第25話 歌舞伎俳優の父親
数十分後、黒のベンツが敷地内に入って来るのが見えた。
「お、親父が帰ってきた」
「本当に?」
春風は飛びつくように言った。
車から降りてこちらに近づいてきたのは正真正銘、秋山修造本人で間違いなかった。
「紅葉のお友達かな? ようこそ。今日はゆっくりしていってくれ」
渋い顔であるが、目元が優しく元気がある人だった。見た目は結構若く見える。三十代でもまだいけそうな顔立ちである。確かに秋山と親子であると言うのは本当のようだ。
有名人とこうして向き合うのは初めてのことで緊張が高ぶる。誰よりも緊張しているのは僕より春風の方だろう。
「は、は、は、は、初めまして! 私、紅葉君の友達で春風桃華と言います。昔から修造さんのファンで歌舞伎の舞台にも行ったことがあります。今日、お会い出来ることが楽しみにしていました。会えて光栄です」
春風は四十五度のお辞儀をする。緊張のあまり凄まじい早口で言う。会いたかったという感情が表に出ていた。
「ほう、そうなのか。君みたいな可愛い子にファンになってもらって私も嬉しいよ」
「可愛いだなんて。あの、握手してもらってもいいですか?」
「勿論だよ」
修造さんと春風は握手を交わした。
春風は触れられた手を大事そうに眺める。
「あの、もう一つお願いがありまして」
「何かな?」
「サイン下さい」
春風は自前でサイン色紙とサインペンを差し出した。
「あぁ、貸して」
修造さんは春風の名前入りでサインをしてあげた。
「ありがとうございます。額に入れて大切にします」
「おぉ、そうか。ありがとう。君たちはいいのかい」
と、修造さんは僕と沙夜に言う。
「えっと、僕たちはその……」
「あなたに辞めて頂きたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」と、沙夜は言う。
「ん? 何かな?」
「これ以上、息子さんにプレッシャーという圧力を与えるのは……」
「だー! すみません。なんでもありません。お気になさらず」
僕は寸前のところで沙夜の口を塞いだ。嫌な予感はしたが、見事に的中した。
秋山の為とはいえ、有名人に説教をするとはどういうつもりだろうか。
幾ら何でも無神経すぎる。
あれほど人様の家庭の事情に口出しするなと言っても沙夜は聞く耳を持たない。うまく制御するのは世話役の僕の務めだ。
沙夜が問題を起こさない為にも僕がこうして注意深く見ていなくてはならないのだ。
修造さんは首を傾げながら行ってしまう。多忙の生活を続ける修造さんは仮眠を摂る為に寝室に行ってしまった。この後も仕事が残っているというのでその多忙さは計り知れない。流石、ベテランで売れっ子歌舞伎俳優ということはある。
「もが、もがが!」
修造さんが行ったところで僕は沙夜を離す。
「何をするんですか」と、沙夜は不機嫌な口調で言う。
「それは僕のセリフだ。あまり問題を起こさないでくれ」
「気分を害されました。よって私はやけ食いするとしましょう」
と、沙夜はイライラが収まらないのか、肉の方へ向かう。少しは大人しくしてほしいものだ。
「悪いな。親父に会うのを楽しみに来てくれたのに少ししか会えなくて」
「いいのよ。会えただけで良かった。それに疲れているのに私のわがままを聞いてくれたし」
「まぁ、お詫びにどんどん好きなもの食べてくれ」
みんながバーベキューのテーブルに視線を向けた時だった。
僕たちは信じられない光景を目にしてしまう。
四人前あった肉がほとんどなくなっていた。
残ったのは玉ねぎやピーマンの野菜だけである。
「私は満腹で動けません。苦しいです」
沙夜が腹を抱えながら言った。
見て気づいた。沙夜が一人で食べてしまったのだと。
あの小さな身体にどうやって詰め込んだのか疑問である。そもそも一瞬で肉を食べ切るとはどれほど早食いなのだろうか。
「やられた」と僕たち三人は呟いていた。
僕が邪魔をした腹いせなのだろうか。
「安心しろ。肉はまだあると思うから。それに締めの焼きそばがあるからそれを食べればいいさ」
「あぁ、恩に切るよ。秋山」
「気にするな。いつものことだろう」
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