第59話 ふたりだけの朝
「紅太。朝ごはん、トーストと目玉焼きでいい?」
「んぅー……」
眠い。とにかく眠い。顔を洗っても頭がまだ回り切らない。昨日、寝るのが遅くなったからなおさらだ。だけど小白に任せっきりというわけにもいかない。
「わり……朝ごはん、手伝うわ……」
「いいよ、座ってて。別に大したもんじゃないし」
それでも飲み物をとってくることぐらいはできるはずなのだが、朝に対する耐性が低い俺は加瀬宮のお言葉に甘えることにしてしまった。
手持無沙汰になりテレビをつけると、朝の情報番組が流れ出した。いつも家で見ているのとは違う番組だ。加瀬宮家ではこっちを見るのか。辻川家ではジャンケンをする方だ。
「オレンジジュースでいい?」
「ん……いい」
「どーぞ」
グラスの中に注がれたのは果汁百パーセントのオレンジジュース。
爽やかな飲み心地に果汁の粒が乾いた喉を潤したタイミングで、キッチンの方からチーン、とトーストが完成した軽やかな音が鳴る。
「トーストと目玉焼きとサラダ……って、なんか、簡単なので悪いけど。あ、バターとジャムはここね」
「……ありがと。なんか、すっげぇ美味そう」
「お世辞をどうも」
「本心なんだけどな……」
小白が用意してくれた皿の上には、できたての目玉焼きとサラダとトーストが盛りつけられていた。特に肩焼きの目玉焼きはカーテンの隙間から差し込んでくる朝日に照らされ、白みがかった黄金色に艶めいていた。
「「いただきます」」
お互いに手を合わせて、いただきます。
「紅太はバターとジャム、気分で変える派だったよね」
「そういう小白はバター派だったよな……ジャムがあるのは黒音さんか?」
小白がバターを塗ってるし、今日はジャムにしとくか。
「そ。お姉ちゃん、バターとジャム両方塗るのが好きなんだって」
「そりゃ贅沢なことで……」
うん。朝ごはんを食べてたら少しずつ目が覚めてきた。
「小白は最近、こうやって朝ご飯を自分で用意してるんだ?」
「そうだね。前はよくコンビニで買って済ませてたけど、最近は自分で作るようにしてる……てか、琴水ちゃんに比べれば、作るっていうのも烏滸がましいレベルだけど」
「そんなことないだろ。こうやってちゃんと用意してるだけ立派だよ。正直、俺だったら普通にコンビニで済ませてる。それに琴水はあれで年季があるらしいからな」
元は父子家庭で、家事は全て自分でこなしていたそうだから。
本当に頭の上がらない出来た義妹だ。俺も母さんと二人で暮らしていた頃は、出来る範囲で家事は手伝うようにしていたけれど、それでも琴水にはかなわない。
「らしいね。この前、通話してる時にきいた」
「…………前から思ってたんだけど、お前ら、俺が思ってる以上に仲いいよな」
「あー……それはまあ、そうかもね。てか、色々協力してもらってる見返りに取材に協力することも多いから、自然と……」
「取材?」
「こっちの話」
女子会的な感じなのだろうか。同性同士、何かしら気兼ねなく話せることもあるのだろう。俺が簡単には立ち入れない領域だろうし、俺もそこに立ち入ろうとは思わない。
「協力っていえばさ。ちゃんと琴水ちゃんにお礼、言っときなよ」
「あー……そうだな。結局、小白の家に泊ることになっちゃったし」
昨日は結局、この家に……小白の家に泊ることになってしまった。
黒音さんが仕事で変えることができず、昨日はこの家に小白一人だけになってしまうことになるということもあり、母さんも許してはくれたけど。琴水の方から伝えてもらったというのが大きい。
「そのうち、何かちゃんとしたお礼はしとかないとな」
「頑張りなよ、お兄ちゃん……あ、そうだ。着替え、もう洗濯終わってるから」
「ん。ありがと。あとで回収しとく」
そういえば昨日、風呂入った後に着替えとか体操着とかジャージとか、諸々まとめて洗濯機の中に放り込ませてもらったんだっけ。ちなみに俺が今着ているのは、小白の家に置いていった分だ。
「うちに着替え置いとくとさー、こういう時に便利だよね」
「だからもっと置いて行けって?」
「うん。大歓迎。てか、紅太の着替えを置いとくためのスペース作ったし」
「なにそれ初耳なんだけど」
「昨日作ったからね」
「昨日のいつだよ」
「このシャツ探してる時に」
俺のTシャツを着てるのはもういつものことなので気にしてなかったが、まさかそんなスペースまで作っていたとは。
「…………」
小白はおもむろに襟元を指で引っ張り、なぜかシャツの下に広がっている肌をじっと見つめはじめた。視えなくても分かる。彼女の新雪のような玉の肌には今頃、無数の紅い花が咲き乱れていることに。
「…………これ、どうしよ」
「どうしよって?」
「制服の時はギリギリ見えないだろうけど……着替えの時、絶対に見える」
「見せればいいだろ」
「そうなんだけど、なんか、恥ずかしいじゃん」
「それはお互い様だっての。俺なんかもう開き直るつもりだぞ」
今、俺が着ているTシャツの下にも、小白がつけた可愛らしい紅華がいくつか咲いている。
制服ならば隠れるだろうが着替えの時に関しては無防備にならざるを得ない。なんなら、体操着になれば見えるかもしれない。
「まあ、でも。注意しなきゃいけないのは着替えだけじゃないだろうな」
「…………?」
「恥ずかしいっていうなら、少なくともポニテにはしない方がいいぞ」
「――――っ!」
ぱしっ、と、うなじに手を当てる小白。どうやら昨日の朧げな記憶の中で、心当たりがあったらしい。
「……ゆ、油断してたっ」
「油断も何もお前、あの時はそれどころじゃ――――」
「あー! あー! 知らない知らない知らないっ!」
どうやら昨日のことを思い出して恥ずかしくなったらしい。誤魔化すようにトーストにかぶりつく小白。かわいい。
「髪で隠せるからいいかと思ったんだけど」
「制服の時はね。運動の時は邪魔になるから、髪まとめたいのに……」
「ジャージ着てればいいんじゃないか?」
ファスナーをきっちり上げ切れば、襟で隠せないこともないだろうし。
「………………なら、ジャージ貸してよ」
「ジャージ?」
「そ。紅太のジャージ。貸して」
ここで自分のがあるだろ、と言うほど……鈍くはないつもりだ。
「競技は別々だけどさ。彼氏のジャージ着てたら、離れてても頑張れそうだし……だめ?」
「だめなわけないだろ」
「やった。じゃ、洗濯機からとってくるね」
「食べ終わってからにしろって」
「やだ。今がいい」
言うや否や、小白は食べかけのトーストを皿の上に置いてパタパタと脱衣所の方へと向かう。俺はそんな彼女の後姿を眺めながら、トーストをひと齧り。
「……うま」
何の変哲もない、ジャムを塗っただけのトーストのはずなのに、今日はどうしてか特別に美味しいと感じる。
☆
「ベランダの鍵って閉めたっけ」
「閉めたし電気も消した」
「じゃ、あとはドアの鍵だけだね……ん。おっけー。完璧」
小白はドアの鍵を閉めたことをきちんと確認すると、鍵をカバンの中にしまう。
「「いってきます」」
二人の声は重なって、俺は自然と「いってきます」と口にしていたことに自分で驚いていた。
「あはっ。紅太もウチに染まってきたんじゃない?」
「……かもな。あまりにも自然すぎて我ながら驚いてる」
「いっそ着替えだけじゃなくて私物とか、うちに置いてく?」
「どうせ置くなら歯ブラシかな。ここに来る度に旅行用のやつ使ってるし」
「そっか。どうせならちゃんとしたやつ買っといた方がいいかもね」
「……やっぱなし。今気づいたけど、黒音さんの目もあるし」
「別にいいと思うけどね」
小白よりも先にエレベーターのボタンを押す。通勤や通学の時間帯ということもあり、エレベーターは一階に降りていた。昇ってくるまでには少し時間がかかるだろう。
「今更でしょ」
「そりゃそうだけど、家主の同意なく勝手に物増やすのもどうかと思うしな」
「服は増やしてるくせに」
「…………」
「紅太の服を洗濯するのも、もう慣れたって感じ」
そこを突かれれば弱い。と、丁度いいタイミングでエレベーターが昇ってきた。
そのままエレベーターで降りると、夏休み明けの眩くも心地良い熱を帯びた日差しが瞼を覆った。
「服、もっと増やしてよ。部屋着に丁度いいし」
「勝手に部屋着にしてたのかよ」
「楽なんだよね。男子の服って」
「そういえば、服買いに行こうって話してたな。今度の休みに行くか。小白の予定は?」
「空いてる。……あ、そうだ。ついで、って言うとアレだけど……琴水ちゃんへのプレゼントも買いに行っちゃわない? ほら、さっき言ってたでしょ。『何かちゃんとしたお礼しないとな』って」
「あー……そうだな。小白がいれば、女子目線のアドバイスも貰えるし」
「決まりね。てか、紅太こそバイトはいいの? 休みの日は入れてること多いじゃん」
「午後からだから、午前中なら大丈夫だ」
「ふーん。じゃ、午後は紅太のバイト先にも寄ってみようかな」
「大人しく帰れよ」
「カノジョがいたら不都合なことでも?」
「あるよ。可愛いカノジョに目がつられて、仕事に集中できなくなる」
「あはっ。なにそれ。給料分はちゃんと働きなよ」
「せいぜい努力する」
小白の家からの通学はまだあまり経験がない。だけど学校から小白の家までの道順はもう覚えている。慣れ親しみつつある道だ。
「労働かぁ……落ち着いてきたし、私もそろそろバイト探したいな。お姉ちゃんからのお小遣いばっかに頼るのも嫌だし」
「そうか。そういえば小白、バイトできるようになったのか」
以前は小白の母親の意向でバイトは禁止されていた。だが今はもう、母親の元を離れて暮らしている。それは実質的なアルバイトの解禁だ。
「黒音さんには相談したのか?」
「うん。いいよって言ってくれてる。でも、肝心のバイト先で悩んでてさ……紅太の時はどうやって決めたの?」
「夏樹に紹介してもらったんだよ」
「犬巻って、ほんっとうに顔が広いよね」
「あいつの交友関係は俺も謎だ。……バイト先、俺から夏樹に頼んでみようか?」
「んー……今はいいかな。ありがと。もう少し自分で探してみる」
俺としてはカノジョにあまりヘンなバイト先をひいてほしくない。
夏樹ならその辺は信用できるから、出来れば頼ってほしかったけど。
「分かった。がんばれ」
「ん。がんばる」
小白を見てる感じ、バイト探しも楽しいんだろうな。少しずつ少しずつ、世界が広がっていて、そこに羽搏こうとしている小白はとても愛おしい。
……ま。広がっていく世界もいいけど、今は目の前の小さな世界にも目を向けないとな。
「なぁ。あれ……」
「加瀬宮さん……と? 隣のやつ誰?」
「仲いい感じじゃね?」
「恋人とか?」
「まさか」
「あの加瀬宮さんだぞ」
先ほどから感じていた視線だが、学校に近づいてくるといよいよ周囲の目も色濃くなってくる。
「で、どうする? 今ならまだ誤魔化せるけど」
「誤魔化したいの?」
「それは俺の方がもたないかな」
「てかホントごめんね。私のワガママで」
「気にすんな。カノジョのワガママならきいてあげたくなるのが、男っていう悲しい生き物の生態なんだよ」
「なにそれ」
ああ、やっぱりちょっと嫌だな。こうやって笑う可愛らしい小白の顔は、できれば独り占めしていたかったから。
「……うん。でも、もう大丈夫。不安は昨日、紅太が消してくれたから」
そうやって笑う小白は眩しくて。愛おしくて。
俺達は二人で肩を並べて、堂々と学校へと踏み出した。
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