第18話 過去編④


 すぐに警察に連絡することも考えたが、事態は一刻も争う出来事だった。信号に助けられてバイクに追いつくことができたが、またすぐに離されてしまう。子供の足でバイクに追いつくのは余りにも無謀であった。

 見失ってしまって一時間も経過してしまった。それでも諦めきれなかった。目の前で沙夜が連れ去られてしまった。止めきれなかった責任が重くのし掛かった。


「沙夜、沙夜、沙夜。頼む。無事でいてくれ」


 僕は無我夢中で叫んだ。必死に沙夜の名前を呼んだ。

 息を切らし、塀にもたれて呼吸を整えた。すると、アパートの駐輪場に目がいく。ナンバープレートが折り曲げられたバイク。あれは間違いなくあの男が運転していたバイクに違いなかった。

 と、言うことは、男はここのアパートの住人となる。近所に住んでいて助かった。おかげで沙夜の居場所が掴めたのだから。

 古いアパートで十二部屋あり、二階建ての構造になっていた。果たして男はどこの部屋に潜んでいるのだろうか。


 まずは一階のベランダに背伸びをして部屋の中の様子を伺う。一階は人の気配がなく外出中であることが分かった。となれば二階にいることが推定される。

 二階のベランダは登るには難しい。

 正面から呼び鈴を鳴らす訳にもいかず、頭を悩ませた。するとアパートの敷地内にある木に視線がいった。あれに登れば中の様子が見えるかもしれない。

 僕は木に手と足をかけて登り始めた。思ったよりも簡単に登ることができてあっという間に二階のベランダ付近の高さまで登り詰めた。

 ほとんどの部屋にはカーテンが閉め切っており、中の様子が見えなかった。

 洗濯物が干されており、女性の物があるのは除外でいいだろう。

 男物が干されており、室内に人の気配が感じられる部屋が一部屋確認できた。一番右の部屋である。おそらくあの部屋に沙夜がいる。

 シルエットから男の姿が確認でき、立った姿で何かを掲げている姿だった。沙夜の悲鳴は聞こえない。中の様子が全く分からないのが不安だった。どうやって確認すればいいのだろうか。木からベランダに飛び移るには距離があった。

 どうすればいいのか。地面に転がっている野球ボールに目がいき、閃く。あれで窓ガラスを割ろう。一番右の部屋だけ窓がある。あそこの窓を投げつける。勢い良く、投げてガッシャーンと響き渡る音が周囲に届いた。これを騒ぎに周囲の人が駆けつけてくれるかもしれない。急いで男の部屋に向かい、ノックをする。


「どうかしましたか?」と、声を低くしながら呼びかける。


 男は「なんでもないですよ。ちょっと身体をぶつけてしまっただけですよ」と適当なことを口にする。

 被害者なら誰かに知らせる為に出てくるところだが、男は隠そうとしている。中に見られたくないものがある証拠だ。想像が確信に変わる。


「そういう訳にもいかないんですよ」


 と、僕は外に落ちていたバッドを大きく振りかざし、ドアノブに叩きつけた。


 その衝撃でドアが開く。

 古いアパートなのであっさり破壊することに成功した。

 部屋の中に僕は土足のまま突入した。

 すると、目の前には間違いなく、沙夜を連れ去った男だった。


「沙夜!」


 僕は男を押し退けて、リビングの方へ駆け寄る。

 リビングには半裸の状態でぐったりと倒れた沙夜の姿があった。その周辺には沙夜の服とメガネが無造作に散らばっていた。すぐに僕は沙夜に駆け寄り、呼びかける。手を顔に当てる。息はしている。とりあえず生きている。だが、身体の至る所に擦り傷があり、血が流れていた。


「沙夜……」


 僕はどうしたらいいのか分からなかった。


「全く、楽しい時間を邪魔してくれちゃって。どうしてくれるんだよ」


 背後から男は言った。


「お前! 沙夜に何をした!」


 振り向いたその時、男の手には包丁が掲げられていた。その姿に僕は怖じ気ついてしまった。


「やっぱり小学生の女の子は肌が初々しくて魅力だよ。そんな綺麗な肌を痛めつけてみたいという衝動は抑えきれないんだよ。彼女、どんなに傷つけても悲鳴も挙げないからおじさんも興奮してね。気づいたら倒れちゃった。全く嫌になっちゃうよ。綺麗に悲鳴をあげたら良かったものの」


 男はゲスな笑みを浮かべながら言った。


「よくも、よくも沙夜を傷つけたな」


「おやおや〜? 怒っているの? 困ったな。男の子には興味がないけど、おじさんの邪魔をするようであればタダじゃ済まないよ」


 小馬鹿にしたように男は言う。相手は刃物を持っている。

 それに比べ、僕は何もなく後ろには沙夜がいる。逃げる訳にもいかない。ドアノブを破壊した時に使ったバッドをフロアに置いて来てしまったことを後悔した。

 逃げ場はない。

 男は少しずつ僕に距離を詰める。僕はなんて無力なんだ。


「さぁ、大人くし死ね」


 万事休す。ここまでか。僕は目を瞑って歯を食いしばった。


「…………?」


 身体に痛みを感じない。僕はゆっくりと瞼を開けた。


「え?」


 僕は衝撃的な光景を目の当たりにした。

 沙夜が素手で包丁を鷲掴みにしていたのだ。手から血が溢れて床に垂れていた。


「沙夜……どうして?」


「今のうちです」


 沙夜のその言葉に僕は理解した。


「わー!」


 僕は動きが鈍った男にタックルを決めた。馬乗りになり、気を失うまで拳を振るった。人を殴ったのはこの時が初めてだった。

 しかし、怒りと悲しみでその時の感覚は覚えていない。

 ただ、許せないという気持ちで拳を動かしていた。


 その後、騒ぎに駆けつけた人たちに助けられて男は連行された。

 そして、僕と沙夜は病院に緊急搬送されることになった。

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