第39話 ふたりきり①
夏樹の言葉なんて冗談だと分かっていた。
俺を煽るための挑発だと理解していた。
それでも、胸の奥から湧き上がってくる醜くドロドロとした感情が、粘ついた炎のように湧き上がってきた。
加瀬宮を渡したくない? なんて傲慢な考えなのだろう。加瀬宮は誰のものでもない。敢えて言うなら加瀬宮小白は、加瀬宮小白だけのものだ。
……でも、そう思ってしまった。
――――加瀬宮小白を自分だけのものにしてしまいたい。
俺の中にあるその感情を、夏樹はたった一言で剥き出しにしてみせた。
「……えげつねぇことしやがって」
「紅太には幸せになってほしいからねー。自分の気持ちから逃げて不幸になるなんて笑えないし。何よりせっかくの夏休みだよ? ダラダラ逃げるより、さっさとくっついて恋人のいる夏を満喫してほしいわけですよ」
「お前は俺の保護者かよ」
実際、夏樹にはかなり世話になっているんだけど。
「保護者ってのもなんか違うよね。強いて言うなら……」
夏樹のその先の言葉を聞くことはなかった。
「なぁ。あれ、見てみろよ」
代わりに聞こえてきたのは、周囲にいる誰かの言葉。
先ほどまで辺りにに満ちていたのは、まとまりのない会話の羅列。だけど今、明らかに世界の空気そのものが一変し、一つの意識に統一されていた。空気や言葉だけじゃない。この場に居る俺と夏樹を除く全員の視線が、ある一点、一ヶ所に集中していることに気づいた。
今まさに世界の中心と化している場所にいたのは、水着姿の少女が二人。
言われるまでもなく――――加瀬宮小白と、来門紫織。
加瀬宮は白い
思わず、いつもとは違う髪型に心臓の鼓動がとくんと僅かに跳ねた。もしこの世に天使というものが存在するとしたら、それはきっと、加瀬宮と同じ姿をしているかもしれない……そんなバカげた考えが一瞬、頭を過ぎった。来門さんは加瀬宮とは対照的に黒の水着を選んだらしい。腰にパレオを巻いていて、どこか大人びた印象を受ける。その堂々とした立ち振る舞いのせいか、年上と錯覚してしまいそうだ。
「あの二人、すっげー可愛くね?」
「もしかしてモデル? 芸能人?」
「おれ声かけてみよっかな……」
二人ともまだこちらには気づいていないらしい。当たりを見渡しながら集合場所であるこのヤシの木に向かって歩いているが、普通に歩いているだけで周りの視線を一身に集めている。中にはフラフラと引き寄せられるような動きをしている男達もいて……光に引き寄せられる蛾の群れみたいだな。
「ねぇ、君達。二人だけ? 暇? よかったら一緒に遊ばない?」
「暇じゃない。見りゃ分かるでしょ」
「ごはんとか奢るからさー。なんなら遊んだ後とか……」
「友達待たせてるんで」
日頃からこういう誘いは慣れてるのだろう。練度が垣間見えるスルースキルで加瀬宮は男達の誘いを跳ね除けていく。あれは一学期の教室でも散見されたクールビューティーブリザードだな。隣を歩いている来門さんも手慣れた様子だ。
「――――あっ」
真夏に吹き荒ぶ極寒の如き眼差しから一転。
加瀬宮は俺と目が合うや否や、心地良い日差しのような、柔らかい笑みを浮かべた。
「成海っ」
ぱたぱたと小走りで駆け寄ってくる加瀬宮。さり気なく周囲の男達に接触を許すことなく華麗に避けているのは流石と言うべきか。
「二人とも待たせてごめん。ちょっと着替えに手間取っちゃって」
「大丈夫だ。そんなに待ってない」
……ああっ。くそっ。タイミングが悪い。さっき夏樹に自分の本心を剥き出しにされたせいだろうか。普段から可愛い加瀬宮が、今日は三割増しで可愛く見える。何より平静でいられない。……落ち着け。
「むしろもっとゆっくりしてもよかったぐらいだよ。女性の身支度を待つのは男子の仕事だしね」
「あら。犬巻くんは随分と女の子とのお出かけに慣れてるのね」
「まあね。これでも遊び人だからさ」
自分のペースを崩すことなく歩いてきた来門さんが加わり、これで四人全員が合流した。
「さて。全員揃ったことだし、さっそくどこかに移動しようか」
言いつつ、夏樹は周囲へと目を向ける。ちょっと目を離しただけなのに、この集合場所の周りは明らかに人口密度が高まっていた。
「このままじゃプールに入る前に、人の海に溺れそうだからね」
夏樹のもっともな提案に乗って足早にヤシの木から離れる。
未練がましい視線が加瀬宮と来門さんに集まり、嫉妬と怨念のこもった刺々しい視線が俺と夏樹の背中をちくちくと突き刺さる。
「このまま屋外の方に移動するか? そっちの方が派手なの多いし」
この立上ウォーターシティーは屋外と屋内のエリアに分かれている。
屋内エリアは幼い子供をはじめとした幅広い世代が楽しめるアトラクションが揃っていて、逆に屋外プールは大型のウォータースライダーなどの派手なアトラクションが多い。
「夏樹の好きな流れるプールも屋外にあるしな」
「そっちは後回しでいいよ。派手なのは体力のあるうちにみんなで楽しんでおかないとね」
「だったら乗ってみたいアトラクションがあるんだけど。いいかしら?」
「勿論。で、来門さんはどれに乗りたいの?」
来門さんはピン、と真っすぐに伸びた人差し指を、ある一点に向けた。
「あれ」
☆
スネークエスケープ。
この立上ウォーターシティーの目玉アトラクションだ。蛇をモチーフにした長大なコースの中を二人乗りゴムボートに乗って流れていくというもので、人気も高い。実際に順番待ちに長蛇の列が形成されていた。
俺たちもさっそくその列の一部となって、雑談に興じながら順番を待つことにした。
ここまで来て目玉アトラクションを堪能せずに帰るという選択肢はなく、来門さんの希望でもあるのだから。何より一人で並ぶならともかく、四人で雑談でもしていれば時間なんてあっという間だ。
「あー。ごめん、ちょっと抜けてもいいかな?」
列の進みも終盤に差し掛かった頃。夏樹が申し訳なさそうに切り出した。
「は? どうしたんだよ急に」
「お腹空いちゃってさ~。そういえば朝から何も食べてなかったの思い出したよ。もうペコペコ。ちょっと軽く何か食べてくる」
「我慢できないのか? せっかくここまで並んだのに」
「悪いね紅太。もう僕の心は目の前のアトラクションより、売店のホットドッグに奪われてるみたいだ」
それ以上、止める間もなく夏樹は流れる水のように列から離脱していった。
…………まあ、あいつの個人的なお目当ては『浮き輪に乗って流れるプールをゆらゆらする』ことだしな。ウォータースライダーにはそんなに心惹かれてなかったのだろう。
今日は夏樹へのお礼も兼ねているので無理強いもできない。
俺に出来ることと言えば、夏樹が堪能するであろうホットドッグの料金を立て替えることぐらいだ。
――――しかし、それから数分後。
「ごめんなさい二人とも。わたしも少し抜けてもいいかしら?」
「紫織も? なんで?」
「……少し眩暈がするの。暑さにやられちゃったみたい」
「うそっ。大丈夫? 歩ける? 救護室に行くなら私も……」
「大丈夫よ。元々、夏は苦手なの。いつものことだし、水に入って涼めば収まるから。救護室に行くほどのことじゃないわ。だから二人は、わたしや犬巻くんの分まで楽しんできてちょうだい」
それ以上、加瀬宮が心配する間もなく来門さんもまた列を離脱した。
…………眩暈がするって言ってた割に随分としっかりとした足取りだったな。
「………………………………」
「………………………………」
これで残りは俺と加瀬宮の二人だけ。思わず互いの顔を見合わせる。
このスネークエスケープのゴムボートは二人乗り。最初は俺と夏樹、加瀬宮と来門さんという男子と女子に別れて乗る予定だったのだけれども、残りの人数を考えると組み合わせは……俺と加瀬宮になる。
「……どうする? 犬巻と紫織、いなくなっちゃったけど」
どうするもこうするも……いや、どうするんだこれ。
「では、次の方どうぞ」
考える間もなく、スタッフさんによって俺たちの出番が告げられた。
一人で乗ることができるのだろうか? 仮にここで、俺が逃げたら……加瀬宮はどうするのだろう。誰かと一緒に乗る? 俺たちの後ろにいるのは……男が二人。ならここで俺が欠ければ、加瀬宮は後ろにいる男と乗ることになるのだろうか?
「……次の方? どうされましたか?」
それは。それだけは――――
「乗ります」
――――絶対に嫌だ。
「な、成海?」
驚いたような加瀬宮だったが、順番を詰まらせてしまったせいか女性スタッフの手でやや強引に誘導されていき、誘われるがまま二人でゴムボートに乗り込む。
「……よかったの?」
「……俺たちまで乗るのをやめたら、逆に二人に気を遣わせるだろ」
我ながら言い訳じみている。
「それに、来門さんも言ってただろ。自分達の分まで楽しんでくれって。だから、楽しもうぜ」
「そう……だよね。うん。楽しもう。二人の分まで」
言葉を重ねれば重ねるほど言い訳みたいになっていく。だけど幸いなことに加瀬宮はその言い訳に乗っかってくれた。
ゴムボートは俺が後ろの座席で、加瀬宮が前の座席についていたので、顔は見えないけれど。心なしか耳が赤い気がする……。
「――――……っ……」
仄かに赤い耳に注目していたから気づくのが遅れた。
今日の加瀬宮は髪を後ろにまとめている。そして俺は今、加瀬宮の後ろの席に座っているわけで。普段は金色のベールに隠されている加瀬宮の白いうなじが視界に飛び込んできた。
夏の暑さのせいだろうか。汗の雫が太陽を受けて透き通るような輝きを帯び、重力に従ってうなじのラインを流れていく。
…………ああ。ダメだ。眼を離さなければいけないのに。見てはならないものを見てしまっているような背徳感に全身が痺れている。それだけじゃない。
甘くてドロドロとした醜い独占欲が沸き上がって、その白い首筋に印をつけたくなってしまう。誰にも盗られないための、誰にも渡さないための印を。なんだ。俺はこんなにも、抑えのきかない人間だったのか。
「はい。じゃあ、いきますよー」
スタッフさんの声で我に返るや否や、ゴムボートは水の流れに乗ってコースの中を走り始めた。
「ひゃっ……!」
「うおっ……!」
意外とスピードがあるな。それに繰り返されるカーブで仄かなスリルが刺激されて面白い。
「あははっ! けっこー楽しいね、これっ!」
「ああっ! 気も紛れて最高だ!」
いやほんと。このヘンな気分を紛らわせるのには丁度いいアトラクションだ。
出来ればこのまま俺の頭が冷えるまで続いてほしいのだが、すぐ出口までやってきた。
最後に滝のように流れる水を通過して、ゴムボートは小さなプールに着水。俺はまた変な気分になる前に急いでボートから離脱する。
「成海、こういうの苦手だった?」
「んなことねぇよ」
「ホント? なんかやけに急いでボートから降りてるけど」
「……色々あるんだよ。こっちも」
こっちの気も知らないで呑気に言ってくれるなこいつめ。
「ふ~~~~ん? 色々、ね」
「……つーか、後ろがつかえるんだからお前も早く降りろよ」
「はいはい」
そのまま加瀬宮と一緒にスネークエスケープのプールから上がる。
「じゃ、夏樹達と合流するか。あいつホットドッグ買いに行くって言ってたな」
ともかく早く合流だ合流。また俺がヘンな気分になる前に。
「……ねぇ。せっかくだしさ。ちょっとだけ、他のプールに入ってみない?」
そんな俺の苦労も知らず、加瀬宮は引き留めるように声をかけてきた。
水に滴る髪。仄かに赤い頬。身長差によって生じた上目遣い。
「二人だけで……さ」
この誘いを断れるほど、残念ながら俺の精神は強靭ではなかった。
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