第42話 きみにおぼれて

 あれから一夜が明けた日の朝。

 いつもならもう少し布団で粘るところだが、今日は不思議と目が冴えて布団に籠る気になれなかった。


 正直、自分でもここまで快適な睡眠がとれるとは思っていなかった。

 少し前なら……それこそ、プールに行く前までの俺ならろくに眠れなかったのかもしれない。布団に入る直前も、加瀬宮とどう顔を合わせていいのかもわからず悶々と悩むものかと思っていたが、結果はご覧の通り。


 大して悩むこともなく眠りに入り、こうして清々しい朝を迎えることができた。


(自分でも不思議なぐらいだな……)


 加瀬宮とどう顔を合わせればいいのか。

 それはまだ分からないのだけれども――――でもなんでか、普通に接することができる気がする。なんでだろう。


 顔を洗い、洗面台の鏡に映った自分の顔を見ていると、その理由が分かった気がした。


「……ああ、そっか。そういうことか」


 やるべきことが、ハッキリしているからだ。


     ☆


「…………眠れなかった」


 今日に限って、私の起床時間は過去最低を記録した。

 正確に言えばもっと早くに目を覚ましていたんだけど、布団から出る勇気がなくて気がつけば一時間が経過していた。


 いや、でも、もうそろそろ……いいかげん、起きないと。

 他人の家、それも成海の家でずっと寝ているわけにもいかない。

 今日は琴水ちゃんの家事も手伝えなかったし。学生は夏休みだけどカレンダー的には平日だから成海パパはもう仕事にいってるかな……成海ママは作家のお仕事があるから家にいるのかな。……どーしよ。昨日、琴水ちゃんに洗いざらい報告したせいかな。今、成海ママの顔とか見ちゃうとあなたの息子さんとたくさんキスしてしまいました、みたいなことが浮かんでしまう。


 う〜〜〜〜……起きたくない。でもやっぱり起きないと。流石に申し訳なさすぎる……。


 私は気まずさと恥ずかしさが渦巻く自分の心に抗いながら、いつもよりややゆっくりめのスピードで着替えを済ませて顔を洗い、密かに深呼吸を三回ほど繰り返してからリビングに向かった。


「おはよう」


 真っ先に出迎えて挨拶をくれたのは琴水ちゃん……じゃなくて、成海だった。

 成海の顔を見た瞬間に昨日のキスの記憶が一気に蘇り、同時に『友達』というラベルを失った私達の今の関係への戸惑いもあって、平静になれない。


「……っ。おは、よう」


 いつもより詰まり気味の挨拶。ヘンに思われて無いかな……。

 でもこんなの、平静になれるわけないし……。


「……あ、あれ? 琴水ちゃんは?」


「今日は朝から友達の家で泊まりの合宿をするんだとさ。帰りは明日の夕方になるらしい」


「そ、そうなんだ」


 ……友達の家か。例の『参考書』に関係している気がするのはなぜだろう。


「成海ママは? お仕事?」


「新作の取材に出かけた。帰りは明日の昼。ああ、父さんも会社で急な仕事が入って帰りは明日の夜になるらしい」


「へー。そうなんだ…………」


 まずは落ち着こう。気まずさなんて私が一方的に感じてるだけだろうし。

 落ち着いて、水を飲んで、冷静に状況を整理しよう。

 えーっと、琴水ちゃんは合宿で明日までいなくて、成海ママは小説の取材で明日までいなくて、成海パパも急なお仕事で明日までいなくて……つまり今日一日、この家には私と成海しかいないわけで……。


 ……………………私と成海しかいない?


「え……それ、って……二人だけって、こと?」


「そうなるな」


 何事もないような、なんでもないような、そんな感じでサラッと言ってのける成海。

 ……えっ。ちょっと待って。なんでそんなに普通にいられるわけ?

 だって、私達、昨日は、あんなに……いっぱい、した、わけだし……実際、私なんか今は二人だけって事実と、昨日の記憶がぐるぐるまわって、フツーじゃいられないのに。


 顔だって、こんなにも熱い。たぶん、見たことないぐらい赤くなってるかも。


「いきなりウチに泊まることになって、気ぃ抜ける時もあんまりなかっただろ。今日はのびのびしてていいからな」


 のびのびどころかガチガチになってんだけど。

 てか、成海は本当になんでもないような感じだ。昨日、あんなにもたくさんキスしたことが、無かったことになっているみたいで。


(無かったことにしよう……ってこと、なのかな)


 あれは何かの過ちで。気の迷いで。その場の盛り上がりでしちゃったことで。

 今も唇で甘く疼くこの熱を感じているのは私だけで。

 私一人で勝手に盛り上がって、勝手に色々考えてるだけで。


(……なんか、バカみたいだな)


 琴水ちゃんへの報告で洗いざらい話したのも、きっかけは口を滑らせてしまったことだけど。

 口を滑らせたのだって、元々は……浮かれてたんだと思う。

 好きな男子とキスをして。気持ちが結ばれたと思って。

 でもそれは私の勘違いでしかなかったんだ。


「加瀬宮? どうした?」


「……ん。なんでもない。まだちょっと、眠いだけだから」


「そうか。そういえば今日は起きてくるのがいつもより遅かったな」


「プールとか久々だったから、疲れがたまってたんだと思う。逆に成海は珍しいね。今日はいつもより早いんじゃない?」


「ああ。昨日はなぜかよく眠れたからな」


 やっぱり。勝手に盛り上がってたのは、私だけ……。


「加瀬宮。朝メシなんだけどさ、ファミレスのモーニングにしないか? 俺もまだ食ってないから、一緒にさ」


「別にいいけど……なんで?」


「それは……なんつーか、俺の都合、だな」


「都合? ファミレスでなんかキャンペーンとかやってたっけ……」


 夏休みになっても何度か利用しているし、通っているお店なだけにサイトやSNSもマメにチェックしているけど、目新しいものはない。強いて言うなら夏限定のメニューとかそういうのはあるけれど、モーニングでなにかやってた記憶はない。


「そういうのじゃないんだ。ただ、話したいことがあるから。ファミレスの方がいいかと思ってな」


「ふーん……?」


 とりあえずお互いに支度を済ませて、徒歩でいつものファミレスに向かう。

 夏休みとはいえ今日は平日で、モーニングという時間帯もあってか、人の数はまばらだ。そこからいつもの席に座り、お互いにモーニングを注文する。ちなみに二人ともスクランブルエッグだ。


 ファミレスで話。なんだろ……私達って友達だよねっていう意思確認とか?

 ……あ。だめだ。自分で想像して自分で落ち込んできたかも。


「……で、話したいことって?」


 う。この言い方、ちょっと棘が混じってたかな。

 ……嫌な感じに聞こえたかも。


「昨日のこと」


 どくん、と。心臓の鼓動が緊張で跳ねた。

 冷房がきいているはずなのに、じわりと汗が出る。


「楽しかったよね、プール」


 なんでとぼけてるんだろ。……分かってる。触れられたく無いんだ。

 分かりきってる答えを聞きたく無いから。


「……キス、しただろ。俺達」


「……………………そだね」


 いやだ。成海の口から分かりきってる答えを聞きたくない。

 今更、友達になんて戻れないよ。だって好きなんだし。あのキスを、なかったことになんかできない。


「わかってる。ごめん。あれ、私が勝手に盛り上がって、勘違いしただけだから。だから……」


 だからなんだ。だから、何を言おうとしてるんだろ。

 

「……勘違いじゃねーよ」


「……………………えっ?」


 自分の都合の良い幻聴を疑う一言に、思わず聞き返してしまう。


「勘違いじゃないし、お前が一人で勝手に盛り上がってたわけでもない」


 成海は私の目をまっすぐに見つめながら、まっすぐな言葉をくれた。


「じゃあ……なんで、キス、したの……?」


「……好きだからだよ。加瀬宮小白のことが」


 私のことをまっすぐに見つめながらくれたその一言に、今度は自分の幻覚や幻聴を疑う余地なんてなかった。


「お前を他の誰にも渡したくない。俺だけのものにしてしまいたい。加瀬宮小白っていう人間が愛おしくなって、俺の中にある気持ちが溢れた」


 成海から言葉が溢れてくる。甘い言葉の洪水に、少しの呼吸もできないぐらいに沈んでいく。成海紅太っていう人間に、私の心はどんどん溺れてしまう。


「ちゃんと言葉にできていなくて悪かった。でもあれは、お前の勘違いじゃない。俺は加瀬宮のことが好きだ。加瀬宮小白っていう人間に、俺はもうどうしようもなく溺れてるんだよ」


「――――っ……!」


 ……だめだ。だめ。こんなの、だめ。

 顔があつい。心臓がどきどきする。たぶんいま、私は、真っ赤だ。恥ずかしいぐらいに。


「……私で、いいの?」


「加瀬宮がいい」


「……ほんとに?」


「お前以外は考えられない」


「……やめてよ。そういうこと言うの」


 今の私は家から追い出されてる状態で。

 ママは私なんか見てくれなくて。

 現実はいつだって辛くて、私はただの子供でしかなくて。


 それでも。どんな時でも――――成海はいつも、私に幸せな現実をくれる。


「……幸せすぎて、どうにかなっちゃいそう」


 私の手をとって、一緒に逃げてくれて、幸せな現実まで連れて行ってくれるのは、いつだって成海紅太なんだ。


「むしろ、俺でいいか?」


「……成海以外、考えられないに決まってるじゃん」


 涙が出てくる。嗚咽が止まらない。


「……ばか。ほんとにばか。責任、とれよ。私だってもう、成海にどうしようもないぐらい……溺れて、るんだから」

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