第49話 久遠より続く逃避の果て

「やっと終わった」


 あるファミリーレストランの一席で、加瀬宮黒音は一人口元に笑みを浮かべた。

 出てきた言葉は絞り出した水滴のように小さく、長い旅路を完遂した後のような安らかな熱が全身を巡り、脱力する。


 耳に装着しているイヤホンから聞こえてくるのは、自分の母親の無様な独り言だけ。

 あの女は家に仕掛けた盗聴器の存在などまるで気づいていない。


「…………本当に、惨めなヒト」


 自分の娘、二人から切り捨てられた母親。

 黒音からすれば、ただの自業自得。報いを受けているだけ。むしろ妹の――――小白の言葉を生温いとさえ思ったほど。


「小白ちゃんだけじゃない。あんたは私すら見ていなかった。私のことを『家族』でも『娘』でもなく、人生をやり直すための人形アバターとしか見ていなかった。私や小白ちゃんのことを、少しでも見ようとしていたら、今頃は――――……」


 その先の『もしも』を言葉にすることはなかった。

 くだらないIFを口にしようとした自分に、黒音は僅かな驚きさえ抱いていた。

 長い長い計画を終えて心が弛緩しているのかもしれない。今、胸の中で僅かにこびり付いている寂寥も、すぐに拭ってしまうに限る。


「あの、すみません。kuonさん……ですよね?」


 周りに聞こえぬように配慮したような小声。


「……ん。よくわかったね」


「あ、はいっ。あの、もしかしたらって思って」

「私たち、ファンで、そのっ。」

「プライベートだから、声かけるの、ホントはやめた方がいいって思ったんですけど……」


 声をかけてきたのは『kuon』のファンであろう少女たちだ。

 ちょうど小白と年齢も近そうな三人組。憧れの『kuon』に偶然会えて興奮しているのか、言葉もたどたどしい。


「サイン、もらってもいいですか……?」


「……いいよ」


 本当は今すぐにでもこの場から去るつもりだった。もう妹の小白とは会わないようにするつもりだった。……しかし、特別急ぐ必要もない。妹はここには来ない。自分が用意した家に行くか、成海紅太の家に戻るだろうから。


 それから三人分のサインと握手をかわす。これそのものは慣れているのですぐに終わったが、三人はkuonの曲に対する感想や憧れを一生懸命に話してくれたので、思っていたよりは時間を消費してしまった。


「あの、ありがとうございましたっ」

「私たち、ずっと応援しています」

「これからもがんばってくださいっ」


「うん。ありがと。気をつけて帰ってね」


 小声で周りにバレないように配慮してくれたのが印象的だった。

 プライベート中にファンに見つかってしまいサインをねだられることはあるが、たいていが興奮のあまり声が大きくなって連鎖的に他のファンにも見つかるパターンが大半だ。


 プライベート中に声をかけてはきたものの、周囲にバレないように最後まで配慮してくれた三人は、少なくとも黒音の中では好意的な印象として残った。


「…………私もそろそろ、帰ろうかな」


 自分で口にして、思わず自嘲的な笑みが零れる。

 帰る。帰る家など、もうどこにもないというのに。


「それは困るな。まだあんたとは、話したいことが残ってるのに」


「――――――――」


 聞こえてきたその声に、黒音の全身が硬直した。

 大海に生じた一瞬の乱れ。砂漠に落ちた砂粒ほどの動揺。それを刹那でねじ伏せる。


「…………なんで君がここにいるのかな。成海紅太くん」


 成海紅太が、そこにいた。

 加瀬宮黒音の前に、立っていた。


「あんたを止めに来た」


「止めに来た、ね……まァ、その可能性も考えてなかったわけじゃないけど。ていうか、よく分かったね。私がここにいるって」


 ファミリーレストラン『フラワーズ』。

 加瀬宮小白と成海紅太が共に時間を重ねてきた場所。


「……元から予想はしてた。加瀬宮が母親と決別する時、あんたは必ず近くで見守るって」


「だからって、この店にいるとは限らないんじゃない? 近くにお店なんていくらでもあるでしょ」


「……あんたなら加瀬宮の前から姿を消す前に、加瀬宮が見ていた景色を見れる場所にいく。そう思った」


 当たっている。黒音がこの店を選んだ理由は、成海紅太の語った通りだ。

 小白が家から逃げている間に見ていた景色。小白が変わることができた場所の景色を。

 最後に、この目に焼き付けておきたかった。


(やっぱり似てるね。君と私は)


 それを逆手に取られた。


「…………ねぇ。さっき私のファンって子たちがサインほしいって言ってきたんだけど。もしかして、アレも仕込みだった?」


「居場所が分かっていても、引き留める前に消えられたら意味がない。あんたが早々にこの店を出る前に、足止めをする必要があった。幸いにして俺には、頼れる顔の広い幼馴染がいたので」


「ああ……そっか。犬巻夏樹いぬまきなつきくんか」


「やっぱり知ってたんだな」


「小白ちゃんの周りはだいたい把握してるよ。……けど、そっかー。犬巻くんの顔もバレてるって読んでたから、犬巻くん本人じゃなくて彼の友達を使ったんだね。流石に彼の交友関係までは把握してなかったな。やられたよ」


 思わず笑いが零れる。芸能界でも場数を踏んできた黒音だが、ここまでしてやられたのは初めての経験だった。


 自分と似ているが故にやりづらい。

 確信した。認めるしかない。成海紅太という人間は、加瀬宮黒音という生物にとって、唯一の天敵なのだと。


「いい駒持ってるね」


「駒じゃない。親友だ」


「どうでもいいよ。で、君一人? 小白ちゃんは置いてきた? そうだよね。母親を自分の手で切り捨てたばかりで、不安定になってるもんね」


 簡単に予想がつく。簡単に光景が浮かぶ。

 加瀬宮小白が、母親と離れるのが寂しくて。自分の手で家族を壊すのが悲しくて。母親の手を振り払うのが辛くて。これから独りになってしまう母親を想うと、罪悪感で胸がつまって、涙を流している。そんな姿が。


「可哀そうな小白ちゃん。今頃、独りでしくしく泣いてるよ。慰めるのが彼氏の仕事じゃないの?」


「そう思うか?」


「だって小白ちゃん、弱いもん」


 加瀬宮小白は弱い。加瀬宮黒音という圧倒的な才能と能力を持つ姉に対し、心を折ってしまったか弱い妹に過ぎない。


「か弱いところもとっても可愛い、私の大事な天使様。だから君に託したのに。何やってんのさ」


 泣いている妹を放置している目の前の男に対し、黒音は笑顔の仮面を引き裂いた。


「早く小白ちゃんのところに戻れよ。潰すぞ」


 表面的な脅しではない。成海紅太という人間が使えないなら、別の手を講じるまでだ。


「戻らない。……というか、あんたは勘違いしてる」


「はァ?」


「俺もただの時間稼ぎだ」


「――――……!」


「あんたを止めるのは俺じゃない」


 息を切らしながら、店の中に入ってきたのは。


「加瀬宮小白だ」


     ☆


 加瀬宮黒音は、信じられないものを見るかのような目で、自分の妹のことを見ていた。


「間に合った、みたいだね……ごめん。遅れて。落ち着くのにちょっと時間かかった」


「大して待ってないから気にすんな」


 加瀬宮黒音が姿を消す。そのタイミングはいつかということは予測がついていた。

 大まかな場所も予測がついていた。問題は時間だ。加瀬宮が母親と決別したその瞬間に、加瀬宮黒音は姿を消す可能性が高いと感じた。


 仮に最初から居場所に確信があって、一直線に向かったところで、間に合わない可能性があった。何より、加瀬宮は母親と決別した直後に相対することになる。精神的にも落ち着く時間が必要だと思った。


 だから、時間を稼ぐ必要があった。

 夏樹に協力を頼んで、加瀬宮が一人で立ち直り落ち着くと信じて、すぐにこの場所まで走ってきて――――そして、加瀬宮小白は間に合った。加瀬宮黒音の予測を破った。


「……………………」


「なんか、ちょっと嬉しいかも。お姉ちゃんにそんな顔、させることができて」


「…………そうだね。正直、驚いたよ。成海紅太くんはともかく、小白ちゃんがここに来る理由がないと思ってたから」


「…………どうして?」


「ま、来ちゃったものは仕方がないよね。とりあえずおめでとう。お姉ちゃんも嬉しいな」


 妹からの問いに姉が答えることはなく、代わりに笑顔の仮面を張り付ける。


「解ってるよ。苦しいよね。辛いよね。あんなのでも一応、母親だし。自分の手で切り捨てるのは小白ちゃんにとっては覚悟の要ることだったよね。私も小白ちゃんにそんな辛いことはさせたくなかったんだけど……必要だったんだよ。小白ちゃんの幸せのためには」


「私の幸せに……必要だった……? ママをあそこまで追い詰めることが?」


母親アレを壊すことは過程に過ぎないよ。勿論、目的の一つではあったけどね。私が本当に狙ってたのは、小白ちゃんに成功体験を積ませてあげること」


 加瀬宮黒音は手元の空になったグラスを指でなぞる。


「小白ちゃんは子供の頃からずっと私に劣ってきた。負けてばかりだった。失敗という烙印を押され続ける毎日だった。だから小白ちゃんは自分に自信が無い。だから小白ちゃんは母親アレに抑えつけられてた。必要なのは成功体験。普通の成功じゃダメ。自分の人生を苦しませてきた元凶を自らの手で切り捨てる――――自分の幸せのために、不要な物を切り捨てる。そんな極上の成功体験が必要だった」


 既に飲み終えてから時間が経っているのだろう。中の氷も解けて透明な水になっていた。


「一度大切な物を自分で切り捨てることで、これからも同じ選択をとることができるようになる。これからの人生において、自分を苦しめる物を容赦なく切り捨てる力をくれる。か弱い天使の小白ちゃんが、強い存在に生まれ変わることができる。母親アレを切り捨てさせたのは、そのための儀式なんだよ」


 加瀬宮黒音の顔は歓喜に揺れていた。恍惚に濡れていた。


「あとは私が消えるだけで、小白ちゃんの人生を穢す物を全て抹消できる。家族という呪縛から解放された、真っ白で穢れの無い、新しい人生を小白ちゃんにプレゼントすることができるの。ねぇ、分かってよ。これが……私が姉として、小白ちゃんのためにできる唯一の――――」


「勝手に決めないでよ」


 周囲が喧騒で満ちたファミレスの中で加瀬宮の声は不思議と凛と響いた。

 先ほどまで己が執念を吐き出し、語り続けていた加瀬宮黒音が、止まる。


「お姉ちゃんやママが私の人生に不要だなんて、勝手に決めないでよ。二人が消えることが私の幸せだなんて、勝手に決めないでよ」


「勝手に決めてるんじゃないよ。理解してるだけ」


「してないよ。お姉ちゃんはぜんぜん解ってない。私にとって、お姉ちゃんもママも、苦しいだけの人達じゃないよ」


「…………そんなわけないでしょ」


 妹の訴えに、姉である加瀬宮黒音は自嘲的な笑みを零すだけ。


「私は知ってるよ。小白ちゃんが『加瀬宮黒音』っていう才能にどれだけ苦しんできたか。どれだけ傷ついて、周りに傷つけられてきたか。何よりも私は、私自身を赦せなかった」


「……どうして?」


「だってそうでしょ。小白ちゃんは私に『歌』をくれた。なのに…………私はっ、『加瀬宮黒音』は……どう足掻いたって、小白ちゃんに傷や痛みしかあげられない…………!」


 今ので俺達にも理解できた。加瀬宮黒音にとって『歌』というものが、どれだけ大切なものなのかを。そして『加瀬宮黒音』という圧倒的な才能に、加瀬宮小白が傷ついてきた姿をこの人はずっと見てきた。そんな妹が傷つく姿に対する罪悪感で押しつぶされてきたことも。


「死にたかった。ずっとこの世界から消えたかった。でも歌っていたかった。死ねば歌えなくなるのが一番怖かった。私は穢れてる。エゴの塊だ。私に歌をくれた天使が傷ついてるのに、それでも歌っていたいと思ってしまう。だから、私はっ……!」


「やっぱり何も解ってないよ、お姉ちゃん」


 俺は、ここまで感情的になっている加瀬宮黒音を初めて見た。

 それはきっと加瀬宮も同じだろう。だが彼女は、それでも冷静に、目の前の姉と向き合っていた。


「確かに私はお姉ちゃんの才能に傷ついてきたよ。嫉妬もしたし、絶望もした。でもそれ以上に…………憧れた。自分が傷つく以上に、お姉ちゃんのことが誇らしかった」


「――――――――……っ……うそ」


「嘘じゃない」


「信じられない」


「信じてよ」


 不思議だ。状況的に有利なのは加瀬宮黒音だ。

 母親を引きずり落とし、加瀬宮自身の手で決別させ、彼女の計画は殆ど達成されている。

 その気になれば強引に会話を打ち切ってすぐにでも姿を消すことができる。


 なのに、追い詰められているように見えるのは、加瀬宮黒音の方だ。


「てか、勝手に消えられると困るんだよね――――私、これからはお姉ちゃんと住むつもりだから」


「は……? なん、で……?」


「なんで、って。しばらくママのいるあの家には帰れないし。お姉ちゃんが用意してくれた家があるけど、一人で住むには広いし。……そもそも一人で住んでね、って一方的に言われて納得できるわけないじゃん。なに? 私が手放しで喜ぶとでも思ったの?」


「…………………………」


 どうやら思っていたらしい。加瀬宮の選択に、加瀬宮黒音は完全に困惑していた。

 母親の言動を一言一句まで完璧に予測し、理解していた彼女が、理解できないでいた。


「お姉ちゃんにも、そーいう抜けてるとこあったんだね。なんか安心した」


 戸惑っている加瀬宮黒音に対し、加瀬宮の方は余裕すらある。


「黒音さん。俺とあんたは似てる。でも似ているだけで同じじゃない」


「…………何が言いたいの?」


「あんたは、加瀬宮のことをみくびりすぎだ」


 加瀬宮黒音の言動の端々から感じた印象。

 彼女は妹のことを愛していると同時に、妹の力をみくびっている。

 姉の中で、妹はか弱い天使のままなんだ。


「昔はどうだったのかは分からないけど、少なくとも今の加瀬宮は、あんたが思うほど弱くない。今の加瀬宮をちゃんと見ろよ」


「なにを、言って……見てるよ。見てるでしょ」


「見てねぇよ。あんたは逃げてるだけだ。加瀬宮から――――家族から」


 この人も、俺達と同じだったんだ。

 家族から逃げて、逃げ出しているだけの、ただの人間だった。


「ねぇ、お姉ちゃん。私達、もう十分に逃げ続けたよ。私はもう大丈夫だよ。だから……これからはまた新しく始めようよ。家族として」


「――――っ……でも……私の存在はまた……小白ちゃんを傷つけるかもしれない」


「きっと傷つくと思う。辛くて、苦しむと思う。でもさ……その時はまた、逃げ出して休めばいいって知ってるから。今は……一緒に逃げてくれる彼氏もいるし」


 俺達はテーブルの下で手を繋ぐ。絡み合う指の温もりが、決して互いを離さない。


「逃げて、休んで、また歩きだす……人生って、その繰り返しなんじゃないかな。私は子供だから分かんないけど」


「子供か……むしろ、ちょっと見てない間に、すっごく大人になってたんだなって、驚いてるよ」


「そう?」


「うん。小白ちゃんはもう……私よりずっと大人だよ」


 それはきっと、加瀬宮黒音なりの敗北宣言であり――――もしかすると、加瀬宮小白がはじめて姉に勝つことができたかもしれない瞬間でもあった。


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