輩は笑顔で言った。
「実は白雪先輩に折り入って相談があるんですが」
「相談? 何かしら」
「実は沙夜の演技についてなんですが、どうもうまくいかなくて」
「そう、まぁ、口で説明しても分からないから実際に見せてもらってもいいかな?」
そのようにお願いされて沙夜に実際の演技をさせてみる。
一連の流れを披露している間は何も言葉を挟まず、ただ黙って演技を見ていた。演技が終わったところでようやく白雪先輩は口を開く。
「うん。冬月さん。まず、見させて思ったのが全てのセリフを言えている。全部覚えたとしたら凄いよ」
「私は一晩台本を読み込んで全て覚えてきました」
物覚えが良い沙夜にとってセリフの暗記力は凄まじい。昨日の今日で何も見ずに言い切るのは才能とも言える。そこは褒めてあげる部分だ。問題はその後だ。
「ただ、勝手に敬語に直して言うのは感心しないな。演技なんだからその通りに言わないと」
「はい。申し訳ありません」
「それと役になりきれていない。それが演技として欠点かな。私から言わせれば、やる気あるの? と言いたいレベルだよ。主演をやってほしいとお願いしといてなんだけど、この程度の演技を続けるのであれば舞台に立たないでほしいかな。悪いけど」
それは僕も思ったところだ。白雪さんは落ち着いた雰囲気とは似合わず、厳しい言い方をする。普段と部活では熱の入り方がまるで違う。さすが誰よりも努力してきただけはある。白雪先輩には説得力がある。
「白雪先輩。沙夜はこれでも一生懸命です。ただ、演技のやり方が分からないだけです。だからどうすれば出来るか、明確なアドバイスを貰えませんか?」
僕は頭を下げながらお願いをする。
「夏宗君はやる気みたいだけど、冬月さんは本気でやる気ある?」
「私は……本気です。自分を変える為にもやります」
沙夜は無表情ながら目は本気だった。
「そう、気持ちはよく分かりました。じゃ、発声練習をしましょう。冬月さん。今、読んでいる小説はあるかな?」
「はい。私の現在のお気に入りは純文学のこの小説になります」
と、沙夜は鞄から図書室で借りた小説を掲げた。
「その本、私も好きだよ。本の内容について語り合いたいところだけど、それはまたの機会にしましょう。今は演劇。冬月さん、自分の読んでいる所の続きから大声で朗読してくれないかな?」
白雪先輩が指示したのは小説の朗読だった。
しかし、ここは体育館で他の部が練習で使っている最中だ。こんなところで朗読をしていたら大きな晒し者だ。
「この場所でやるのですか?」と、沙夜は当然ながら疑問を抱く。
「うん。出来ない?」
白雪先輩は完全に沙夜を試している。注目の的になると同時に恥ずかしさもある。僕なら出来ない。だが、ここで断れば、沙夜はそれまでだ。
「出来ます」と、沙夜は宣言した。
「じゃ、いってみよう」
沙夜は大きく深呼吸をする。吸って吐いてを三回繰り返す。
集中しているようだ。そして、沙夜は朗読した。
突然の大声に練習中だったバスケ部員、バレー部員、卓球部員は動きを止めて沙夜の方に振り向く。
視線が集まっても沙夜は気にすることなく小説の朗読を続けた。
滑舌がよくてとても聞き取りやすい。
声の大きさも体育館全体に響き渡る大きさで観客がいたら後ろの席まで声が届くだろう。
やっていることは国語の授業で先生に教科書の朗読を指名されたような感覚だ。沙夜の場合は慣れている。
十分くらい朗読した頃だった。黙って聞いていた白雪先輩は腰を上げる。
「冬月さん。もう充分よ。お疲れ様」
「はい」
沙夜は急に素に戻ったのか、声に力がなくなっていた。
「声は出ているから合格かな。ただ、やっぱりセリフのところになると棒読みになるか」
白雪先輩は感想を述べた。暗記力、発声は合格だが、演劇として最も重要なセリフが欠点となれば大きな痛手だ。
「白雪先輩。どうしたらよくなりますか?」と、僕は聞く。
「まずは台本をそのままで言いましょうか。その後に段々感情を込めればきっと良くなるよ。私も出来ることはするから一緒に頑張ろう」
「はい。ありがとうございます。今後も何卒、宜しくお願い致します」
「うん。固いわ」
沙夜の苦手なセリフはより大きな課題を与えた。克服するにはまだ時間を要することになる。それでも僕も出来ることは協力するつもりだ。
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