第36話 天使に捧ぐ神殺し
「どうして……なんで…………」
kuonのマネージャーを外された後、
言葉を尽くして説得した。誤解を解こうとした。社長に掛け合ってkuonのマネージャーに復帰できるようにするために手を尽くした。しかし、最後には誰もが同じ判断を下した。
――――
このたった一言で、加瀬宮空見は何もかもを失ったのだ。
そして、この状況を作り上げたのは――――加瀬宮黒音。自分の娘。
「嘘よ……嘘。全部、嘘よ……わたしが……私が、こんな……」
もはや加瀬宮空見にできることは何もなかった。
誰もいない空っぽの家で、一人で目の前の現実から逃避することしかできなかった。
「…………なぜ……こんなことに……なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。どうして……」
混沌と化している頭の中で何度も社長とのやり取りが繰り返される。その度に空見は全てを失う喪失感を味わい、逃避する。そしてまた社長とのやり取りを思い返す。その繰り返しの中で、空見は一筋の光明を見出した。
「小白………………そうよ、小白よ! あの子に証言させればいいのよ! 私は虐待なんかしてないって!」
見出した光明は眩き光となって、空見の闇に包まれていた頭の中を晴らしてくれた。
「あぁ、こんな簡単なことに気づけなかったなんて! さっそく小白に連絡を――――」
「随分と都合のいいこと言ってるね」
その声は、光を嘲笑い握り潰すかのように。
その足音は、闇を引き連れているかのように。
「
「まだ元気そうだね、ママ」
加瀬宮黒音はその姿を現した。
「黒音、黒音! あなた、どういうこと!? 一体どういうつもりなの!? 急に……急に、こんな……! デマを流すようなことをして、私を引きずり下ろすようなことをして!」
「…………」
「ええ、分かってるわ。小白の件が気に食わなかったのでしょう? でも仕方がないじゃない。あなたのためなのよ?」
「……………………」
「あなたの将来のことを考えれば、今はとても大事な時期なの。kuonの勢いは一過性のブームなんかじゃない。あなたは本物なの! あなたにくだらないことで傷をつけるわけにはいかないの!」
「………………………………」
「私はただ――――あなたのことが護りたかっただけなの!」
「………………………………私のことを、護りたかった?」
「……っ! そう、そうよ! 私はあなたを護りたかったの! あなたと、あなたの輝かしい未来を……!」
自分の娘に縋りつく。空見にとって黒音は自分の全てだ。己の人生全てを捧げると定めた人間だ。無様でも何でもいい。しがみついて縋りつく。黒音だけは失うわけにはいかない。
「…………っ」
黒音は震えていた。きっと、親の愛情が届いたのだろう。そうに違いない。
「ぷっ……くくっ…………あはははははははははははははっ!」
「………………………………えっ?」
期待に胸を膨らませる空見に返ってきたのは、黒音の笑い声だった。
舞台で踊る道化を見て、腹を抱えて笑い転げているような。親子の情などが介在する余地のない
「私のことを? 護りたかった? あははははははははっ! それ、本気で言ってるわけ? だとしたらさぁ……あはっ! 最ッ高に救いようがなくて、逆に嗤えてくるよ!」
「どういう意味……? 何が言いたいの!? 私は本当にあなたを護りたくて……!」
「あんたが護りたかったのは私じゃない。あんたのつまらない人生を満足させるための、特別なお人形でしょ?」
黒音はこちらの呼吸の隙間を突くような
「あんたにはお姉さんがいた……私にとってはおばさんになるのかな。割と自由で、それでいて才能のある人だったらしいね。遊び呆けているのに容量は良くて、みんなから好かれてた。勉強やスポーツも常に一番で、成績は常にあんたの上にいた。……まぁ、大学を卒業したら家を飛び出してどこかに消えちゃったらしいけど」
そう。空見の姉は学生時代から……いや。生まれた時から常に、何もかも空見の上にいた。姉に勝てたことなど一度もなかった。
「おばさんは……あんたのお姉さんは特別な人間だった。あんたは何一つとして勝てなかった。劣等感ってやつだけが、常にあんたの中にあった。お姉さんが特別に見えて、あんたは特別な人間に憧れた。自分も特別な人間になりたかった」
黒音から目を離せない。逃れることを、あの眼が許してはくれない。
「親に言われた通りに勉強して、親に言われた通りの大学に入って、親に言われた通りの企業に就職した。何にも考えず、ただ親に言われるがままに生きてきた。……でも、ある時に気づいたんでしょ? あんたの中には何もない。『お姉さんと比べてつまらない人生』だけが横たわっていたことに」
「…………っ……!」
「姉に比べればなんて平凡で、退屈で、つまらない人間だろう――――だけど人生はやり直せない。やり直せないから、私を使うことにしたんでしょ? 私をあんたのアバターにして、私の成功を自分の成功に重ねてたんでしょ? 人生二週目でもやってるような気分だったんでしょ?」
言葉の一つ一つが、容赦なく空見の心を抉る。自分の中に秘していたものを、無理やりこじ開けて掴み取る。
「マネージャー面して、自分も特別な人間になれたって思いたかったんだよね? お姉さんよりも凄い人間に、自分がなれたと思いたかったんだよね? だから私に成功してほしかったんだよね? 私は、あんたのお姉さんへの劣等感を晴らすための
一歩、黒音が近づく。その度に一歩、空見は後ずさる。
「あんたが小白ちゃんを嫌ってるのは、小白ちゃんを見ていると思い出すからだよね? 自分のお姉さんへの劣等感。常に出来の良い姉に劣り続けた昔の自分自身を。だからあんたはこの家から逃げたんだ。小白ちゃんを……姉への劣等感に塗れた、過去の自分自身を見たくないから」
「だ、黙りなさい!」
後ろに下がって、下がって、下がり続けて、背中が壁にぶつかった。
空見は無理やり声を張り上げ、怒鳴りつけることしかできなかった。
それが黒音に対して何の効果もない虚勢であると分かっていても。
「私たちは家族じゃない! なのになぜ、そんなことを言うの!?」
「小白ちゃんだって家族だよ。私の大切な妹で…………私のところに舞い降りてきてくれた、かわいい天使。私の歌はね。小白ちゃんっていう天使がくれたものなんだよ」
「天使……? 意味が分からない……いえ。それがどうしたというの!? 私は……私はあなたたちの母親なんだから!」
「そうだねぇ。これを認めるのは癪だけど、あんたがいなかったら私は小白ちゃんの姉になれなかったし、小白ちゃんは私の妹になってなかった。そういう意味ではありがたいし、感謝してるよ。小白ちゃんが天使なら、私たちを産んでくれたあんたは神様ってとこかな」
「神様なら……神様である私の言うこと、きいてくれるわよね……? そうでしょ? 黒音……」
縋るように手を伸ばす。目の前にいる娘に。自分の人生を輝かせてくれる光に。
「救えないね、ほんと」
伸ばした手は冷たくあしらわれた。
「私はね――――天使のためなら神様も殺せる」
「…………!」
それが決別の一言であることは明白だった。
足から力が抜け、膝から床に崩れ落ちる。黒音はただそれを見下ろすだけ。
「産んでくれたことも育ててくれたことも感謝してる。……まぁ、もういいでしょ。あんたの残りの人生、遊んで暮らせるだけの額は稼いだわけだし」
「どこに…………どこに行くの……?」
「ここじゃないところ」
「待って……!」
「待たない」
娘の背中はどんどん遠ざかっていく。自分の手の届かないところへと。
「さようなら」
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