冷やし中華の終焉
北緒りお
冷やし中華の終焉
「海行こうぜ」と柏木がゴネ始めた。
散々飲み歩き、ちょっと何か食べようと立ち寄ったラーメン屋で冷やし中華を待ってる中、グラスにビールを注ぎながら言い出したのだった。
店は駅から国道に抜ける一本道の、国道側ちょっと手前という立地なのだが、その周辺に林立している飲み屋のおかげで夜遅くどころか週末になると明け方近くまで普通のラーメン屋のメニューを提供してくれる希有な店で、計画もなく飲み歩いている俺たちみたいなのが食べ物を過剰摂取する最終地点であり、翌朝の後悔の原因でもあるのだった。呑んだ後の締めのラーメン、というよりは、飲み過ぎて感覚がおかしくなり惰性で何か貪(むさぼ)るのにちょうどいい。似たような酒飲みが多いのか、いつどんな時間に入っても必ず他の客がいた。
俺たちは店の奥の方へずかずかと入っていき、中華料理屋以外ではお目にかかることがない朱色のテーブル席に陣取り、真夏とは言え早朝という時間には似つかわしくない冷やし中華の登場を待つ間、無駄話をしているのだった。
「おまえさあ、泳げないんじゃなかったっけ」とは松井だ。
呑み疲れているのか、半分眠ったような顔をしているが、言葉はきつい。
「海に行ってなにすんの?」と続けて投げかける。
柏木は待ってましたとばかりに続ける「夏だしさ、海に行けば出会いがあるかもしんないじゃん」と少し呂律(ろれつ)が怪しいながらも、きちんと返事をする。
夜明けまでの時間をカウントダウンした方が早いような時間だ。もう少しで始発が出るぐらいだろうか。冷やし中華が似合うような昼日中の時間ならば、この提案も少しは暖かく迎え入れられたかもしれないが、動いている人間がコンビニぐらいでしか見られない深夜に口にすることではない。
「仮にここが海の目の前だとして、というか、この店が海の家だとしてもだ。こんな時間に人がいると思うか?」
柏木は「人のいない浜に店を出す奴が悪い」とばっさり切っているが、返す刀の方向が違うところが酔っぱらいらしい。
「こんな時間に行ったって、女の子どころか人がいないって」と半ば言い捨てるように返すが、柏木はしつこく食いつく。
「でもさ、夏だしさ、海行かないと」と、ただでさえ活動しているか疑わしい脳細胞がアルコールで鈍化して、話の流れを完全に無視して自分の言いたいことを繰り返している。
冷やし中華は来る気配がない。
場つなぎで頼んだつもりのビールがぐんぐんなくなっていき、追加を注文する。松井がよく通る太い声で厨房の奥にオーダーをすると、返事はすぐに返ってきて、即座にビールが運ばれてくる。
ビールを受け取りながら、何かすぐに出るつまみがあったらそれもお願い、と追加のオーダーをし、いつの間にやら酒を呑むモードに戻っているのだった。
お冷やを入れるグラスがビール用として出されているが、まったく冷えてなく、なおかつビール自体もそんなに冷えていない。こんな時間にビールが冷え切らないほど回転するというのも、飲み屋街のラーメン屋で消費が多いからなのかと思ったが、そもそも冷蔵庫が古くて冷えが悪いのかもと余計な探索をしていた。
ビール同様に電光石火で運ばれてくるザーサイとチャーシューの盛り合わせをつまようじでつまみながら柏木はぼやく。
「夏だぜ。おまえらと酒を飲んで終わるなんて、人生の無駄遣いじゃん」
今日の飲みを言い出したのは柏木だ。
どの口が言うかと思ったところで松井が返す。
「泳げもしないし、そもそも海なんて数年行ってないようなおまえさんが急に行ってどうしようって言うんだよ」と半ば笑いながら質問する。
「海じゃん、ナンパじゃん」と柏木が言うが、そこにもすぐに松井は「おまえ、ナンパなんかしたことないじゃんよ」と無碍(むげ)にあしらう。
「そうじゃないって、行くのに意味があるんだって」と柏木がごねているが、もはや俺と松井は話を聞くよりも駄々をこねる柏木をおもちゃにしているような感覚だった。
「だからさ、柏木さ、海行ってどうすんだって」と松井が優しく聞き直す。
柏木がなにやら考えるような仕草をしている。左手の人差し指で眉毛とこめかみの間を掻いているのかさすっているのかしている。よっぱらいが黙りこくる時は十中八九よくない出来事の前触れなのだが、柏木は単純なおかげで、具合が悪いのか考えていのか、その仕草で表に出るのが安心でき、数少ないいいところだなと思っていた。
しばらく黙り込み、ザーサイを噛んだり、ビールを飲んだりして返事が来る様子がない。別の話題でも出そうかと口を開こうとしたところで、柏木の動きが変わった。手にしたビールの残りをぐいっと一息に飲み干し、何かを決意するかのようにグラスを音を立ててテーブルに置く。
「やっぱさ、夏は海だ」
話は一ミリも進展していない。
松井は静かにチャーシューを口にし、俺はビールの追加を注文した。
冷やし中華は来ないがビールだけはすぐに出てくる。
柏木のグラスに注いでやりながら、海のなにがいいのかを聞いてみる。
「広いし、大きいし、涼しいし、最高じゃん」と、童謡レベルの返事が返ってくる。
「仕事するのはかまわないけど、毎日同じもんしか見ないし、朝と夕方にしか自分の時間がないだろ」と続ける。
ああ、そうだな。と返事をする。
「この時期なんて、ただ駅前を歩いているだけでも、なんかのびのびしている気がするのに、毎日がルーティンの無限地獄みたいなもんじゃ、やせ細っちまうじゃん」とほやく。
松井はすかさず「おまえ、腹が出てきたってさっきぼやいてたけどな」と混ぜっ返すが、柏木は気にしない。
「夏たって、七月の終わりぐらいから始まって八月の下旬になりゃ秋じゃん、そんな長くはない」と言う。
酔っぱらいのくせにまともなことを言えているということは、普段からそんなことを考えているのだろう。
松井は少し目を見張ったようにして柏木を見て一言「そうだよなあ」と言う。俺と同じように柏木からそんなまともな考えが出てくるとは思わなかったのだろう。
柏木は続ける。
「あっという間に終わるくせに、なんかいつまでも続いてそうな雰囲気を出してくんじゃん、夏って。その割には、終わりぐらいになって、今年も夏が終わったって、妙に悲しい気持ちにっさせてくるんだぜ? 一度はさ、夏を自分たちのもんにしとかないとさ」とこぼす。
柏木は気付いてないが、すでにひまわりは種をつけ始め、海水浴場ではクラゲが出始めているはずだ。毎年の何となくの後悔を気付いたまではいいが、例年通りに終わってから気付いたのだろう。
松井はなにかしら考えるように斜めちょっと上を眺める。そして、少しばかりにやりとしたかと思うと、柏木に言う。
「じゃあさ、花火はどうだ? それだったらすぐできるぞ」
すぐできるぞ、はいいが、白々と夜は空け始めている。近くにある広めの公園たって住宅街の真ん中だ。そんなところで、こんな時間から花火を始めよう物なら、女の子をひっかけるところか、お巡りさんにお持ち帰りされてしまう。
けれども、柏木の一言でその心配は杞憂になった。
「花火は年中できるじゃねぇか、夏は海!」と言いきる。
この男は真冬でも花火をしているのだろうか。長いつきあいだがそんなことは聞いたことはない。
「じゃあさ、すいか割りはどうだ?」と松井はけしかける。
公園でやるつもりならば、砂場でやろうというのだろうか。公園の砂場なんてのは、猫の公衆便所みたいなもんだ。そんなところで割ったすいかは食べたくはない。
「うーみ!」と柏木は拒否する。
「夏は判った。海になにを求めてる?」と松井が話の流れを変える。
「海に行けば裸になるだろ? 夏じゃん」と柏木。
金曜の夜から飲み歩いているからみんな仕事の格好で集まっている。
柏木はスーツだし、松井は近所なのもあり仕事着から着替えてきたもののデニムにラガーシャツだ。海から一番距離がある格好をしている柏木は、その格好のままで海に行って裸になろうと思っている。
「朝日たって、暑いぞ」と松井は続ける。
「だからさ、裸になるんじゃん」と話に熱が入り高揚しているのか、それとも酒で赤くなっているのか判らないような顔色で柏木は答える。
「行くだけ行ってみてもいいかなあ」と松井が折れる。
正直、飲み続けてけだるくなっている体で一時間ちょっと電車に揺られ海に行くのは乗り気ではないが、柏木がそこまで言うならつきあってみるのもいいかと考えてみる。考えてはみるが、めんどくさいことには変わらない。
「なあ、こっから一番近い海ってどこだ?」と柏木が聞く。
いまさら、その質問からなのかと思ったが、こっちも酔っぱらっているのもあり、素直に考え始める。
話の中の一瞬の隙間に柏木がぽつっとつぶやく
「なんかしてもなにも起きないだろうけど、なにもしなきゃなにも起きないのは確定だからよ」
酔っぱらいのくせにいいこと言うじゃねぇかと思いかけたが、よくよく考えたらその言葉以上の深みはない。
「おまえがやりたい事ってのはなんかなんのか?」と松井がこのやりとりの始めの話を蒸し返す。
柏木はもはや眠いらしく、首は前に垂れ、頭は下がり、体はぐらぐらしている。
「夏を楽しみてぇんだよなぁ」と呂律(ろれつ)も怪しいなか、やっと本音らしい言葉が出てくる。
たかだか会社勤めをしているだけで社会人みたいな顔になってしまって、勤め先が引いた休日でしか休めなくなっている。それも、ケチくさく必要最小限の休みしか出さないものだから、なにかしらの事に没頭するような時間なんんてものはあるわけもない。一日中遊びほうけている時間なんかはまったくなく、せっかくの休みで遊びに出たとしても翌日の仕事が気になって夕方には次の日に影響しないかなんて餡が得始めている。
そんなのを指して、遊ぶだけの時間を作ろうかと思ってるのかと柏木に聞く。
「ううあ、そうじゃなくてぇ、なつ」と言葉を選択する能力もほぼなくなりかけているようだった。
「夏かー、暑いからまだ夏だなー」と松井が返すと、柏木は眠気に負け上半身がぐらぐらになりながらも「そうだよ、なつ」と言い、目を覚まそうとしたのか水を飲もうとしてビールを流し込み、自分でびっくりしている。
それで少しは目が覚めたのか、さっきまでのぐずぐずは消えて静かにしている。
やっとのことで冷やし中華が届く。
店のおやじはラーメン以外は邪道とでも思っているのだろうか、えらく粗っぽい作りの冷やし中華で、麺の上に細長く切ったチャーシューとキュウリ、それにネギがまぶしてあり、山のようなカラシと紅ショウガが添えてある。味はまっとうだが、こっちも酔っぱらいで繊細な味覚など飲み屋に置き忘れてきたようなものだ。
とはいえ、散々飲んで、なにで使ったのか判らないエネルギーを補充するのに、この冷やし中華が程良く、勢いよく食べ始める。
麺はビールと同じように、あまり冷えてない。
「柏木よぅ、海行くか?」と松井が聞く。
柏木は大量に頬ばった冷やし中華を、まるで動物が獲物を丸飲みするかのような勢いで飲み込むと「別にいいよ、めんどくせぇ」と返す。
夏が終わる。
冷やし中華の終焉 北緒りお @kitaorio
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