第44話 五回

 かち、こち、かち、こち、と。時計の針が異様に大きく響くのは、俺が時間という概念に意識を向けているからだろう。……いや。今のは言葉が正しくなかった。正確には『向けている』のではなく、『逸らしている』と表現するべきか。


 ――――加瀬宮との約束である『五回』の数は、残り四回。


「ね。映画、観てもいい?」


「いいぞ。ほれ、リモコン」


「ありがと」


 この夏休みの家出ですっかりうちのテレビの操作を覚えた加瀬宮は、テレビの大きな画面に動画のサブスクサイトを表示する。他のサブスクよりも映画の種類が豊富なやつで、加瀬宮は話題作のジャンルから目当ての映画を表示した。


「それ、前に観たやつだよな」


「面白かったからもっかい見たくて」


「わかる。俺もどっかのタイミングでもう一回観ようかなって思ってた」


「だと思った」


「俺はオレンジジュースにするけど、加瀬宮は?」


「同じのでお願い」


「了解」


 冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して二人分のコップに注ぎ、その後は棚に入っている備蓄のお菓子をいくつか見繕うと、リビングのテーブルまで運ぶ。

 テーブルにお菓子とジュース。この夏休みですっかり定まった、加瀬宮と映画を観る時のスタイル。映画を観る準備が整ったところで、手近なソファに腰かける。


「なんでそこに座ってんの。テレビの正面じゃないでしょ」


 逃がさないとばかりに指摘している加瀬宮が腰かけているのは、二人掛けのソファ。

 中央ではなく端に詰めている加瀬宮の隣には、ちょうど一人分のスペースが余っている。いつもならそこに座って、一緒に映画を観ていたところだが、俺は今日に限って別の場所に座ろうとした。そこを加瀬宮は見逃さなかった。


「ここ、座りなよ。いつもの場所でしょ」


「……おう」


 観念するしかない。出来るだけ素知らぬ顔で、そのまま加瀬宮の隣に座る。

 両サイドが肘掛けで挟まっているこのソファは二人で座れば逃げ場はない。多少なりとも余っているスペースがあるので、密着状態にならないわけでもないが……。


「……………………」


「……………………」


 映画が始まって五分もしない段階で。ぴとっ、という音が聞こえても違和感がないほどに、加瀬宮と俺の肩はくっついた状態にあった。……特別なことじゃない。思えばいつもこれぐらいの距離だった気がする。こうやって肩を寄せ合うことなんて珍しくなくて……いや、でも今日はいつもより近い気がする。


 テレビ画面から聞こえてくる映画の音。だけどそれに混じって、鼓動の音も聞こえてくる。これは俺の鼓動か。それとも、加瀬宮のものか。判断がつかないぐらいに、俺達の身体は密着している。


「……ふっ」


「加瀬宮、前に観た時も今のシーンで笑ってたよな」


「だって面白いし。ふふっ…………。えっ、面白くない? ここ」


「……普通」


「笑いのツボ死んでない?」


「むしろお前のツボが浅すぎるだろ。今お前が笑ってたとこ、めちゃくちゃしょーもないダジャレだったぞ。むしろ普通って言ってやった俺の気遣いに感謝しろ」


「だって……ふふっ…………ラブレターがやぶれたーって……あははっ」


 ちなみに加瀬宮が笑ったのは、主人公の仲間キャラが敵に追い詰められた時、苦し紛れにギャグを披露して敵の目をひきつけようとしているシーンだ。演じている俳優さんの演技力と勢いで確かに笑えなくもないが、ダジャレそのものに笑っているのは世界を探しても加瀬宮か、あとは……。


「…………そういえば子供ってこういうダジャレ好きだよな」


「どういう意味だこら」


 思わず心の声が漏れてしまった。ぺしぺしと足を蹴ってくる加瀬宮。勿論、痛くはない。

 猫がじゃれているような愛らしさすら感じるのは彼氏のひいき目が過ぎるだろうか。


「悪かったね、いつまでも子供っぽくて」


「怒るなよ」


「怒ってない」


「怒ってるだろ」


「どこが」


「声が」


「じゃあもう喋んない」


「今日一日無言で過ごす気か?」


「………………………………」


「マジで喋んねーのかよ」


 不機嫌そうにする加瀬宮は本当に黙り込んでしまった。


「加瀬宮。機嫌、直してくれよ」


「…………………………………………」


 相も変わらず無言。映画に集中してますよ、とでも言わんばかりに視線を合わせない。

 実際はそんなに集中していないことは丸わかりだ。拗ねてるなこいつ。子供っぽいとか大人っぽいとか、そういうの結構気にしてたからな。


「かーぜーみーやー」


「…………………………………………」


 このまま映画が終わるまで待つという手もあるが、それはそれでまた機嫌を悪くしそうだ。…………仕方がない。自分で自分の首を絞めるようなもんだけど、仕方がない。


「加瀬宮」


「…………んっ」


 また黙り込もうとした加瀬宮の頬に手を添えて引き寄せる。そして、そのまま彼女の唇に、自分の唇を押し当てた。加瀬宮の華奢な身体が一瞬だけ、ぴくっと震えたけれど、その後はただ全てを受け入れたようにされるがまま。


 世界が静まり返り、テレビから聞こえてくる映画の音量がやけに大きく聞こえる。だけどそれ以上に聞こえてくるのは、互いに触れあっている唇から漏れる加瀬宮の小さな声。


「……あと三回しかないじゃん」


「……やっと喋ったな」


「……どっかの誰かさんに閉じてた口を開けられたせいだし」


「それは悪かったな」


「……………………」


「……何考えてる?」


「……また黙り込んだら、してくれるのかなって」


「バカなこと考えんな」


 加瀬宮は本当に機嫌を悪くしていたんじゃない。……甘えていたんだ。

 それが嬉しい。傷だらけだった少女が、こうやって甘えてくれることが、何よりも。


「……映画、途中からぜんぜん見てなかった」


「俺も。最初から観るか?」


「んー……別にいい。一回観てるし、何度も戻すの面倒だし」


「映画観てる間に何回する気だよ」


「わかんない」


 それからまた何分かした後に加瀬宮が我慢できなくなったとばかりに三度目のキスをねだり、それからまた数分した後、冷蔵庫からジュースをとってきた帰りに俺の方から四度目を。エンドロールを迎えるころには、最後の五度目に夢中になっていた。


「……五回ってけっこーすぐだったね」


「……映画一本もたなかったな」


「『俺の理性はもったけど』、って顔してる」


「……人の心を読むな」


「えらいえらい」


「お前なぁ……俺がどんな気持ちで我慢してると思ってるんだよ」


「彼女相手にがまんする方がおかしくない?」


「それもそうなんだけど」


 もっと触れたい、という気持ちと、大切にしたい、という気持ち。

 二つが混じって、混ざりあって、俺の手足に絡みついている。もどかしいけれど、それでいいと思う自分もいる。


「…………俺達、今日付き合ったばっかだよな」


「でも、前から好きだったよ」


「俺もそうだよ」


 自覚がなかっただけで。俺の心はとっくの昔に、加瀬宮に溺れていた。


「………………………………」


「………………………………」


 再生していた映画が終わり、テレビは『次に観るおすすめの映画』画面を表示したまま音もなく沈黙している。 窓の外からは微かに蝉の鳴く音がしみ込んできて、時間の流れが緩やかになったかのような錯覚さえ覚え、このままだと色々と歯止めがきかなくなりそうなことは分かっているのに、俺の手は自然と加瀬宮の手に重ねて、指を絡ませていた。


「………………………………成海」


「ダメ」


「まだ何も言ってない」


「何言おうとしてたかはわかる」


「……キスしたい」


「だからダメだって」


「なんで」


「わかってるだろ」


「…………大事にしたいから?」


「……………………そーだよ」


 と、言いながらも、俺の手は加瀬宮と繋がったままで、俺の指は、加瀬宮の指と絡み合ったまま。離れればいいのに、離れられない。ああ、そうだよ。口だけの男だよ俺は。


「……成海はしたくないの?」


「……したいに決まってるだろ」


「じゃあしよ」


「歯止めが利かなくなるからだめ」


 普通の状況ならいい。でも今の状況だと、際限がなくなりそうだから。


「こんなチャンス、滅多にないよ」


「滅多になくてもダメだ」


 甘く囁いてくる彼女から必死に逃げようとするけど、逃がしてはくれない。


「……成海のいじわる」


「……いじわるでいいよ」


 …………実のところ、俺自身、どうしてここまで逃げているのかも分からない。


 恥ずかしいから? 違う。照れはあるし、恥ずかしさがないわけじゃないけど、それが一番の理由じゃない。


 加瀬宮を大切にしてるから? それが近い。だけど、上手く言語化できていない。


 俺のこの気持ちは、もっと曖昧なものだ。形の無い靄のようなものだ。

 心の奥底で何かを感じてはいるけど、まだ言語化できない、曖昧な何か。


 加瀬宮に対して抱いている違和感。

 加瀬宮の甘い囁きの裏に込められた気持ち。


 それを掴み切れていない今のまま、ただ流されるがままに、これ以上のことをしてしまうわけにはいかないと、俺の理性と本能が訴えている。


「……もう昼だし。何か食おうぜ」


「……ん」


 言い訳じみた提案。加瀬宮もここまでと引き際を感じ取ったらしい。

 お互いに名残惜しさを抱きながらも、繋がっていた手を離す。


 それから昼食を済ませた後は、加瀬宮とは普段通りに過ごした。

 また別の映画を観て、ゲームして、夏休みの課題を進めて。

 夏休みの一日はあっという間に日が暮れて、夕食も済ませてから、交代で風呂にも入って。なんとか今日一日を乗り切れそうだと、一人で勝手に安堵していた。


「成海。私コンビニ行くけど」


「ああ、俺も行くわ」


「だと思って声かけた」


 コンビニまで近いとはいえ、夜道を彼女一人で歩かせるわけにはいかない。

 ましてや加瀬宮の今の服装は……。


「その格好でいくのかよ」


「いいじゃん別に」


「いいもなにも俺のTシャツだろそれ」


「そこにあったから」


「思いっきり俺の引き出しから引っ張ってただろうが」


「嫌?」


「嫌じゃないから困ってるんだよバカ」


 夜の生暖かい風を浴びながら、二人で夜のコンビニへと向かう。

 元からそんなに長くもない道だけど加瀬宮と歩いているだけで、ワープしたみたいに一瞬で到着してしまった。


「成海はなに買うの?」


「んー……アイスとシャーペンの芯。加瀬宮は?」


「私もアイス。あと、他にもいろいろ」


「ふーん……? じゃあ、アイスは一緒に選んで、あとは別々に欲しいもん買っとくか」


「成海の方が早く終わるだろうし、先に店の外で待ってて」


「りょーかい」


 冷房の効いた店内で一緒にアイスを選んだあと、各々が買うべきものを買うべく別れた。俺は一学期の時の猛勉強と課題ですっかり量を減らしたシャーペンの芯を補充した後、目的の物を買ってから店の外に出た。どうやら加瀬宮はまだ店内で何かしらのものを探しているらしい。


「……………………ふぅ」


 今日は本当に、俺個人にとっては怒涛の一日だったと思う。

 朝から加瀬宮に告白してから、それはもう忍耐力や理性を試されるものだった。

 別にあいつを拒んでいるわけじゃない。ただ、加瀬宮からは、何かを感じる。それが何かが分からない。


「………………」


 答えが出そうで出ない。形の無い雲が胸の中に詰まっているような、そんなもどかしい感覚を抱えながら夏の夜空を眺めていると――――


「こんばんは。成海紅太くん」


 闇の底から這い出る三日月のような声。得体の知れない存在感を全身から漂わせながら、夜の隙間から顕現するように佇んでいる女性のもの。


「…………加瀬宮黒音かぜみやくおんさん」


 加瀬宮の姉。加瀬宮黒音が、多くの人々を魅了する笑顔を添えながら、そこにいた。


「二人の邪魔をするつもりはなかったんだけどさ、ごめん。来ちゃった」


「それは別に構いませんが、何の用ですか? 加瀬宮なら今、店の中に……」


「小白ちゃんに会いたいのはやまやまなんだけど、違うの」


 黒音さんは首を横に振ると、静かにその目的を告げる。


「今日は君とお話しにきたの。私と似てる、君に」




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