第25話 辻川家のエピローグ
期末テストの全日程が終了し、それから程なくして全てのテストの返却と結果も終わった。
クラスメイトたちは解放感と近づいている夏休みに心が弾んでいるが、しかし俺からすれば、ここからが本当の闘いだ。
「今日は家に帰るんでしょ」
「ああ。もう夏樹の家から荷物は引き取ってきた」
放課後。
父さんが帰ってくる時間になるまで、俺は加瀬宮と一緒にファミレスで時間を潰していた。カバンの中には期末試験の結果も入っている。
「緊張してる?」
「してる」
「どれぐらい?」
「さっきから心臓の音がうるさすぎるぐらい」
「……触ってみてもいい?」
加瀬宮の申し出は不意打ちにも等しいもので、驚きはしたものの、俺は考える間もなく自然と頷いていた。
こいつになら、無防備に心臓を差し出せる。
「いいぞ」
「じゃ、こっち来て」
俺は椅子から加瀬宮の隣のソファー席に移動する。
加瀬宮の手が胸元に添えられた。柔らかい温もり。女の子の甘い香りが漂ってきて、心臓の鼓動が一際大きく跳ね上がる。
「……ほんとだ。すごくどきどきしてる」
加瀬宮の声がいつもより近い。この腕の中にすっぽりと納まりそうな距離にいる。
こんなにも無防備に、全てを委ねるかのように身を寄せてくる加瀬宮を、衝動的に抱きしめてしまいそうになる。
「ねぇ、成海」
「なんだ」
「この鼓動ってさ。家族に緊張してるだけ?」
「どういう意味だよ」
「……ん。この鼓動の中に少しでも……私がいればいいなって思っただけ」
加瀬宮の手が離れた。
……ああ、離れてくれてよかった。あと少しでも遅れていたら、この一番大きな鼓動を聞かれていただろうから。
「最終決戦に挑む前にくたばりそうだ」
「なんで」
「秘密だ」
加瀬宮の言葉の意味を問うことはできなかった。
生憎と今はそこまでの勇気を隣にいる少女へと割くだけの余裕はない。
「……今日で最後かな。成海と、ここで一緒に過ごすの」
「どうしてそう思う?」
「私たちにとって、ここは逃げるための場所だから。逃げる必要がなくなったら、もうここには来ないでしょ」
「勝手に決めるなよ」
「でも理由がない」
「そうとは限らない」
荷物をまとめた俺は、気力と勇気を振り絞って立ち上がる。
「そんじゃあ、もう行くわ。加瀬宮はここで待ってろ、あとで迎えに来る」
「……期待しないで待っとく」
「そこは期待しとけ」
加瀬宮と別れた俺は、一人で店を出る。同盟を結んで以降、店を出る時はいつも加瀬宮と一緒だったから、久しぶりの感覚だ。
そしてこの、辻川家へと続く道を歩くのも久しぶりだ。
あれから今日までぜんぜん帰ってなかったもんな。
「…………さて、と」
久しぶりの我が家に入る前に、自分の左手を見る。
加瀬宮に書いてもらった花丸マークはもうすっかり消えているが、俺の胸の中には今でも残っていた。それだけで十分だ。
「ただいま」
「……おかえりなさい」
意を決して我が家に帰宅すると、母さんが出迎えてくれた。
少し胸が痛む。母さんの顔は幸せからは程遠く、あのクソ親父と暮らしていた頃のように暗く淀んでいた。それでもあの頃よりはマシだ。父さんや琴水が支えてくれたおかげだろう。
「母さん、ごめんな。心配かけた」
「ううん……あたしこそ、ごめんね……あたしのせいで……」
「その話はあとにしよう。今はそれより先に、やるべきことがある」
リビングに入ると、仕事を終えて帰宅した父さんと琴水が既に揃っていた。
「おかえり、紅太くん」
「ただいま、父さん」
もうすっかり自然に口にすることができる俺の「父さん」という言葉を聞いた母さんは、驚きに目を見開いた。
「あんた、今……『父さん』って……」
「大丈夫。もう呼べるよ」
「紅太……!」
母さんの嬉しそうな顔。これが見れただけで、変われてよかったと思える。
「ただいま、琴水」
「……おかえりなさい。
琴水の目は俺に対する敵意に満ちていた。
必ず倒す。倒してみせるという、強い意志。
「逃げずに来たんですね」
「ああ。逃げずに来た」
「一応聞いておきます。考えを改める気にはなりましたか?」
「考えを変える気はない」
「……そうですか。だったら、力づくでも戻ってきてもらいます」
琴水はテスト結果の記されたシートをテーブルの上に置いた。
「わたしは今回も学年一位をとりました。わたしの勝ちです」
「流石だな」
「敗北宣言ですか?」
琴水は静かに俺を追い詰めていく。俺だけを真っすぐに、射抜くように見てくる。
「わたしが日々の積み重ねをしていく努力型だとすれば、来門会長は天才です。わたしは逃げず、努力を怠らず、今日まで積み重ねてきました。それでも会長には一生勝てないですし、届かないでしょう。……故に。だからこそ。逃げてばかりのあなたでは万に一つも勝ち目はない。こんな勝負、はじめから負けは決まっていたんです」
達人が持つ真剣の切っ先を、喉元に突きつけられているような感覚。
「さぁ、見せてください。あなたの敗北の証を」
「……ああ、見せるよ。今の俺の全力を」
失くさないように鞄に仕舞っていたテスト結果のシートをテーブルの上に置く。
「…………学年十二位、ですか」
俺の成績を目にした琴水は、僅かに強張っていた肩から徐々に力を抜いていった。
「やっぱり、あなたの負けですね」
「そうだな。俺の負けだ」
「自分から勝負を仕掛けてきたので、何か秘策でもあるのかと思いましたが」
「そんな都合の良いもんはねぇよ。あれだけ派手に啖呵をきっておいて、死ぬほど勉強して、十位以内にも入れやしない。これが今の俺の全力で、今の俺の実力だよ」
「…………何がしたいんですか?」
琴水の反応も当然だろう。
こんなこと、勝負するまでもなく分かり切っていたことだ。
「あなたは一体、何がしたかったんですか? わたしをからかってるんですか? バカにしたかったんですか? こんな勝負にむきになって、滑稽だと?」
「違う」
「じゃあ、何を……!」
「お前じゃねーよ、琴水」
琴水には申し訳ないとは思っている。ここまで真っすぐに、俺を見ているのに。
「俺が、今の俺を見せたかったのはお前じゃない」
「…………っ!?」
俺が見ているのはお前じゃない。
俺が見ているのは――――、
「母さん」
俺の母親。父さんが支えるように寄り添っているその人。
「紅太……? なにが……言いたいの?」
「俺はもう大丈夫、ってこと」
「えっ……?」
「妹相手に勝負をしかけて、俺は派手に負けた。これ以上ないぐらいに、無様に負けた。……言っておくが全力は出したんだぜ。死ぬ気で勉強した。周りの人の力も借りて、今の俺の全力を出した。それでも負けた」
この敗北は必然だ。琴水の勝利も必然だ。
むしろちょっと勉強したぐらいで勝てる方がおかしい。
「紅太……違う。違うのよ」
「違わねーよ。俺は、妹の琴水よりも劣ってる。出来の悪い子供。これは紛れもない事実だ」
この現実だけはきちんと受け入れなければならない。
「…………でもな。俺はもう、その事実で心が折れたりしない」
「…………っ!」
ああ、ようやく言えた。言わなければならないことを。
「ここまで無様に負けたって、こうして立ってられてるんだ。もうクソ親父の時みたいにはならない。それが今、母さんが見てる現実だ。もう俺に余計な気を遣う必要はないんだよ」
「紅太……紅太…………!」
母さんは膝をついて、首を垂れるようにしながら嗚咽を漏らした。
「ごめんなさい……ごめんなさい……あたし、あなたを信じることができてなかった……! あたし自身が、あなたを弱い子だって、決めつけてた……! ごめんなさい……!」
「謝る必要なんかないって。俺が弱かったのは事実だし。これからまた、やりなすから」
「うん……うん……そうね…………。ありがとう……あたしも……がんばらなくちゃね……」
母さんを慰めながらも、俺は立ち尽くしている琴水に向き直る。
「……悪いな琴水。お前を利用するようなことして」
「……あなたは最初から、わたしではなくお母さんを見ていたんですね」
「まあ……根本的なところを解決しなくちゃな、とは思ってたよ」
「そのためにわざわざ、負ける為の勝負を挑んだんですか……?」
「いや。本気で勝つつもりで、お前に勝負を挑んだ……まあ。ちょっと勉強したぐらいで、日頃からがんばって真面目に努力を積み重ねてるやつに、都合よく勝てないかもなとは思ってたけど」
「……………………」
琴水は口を閉ざした。彼女の中でまだ言いたいことがまとまっていないのだろう。
「ああ、それと……お前じゃなくて母さんを見ていた、ってのはちょっと違う」
消えてしまった左手の花丸マークを静かに握りしめる。
「確かに今回の勝負を一番見せたかったのは母さんだけど、お前には伝えたいことがあった」
「伝えたいこと……?」
「逃げていい」
「…………っ!」
「琴水。お前だって、逃げていいんだよ」
これが、俺が兄として妹に伝えたいこと。兄として伝えなければいけないこと。
「なにを……そんな……逃げることが、いいわけ……」
「俺はさ。確かに逃げてたよ。家族から逃げ続けてた。……でも、こうやってまた家族と向き合えたのは、逃げたからだ」
あのいつもの店で。いつもの席で。クラスのあの子と一緒に過ごす時間。
確かにそれは逃避なのかもしれない。だけどその逃避があったから、今がある。
「ずっと逃げ続けても解決しないことだってあるかもしれない。でも、ずっと走り続けてもしんどいだろ。だからたまには立ち止まって、息を整える時間も必要なんじゃないか……っていうのが、逃げ続けてきた俺なりの結論」
ずっと考えていた。俺が兄としてできることを。
「今まで逃げてごめんな。それと今まで逃げずに、よくがんばったな。だから、もう逃げていい。ちょっとぐらい休んだっていいんだよ。これからはそういう選択肢を頭の片隅に置いといてくれ。俺も……少しはがんばるからさ」
それはただ、これまで逃げずに戦ってきた妹に「よくがんばりました」と言ってやることぐらいだった。
「そんな……今更……今更、そんなこと言われたって……!」
そうだ。何もかもが今更だ。
「じゃあ、わたしが信じてたものは間違ってたんですか? わたしが選んでた道は間違ってたんですか!? わたしの今までは……全部、無駄だったんですか……?」
「無駄じゃねぇよ。お前が一人で頑張ってくれたから、俺たちはまだ家族でいられてるんだ。お前がいなかったら、たぶんずっと前に壊れてたと思う。取り返しがつかないぐらいに」
俺が視線を向けた先。そこには、琴水が守ったものがあった。
「琴水。今までごめん」
「ごめんね、琴水ちゃん……」
「お父さん……お母さん」
「お前が逃げることのできる環境を作ってやれなかった、僕の……僕たちの責任だ」
「あたしが弱いせいで……前に進めてなかったせいで、あなたに負担をかけてしまったわね」
「違います……わたしが選んだことです! 全部……!」
「『選んだ』んじゃない。『選ばせた』んだ」
父さんの言葉に、琴水は言葉を詰まらせる。
「琴水。お前には選択肢が一つしかなかった。……逃げていい。逃げてもいい。そういう選択肢を、僕はお前に用意してやることができなかった」
父さんは真っすぐに琴水の目を見ながら、感謝の言葉を紡いだ。
「それと……ありがとう。今まで家族を守ってくれて」
確かに選択肢はなかったのかもしれない。それでも、琴水自信が選んだ道だ。
なのに今更、逃げてもいいと言われて。自分の信じたものを否定されたような気がしたのかもしれない。
そんな娘の気持ちを理解していたのかもしれない。父さんの感謝の言葉は、これまで琴水が歩いてきた道に対する労いと、称賛。
「これからは、僕たちが頑張る番だ」
「――――っ……」
肩の荷が下りたのだろうか。強張って、張り詰めていた琴水の雰囲気が、徐々に弛緩していく。
「えっ……あ、れ………………?」
琴水の目から真珠のような美しい、透明の粒が溢れてきた。
ぽろぽろ。ぽろぽろと。
「あれ? なんで……わたし、泣いて…………」
「せっかくだから泣いとけよ。今まで泣けなかった分、思いっきりさ」
「…………っ……!」
きっと、もう限界だったのだろう。心も、身体も。
琴水は声を出して泣いた。まるで幼い子供のように。ただひたすらに、泣き叫んでいた。
「…………わたしも、ごめんなさい。それと、ありがとう、ございます……」
泣に濡れた笑みを見せながら、琴水は確かにその言葉を口にした。
「――――兄さん」
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