第48話 加瀬宮小白は破壊する

「ほんっっっとうに大変だったなー……」


 いつものファミレスにある、いつもの席で。

 加瀬宮はいつもの紅茶をすすりながら遠い眼をしていた。


「何があったんだよ」


「教えない」


「じゃあせめてその恨めし気な視線をやめろよ」


「やだ」


 琴水が帰宅して以降、ここ数日の加瀬宮はずっとこんな調子だ。どうやら琴水との間で何かあるらしい、ということだけは分かるのだが、その内容を訊こうとすると顔を真っ赤にして拒否してくる。喧嘩だとか険悪だとか、そういう類のものではないということは分かるので、そんなに心配はしていないんだけど。


「……で、何か追加で頼むか?」


「んー……」


「ちなみに俺はいちごパフェを注文する」


「……じゃあ、私も同じやつ」


「ん」


 この店舗に導入されたばかりのタッチパネルだが、もう大まかなメニューの配置は覚えた。デザートメニューからいちごパフェまで直行し、そのまま二つ注文する。


「………………」


「緊張してる?」


「そりゃあ、まあ、ね……。てか成海の方は随分と落ち着いてるね」


「俺が特別何かをするわけじゃないからな。頑張るのは加瀬宮だし、俺は加瀬宮の味方をするだけだし」


「特別何かしてるじゃん」


「加瀬宮の味方をすることは特別でもなんでもない。俺にとっては普通のこと」


「…………そうなんだ」


「そうだよ。彼氏が彼女の味方するのなんか、どう考えても普通だろ」


 だから、これから始まることも俺にとっては普通であり日常だ。


「加瀬宮が何をするにしても応援するし味方になる。泣きたい時は抱きしめるし、傷ついた時はいっぱい甘やかすよ」


「…………あーあ」


 率直な気持ちを口にすると、加瀬宮はテーブルに突っ伏した。


「もし私がダメ人間になっちゃったらさー……絶対に成海のせいだからね」


「なんで」


 問いかけると、加瀬宮は照れたように紅くなった、その可愛らしい顔を見せてくれた。


「……こんな彼氏、甘えちゃうに決まってるじゃん」


「そりゃよかった。加瀬宮は甘え下手だから、むしろダメになるぐらい甘えてくるぐらいがちょうどいいと思ってたんだ」


「…………ほんとにダメ人間になったら、責任とってよ」


「とるよ」


「働かないかもしれないよ。ダメ人間だし」


「俺が働くから問題ないよ」


「家事だってしないかも」


「じゃあ、俺が今から練習しとくよ」


「……いや。うそ。ごめん。冗談。働くし家事もする。てかどこまで甘やかす気だ」


「加瀬宮がどろどろになるぐらい、俺に溺れてくるまで」


「冗談に聞こえないから質が悪いよね」


「冗談で言ってないからな」


 加瀬宮は不思議がっているけれど、俺としては伝わらなくてもどかしいぐらいだ。

 俺がどれだけ加瀬宮に、心を救われたか。人生を変えてもらったのか。自分を助けてもらったのか。


「……急に抱きしめちゃうかもよ」


「じゃあ、俺も抱きしめる」


「離さないかもしれない」


「俺も離さない」


「キスしてって言ったら?」


「するし、言う前に俺からもする」


「……………………」


「加瀬宮が『待って』って言っても、止まってやらない」


「……………………無理。勝てない。へこみそう。私の彼氏が強すぎる」


「お前なぁ、これからボス戦に行こうって時に一人で勝手にへこむなよ」


 そもそも勝ち負けの問題かこれ。勝ったところでどうなるんだ。


「だって、成海が悪いよ。こんなのさー……幸せ過ぎて、私が何言っても説得力なくなっちゃいそうだし」


「いいんじゃないか、それで」


「……いいのかな」


「むしろ見せつけてやればいいんだよ。加瀬宮の幸せを」


 注文したいちごパフェがテーブルに運ばれてきた。

 食後のデザート。これを食べたら、いよいよボス戦に出陣することになる。


「じゃ、これ食べたら行くか」


「ん……そ、だね」


 加瀬宮の悔し気な視線を感じながらパフェをつまんでいく。

 盛りつけられたいちごに口をつけると、加瀬宮はタイミングを見計らっていたかのように切り出した。


「ねぇ、成海。このパフェを食べた後にキスしたらさ……いちごの味がするのかな」


「気になるのか?」


「……成海は?」


「気になるから、後で加瀬宮と答え合わせしたい」


「……だからなんでそーいうことサラッと言えるかな」


「じゃあやめとくか?」


「…………………………………………………………する」


 どうやら今のが加瀬宮なりの奇襲のつもりだったらしい。

 惜しくも迎撃されてしまった加瀬宮の顔は、パフェに盛りつけられていたアイスを食べても、当分冷めることはなかった。


     ☆


 ――――ごめん、成海。私……………………家出、しちゃった。


 あの日、私は家から逃げ出した。

 そして私は今、あの日逃げ出した道を、逆にたどって歩いている。


 ――――……ママはそれでいいの?

 ――――あなたが黒音に迷惑さえかけなければ問題ないわ。

 ――――……私、本当に出て行くよ。

 ――――出て行けるものなら出て行ってみなさい。……まあ、どうせすぐに泣きつくことになるでしょうけど。

 ――――…………っ!


 今思えば、あのやり取りは構ってほしい、ワガママな子供そのものだ。

 思い出すだけで情けなくて恥ずかしくて、薄っぺらくて。正直に言えば今すぐにでも逃げ出したい。


 でも、そんなみっともない、私ですら認められない私を全部受け止めてくれる人がいる。


 だから私は、この道を選ぶ勇気が持てた。

 家出したこの家に、何度も逃げ出したこの家に、帰ってくることにした。


「……ありがと」


 家の扉が見えた瞬間、手を握ってほしいなって思った。

 思った時にはもう、成海は私を握ってくれていた。


「……加瀬宮。本当に、いいんだな」


「……うん。ここからは、一人でいくよ」


「……そっか。まあ、何かあったらすぐ呼べよ。駆け付けるから」


「何かって?」


「彼氏の腕の中で泣きたい時とか」


「言ってろばか」


 きっとすぐに泣きたくなる。この腕の中で泣きたくなる。


「……じゃ、いってきます」


「いってらっしゃい」


 息を吸って、吐いて、気持ちを整えて。鍵を開けて、扉を開けて。


「……ただいま」


 私は、逃げ出した家に帰宅した。


「………………………………」


 電気のついていない薄暗い廊下を一人で歩く。

 一歩ずつ踏みしめる度に心臓の鼓動が跳ね上がる。

 廊下を経てたどり着いたリビングの明かりも消えている。カーテンは閉じ切っていて、薄暗い部屋の床には物が散乱していた。まるで癇癪を起した子供が暴れた痕跡みたいだ。


「…………なんで。どうして。くおん……くおん…………わたし。わた、し……ちがう。わたしは。ちがう。わたしは悪くない。ちがう。ちがうの。わるくない。わたしは。ちがう。わるくない。わるくない……どうして……わるくない。わかってくれないの…………わたしは……」


 ――――アレのことだから……まだ家に引きこもってブツブツ言ってるんじゃないかな。


 成海が話してくれたお姉ちゃんの言葉が脳裏をよぎる。

 確かに、薄暗いリビングで、ママは一人でブツブツと何かを呟いていた。


「そうよ……わるくない。わたしはわるくない…………こはく……そうよ……あの子がわるいのよ。あの子が…………あの子に……せきにんを、とらせればいい……わたしの言葉が届かないなら……こはく。こはくに説得……させれば……くおんだって、わたしの言うことをきいてくれるはず……ゆるしてくれるはず……そうよ……こはく。こはくがいれば……!」


 ――――アレはひとしきり現実逃避した後、小白ちゃんに縋りつきに行くだろうから。そうだなぁ……数日中には小白ちゃんを探し出すよ。


 お姉ちゃんがしたらしい絶対的な予測は、確かに的中していた。こうして私達の方から帰ってこなければ、ママはきっと私を探し出していた。


 ゆらり、と立ち上がったママは、乱れた髪の隙間から私の姿を捕らえる。

 そして口の端を歪めて、欺瞞に満ちた薄っぺらい笑みを張り付けた。


「ああ……小白。小白。帰ってきたのね……?」


「…………うん。帰ってきたよ。ママ」


「あはっ! そらみなさい! あなたは帰ってきた! わたしに泣きつくために! やっぱりわたしは正しいのよ!」


「……………………ママは……」


 私には『おかえりなさい』の一言も、言ってくれないんだね。

 成海の家では当たり前にあった言葉がない。そのことに寂しさもあるけれど。でもこれが、私の家なんだ。


「ねぇ………………小白。母親わたしを許すように黒音を説得して」


 『あの子はあなたの言うことならきいてくれるはずよ』。


「あの子はあなたの言うことならきいてくれるはずよ」


 『今まであなたに厳しくあたって悪かったわ』。


「今まであなたに厳しくあたって悪かったわ」


 『でも仕方がないの。黒音のためだったの』。


「でも仕方がないの。黒音のためだったの」


 『不満があるから言って? お母さん、直すから』。


「不満があるから言って? お母さん、直すから」


 ああ………………全部、お姉ちゃんの言った通りだ。


 ママの言動は何もかも、お姉ちゃんに見透かされてる。

 お姉ちゃんは、ママの言動の何もかもを見透かしてる。


 お姉ちゃんは、ママがこうなることが分かってたのに……何もしなかったんだね。

 お姉ちゃんは、もう本当に……ママに……『家族』という枠組みに、見切りをつけたんだね。


「……………………不満なら、たくさんあったよ」


 ああ、ダメだ……溢れてしまう。


「家族で遊びに行きたかった。家族旅行にも行きたかった。授業参観にも来てほしかった。運動会に応援に来てほしかった。二人三脚、一緒に走りたかった。テストで良い点とったら褒めてほしかった。お弁当作ってほしかった。バイトもしたかった。進路について相談したかった。私のこと心配してほしかった。私にも期待してほしかった。私のこと諦めないでほしかった。見捨てないでほしかった」


 溢れ出してしまう。止まらない。


「私のこと……見て、ほしかった…………」


 嗚咽が混じる。みっともないほどの涙が零れる。


「…………ごめん……わかってるんだ……これ、全部私の勝手なワガママだって……」


 わかってる。


「…………ママは、独りで私とお姉ちゃんを育ててくれた。私達はパパの顔も知らないし……何があったのかも知らないけど……でも……独りで二人の子供を育てることが大変なのは、もうわかるよ……全部は分からないけど、ちょっとは分かる……もう、高校生だもん……これぐらいのワガママ、本当は我慢しなくちゃいけないことも……わかって、るんだ……」


 本当はわかってた。


「…………お姉ちゃんに憧れて、お姉ちゃんみたいになりたいって言ったのは、私だったよね……私が、私の意志で、始めたことだった……ママは、そんな私のワガママをきいてくれていた。お姉ちゃんと同じ習い事もさせてくれたし……私にも期待してくれた……期待に応えられなかったのは、私で……勝手に諦めたのも、お姉ちゃんの才能に挫けたのも、私で……私が、独りで勝手に空回って、自爆してただけ……」


 分かってた。見ないようにしていた。始めたのは、私の方だって。


「なのに私は……心のどこかで、ママのせいにしてた…………ママが悪いんだって……思ってた……ごめん。ごめんね。ママだって大変だったのに……私は、自分のことばかりで……何も、分かってなかった……」


「…………いいのよ小白。許してあげる。わたしが、アナタの母親であるわたしが、全てを赦すわ。なかったことにしてあげる。だから、黒音を――――」


「――――だから私は、この家を出ていくよ」


 しん、と部屋が静まり返った。ママは口を開き、目を見開き、私の顔を信じられないとばかりに凝視していた。


「……………………は? 何を、言ってるの?」


 ……ああ。やっと。私のことを、見てくれた気がする。


「……お姉ちゃんがね、私の新しい家を用意してくれてるんだって。私はそこに住むことにしたの。だから……ママとはもう、お別れ」


「何故? なんで? 何故、アナタが? 出て行くの?」


「……私はずっとママのせいにしてた。私が傷ついてるのも、独りなのも、不満も、全部、全部……ママのせいにしてた。だからもう、それはやめたいんだ。もうママのせいにしたくないから、この家を出るの」


「……………………」


「私はまだ世間知らずの子供だし、そもそも家とかお金とかはお姉ちゃんが用意してくれたものだし……完璧に全部自立するってわけじゃないから、あんまり偉そうなこと言えないんだけど……でも…………少しずつ、新しく始めたいんだ」


「…………失敗するに決まってるわ。挫折するに決まってる。傷ついて、痛みにもがき苦しむに決まってる!」


「いいんだよ、それで。これからは失敗も挫折も、傷も痛みも、全部私の責任ものにしたい……ママのせいにして逃げるんじゃなくて、自分でちゃんと傷つきたいの」


「そんなの、無理に決まってるわ。あなたにそんなものが耐えきれるわけがない!」


「そうかもしれない。でも、大丈夫。その時は……彼氏にいっぱい慰めてもらうからさ」


 幸せだ。私は今、幸せだ。だから、大丈夫だよ。ママ。


「ねぇ、ママ。私にはね、一緒に逃げてくれる人がいるんだよ。大変な時、しんどい時、失敗して挫折して、傷ついて痛みに苦しんでる時に、一緒に逃げてくれる人が」


「こはく………………」


「だからママも逃げていいんだよ。ずっとは無理かもしれないけど……いつかは、また歩き出さなくちゃいけないけど……でも、今だけは、逃げていい。逃げて、ゆっくり休んで」


「ねぇ……待って……………………」


「逃げて、休んで、心を癒したら……ママが、どんな選択をするのかは分からない……」


「待って。小白…………」


「その時もお姉ちゃんのことしか見えていないのかもしれない。私のことなんか見てないのかもしれない。それでも……私は…………いつか、ママとまた、家族に戻りたいって思ってるよ」


「待って。お願い……あなたに見捨てられたら、わたしは……どうすれば……」


「だから今は、家族を壊そう。ゼロから全部やり直すために」


 もうママの顔は見なかった。振り向いて、廊下へと戻り、扉へと向かって真っすぐに歩く。


「ねぇ! 待ってよ! 待ちなさ……あぐっ!」


 後ろで足がもつれて倒れ込んだような音が聞こえたけれど、振り返らずに進み続ける。


「小白! 小白! いかないで! わたしを助けて! 見捨てないで! お願い! 小白! こは――――」


「……じゃあね、ママ。いってきます」


 扉が閉まる寸前まで耳を澄ませてみたけれど。『いってらっしゃい』という言葉は、ついぞ聞こえることはなかった。


「加瀬宮」


「成海……」


 扉のすぐ傍で成海は待ってくれていた。どれぐらいの時間が経ったのだろう。分からない。長かったような気もするし、短かったような気もする。


「――――っ……!」


 みっともない大声をあげて泣きだしそうになった。だからたまらず、成海の腕の中に飛び込んだ。成海はそんな私のことを黙って受け入れてくれた。


「よく我慢したな」


「して、ないっての……」


「声を押し殺してた」


「…………なん、で……わかって……」


「もう我慢しなくていい。思いっきり泣けばいいよ」


「近所迷惑……だし……」


「だから、こうやって抱きしめてるんだろ」


 泣いた。泣き叫んだ。成海の胸の中に、全ての涙と叫びを押し込めるように。


 ママと離れるのが寂しくて。自分の手で家族を壊すのが悲しくて。ママの手を振り払うのが辛くて。これから独りになってしまうママを想うと、罪悪感で胸がつまって。


 …………でも、まだ終わってない。私にはまだ、すべきことが残っている。だけど……今だけは、泣いておこう。この腕の中で。


 もう一人の家族と、向き合うために。

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