第35話 琴水の暴走

 私がこの夏休み、成海家(正確には辻川家だけど)にお世話になりはじめてから、家事の手伝いをすることを心の中で決めている。成海は甘えろって言ってくれるけれど、お世話になりっぱなしは私が気にするし。なので夏休みの真っただ中であっても早起きをしてるんだけど。


「おはようございます。加瀬宮先輩」


「おはよ。琴水ちゃん」


 私が一階に降りている頃には、決まって琴水ちゃんが朝食の用意を始めている。


「朝ごはんの準備、今日も手伝っていい?」


「もちろんです。とても助かります」


 と、言ってくれているけど、正直本当に助かってるのかは謎だ。私がそう内心で首を傾げてしまうぐらい、琴水ちゃんの手際は良い。だけどこうして起きたからには手伝わず黙って見ているという選択肢もない。


「今日は何作るの?」


「かつ丼です」


「おっけー。かつ丼ね………………………………かつ丼?」


「はい。かつ丼です。それが何か?」


「あ、いや……朝からけっこーガッツリしたものいくね。もしかして成海……じゃなかった。辻川家の朝食っていつもはこうだったの?」


「まさか。わたしは問題なく食べられますが、お父さんやお母さんはそんなに食べませんし」


 食べられるんだ……いや、琴水ちゃんなら不思議じゃないか。

 この家でお世話になり始めてから何に一番驚いたかって、琴水ちゃんの食べっぷりだ。本当によく食べるんだよね。健啖家っていうのかな。この前の夕食の時、大盛りのご飯を三杯は食べてたっけ。夏休み前は家の空気もあって控えてたそうだけど、問題が多少解決してからは以前のようによく食べるようになったとか。


「わたしは毎朝これぐらいのものでもいいんですが、わたしの好みだけを押し付けるわけにはいきませんし……何より栄養バランスのこともありますから」


「じゃあ……なんで今日はかつ丼?」


「ゲン担ぎです」


 勝負に勝つ、みたいなことだろうか。と、私が何に対するゲン担ぎかを考えていると、琴水ちゃんは冷蔵庫から必要な食材を取り出しながら言う。


「加瀬宮先輩、今日は兄さんや会長たちとプールに行くんですよね?」


「そうだけど……えっ? それが関係してるの? でもなんでかつ丼?」


「プールといえば水着。これは先輩の水着姿で兄さんを落とす絶好のチャンスです。いくさです。戦いです。ですので、ゲン担ぎにかつ丼をと思いまして」


「お、落とすって……」


 琴水ちゃんには私が成海を好きなことは知られている。私自身、琴水ちゃんがきっかけで成海への想いを自覚したところがあるし。だからこうして手助けしてくれようとしているのだろう。


「私はまだ兄さんと暮らし始めてから数か月程度ですが、あの人が鈍いということぐらいは分かります」


「まぁ……それは確かに」


「こんなにも綺麗な人が同じ屋根の下にいるにもかかわらず、青春の衝動に身を任せて本能のまま果実を貪る野獣になっていないのは……」


「待って」


 うん。止めよう。ちょっとストップしよう。きっと聞き間違いだ。


「ごめん。まだ寝ぼけてるのかな。よく聞こえなかったから、もう一回言ってくれる?」


「加瀬宮先輩が同じ屋根の下にいるにもかかわらず、月明かり差し込むベッドの上で、互いの肉体を貪るようにして溶け合い一つになっていないのは……」


「琴水ちゃん、ちょっと落ち着いて」


「……はっ。すみません。少し熱くなってしまいました」


「少し……少しかぁ……」


 少しの定義が私の中で揺らぎそうだ。


「すみません。友人から仕入れた参考書の内容を思い出そうとすると、こうなってしまうみたいで」


「参考書?」


「えぇ。私はこういった恋愛事には疎いので、友人に相談してみたんです。そこで参考書をいくつか貸してもらったんです。加瀬宮先輩の力になれないかと思いまして。加瀬宮先輩も読んでみますか?」


「……ありがと。気持ちだけ受け取っとく」


「そうですか。とても……とてもとても興味深い内容で参考になったのですが……」


 琴水ちゃんの言葉には、とてもとても気持ちがこもっていた。……もしかすると私は今、学年一位の頭の中が桃色に染まろうとしていることを知ったのかもしれないが……触れるのはやめておこう。藪から蛇が出そうだ。


「……ありがとね。応援してくれて」


「……いえ。お気になさらず。加瀬宮先輩や兄さんへの罪滅ぼしの意味もありますが、わたしにも利益のあることですから」


「利益?」


「兄さんの恋人は、わたしの義理の姉になる方でもあります。もしその人が王国を滅亡に導く傾国の悪女や、王子を我が物にするため平民の主人公をあの手この手で陥れる公爵家の悪役令嬢では困ります」


「……………………………………………………なるほどね?」


 余計な情報が多すぎて頭の中で処理するのに時間がかかったけど、だいたいわかった。

 要するに「お兄さんの恋人が悪い人なのは嫌です」ということなのだろう。

 ついでに琴水ちゃんの仕入れた『参考書』の一部がどんな内容だったのかも少し分かった。


「その点、加瀬宮先輩なら兄さんを安心して任せられます。この夏休み一緒に暮らせたのも大きな収穫でしたね。同棲の良いシミュレーションになったのではないでしょうか」


「ど、同棲……」


「恋人になればゆくゆくはそうなるかと」


 私が目の前のことで精いっぱいになっているというのに、どうやら琴水ちゃんはずっと先のことまで考えているようだ。流石は学年主席。視野が広い…………


「邪魔者のいない二人だけの愛の巣……二人は毎晩、朝まで止まることなく一つのベッドで獣のように交じり合って……」


 …………訂正。暴走してるだけだこれ。


「琴水ちゃん。戻ってきて」


 どうしよう。成海に言った方がいいのかな。義妹の脳内がピンク色になってるって。しかも割と手遅れなレベルで。


「…………こほん。失礼しました。思考に熱が入り過ぎたようです。最近、友人と共に執筆活動をはじめたせいか、思考を重ねる癖がついてしまったようで」


「執筆活動……?」


「はい。文芸部の友人に勧められて小説を……どーじんし? うすいほん? という名称だった気も……名前はともかく、薄い参考書を共同で作ることになりまして。私はこういったことに疎いのでよく分からないのですが、『今からじゃ夏は間に合わないから冬のビッ○サイトに殴り込みをかけよう』と……話に聞いたところ、夏と冬に多くの自作参考書が出品される学問の祭典があるとかで」


「そ、そうなんだ」


 残念ながら私も文学に詳しいわけじゃない。夏と冬に開かれる学問の祭典とやらも初耳だ。……でも琴水ちゃんの『参考書』のことを考えると……うん。考えるのやめよ。


「ともかく、今日のプールはとても大きなチャンスです。水着姿で兄さんにアピールしてください。応援してますから」


 アピール……うん。そうだよね。正直そこまで考えてなかったけど、考えるべきだった。

 来年は三年生。遊べる機会は少ないだろうし、今年の夏休みは頑張らないと。


「ありがと。がんばってみる」


「良い報告を期待しています」


 がんばろう。応援してくれる琴水ちゃんの期待に応えるためにも。何より、私のためにも。


「偶然出くわした同級生から加瀬宮先輩を隠すように、物陰に連れ込む兄さん……独占欲を抑えきれない兄さんの手が先輩の水着の紐を解いて、魅惑の布地によって秘された白い肌が露わに……」


「ごめん琴水ちゃん。そこまで期待されても困るかな……」


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