第505話 私を沖縄に連れて行って その21

 司が集団から千切れて行くのと入れ替わるように俺が前に出ようとしたら……


「まだ早い、次は俺だ!!」と高畑さん。「スプリント力だったら俺よりも鳴瀬君の方があるだろ」


 MJKのエースクライマーはそう言うと颯爽と先頭を牽き始めた。


 確かに登坂能力だったらここにいる誰もが高畑さんには叶わないが、こと、こういうレース展開になってしまっては、高畑さんの能力を発揮する場所は既に無くなってしまっていたのだ。


 ならば……という事で、高畑さんは最後の力を振り絞るようにMJKトレインを引っ張り続ける。


 前を走る中岡さんとの距離は既に100mを切っているはずだ。


 いつもはブラケットに軽く握り、軽快なダンシングでどんな坂道も颯爽とひとっ飛びで越えていく高畑さんが、今は下ハンを握りしめ滅多に見せないクラウチングスタイルでひたすらペダルを漕ぎ続けている。


「アレアレアレアレ!!」


「王者はそこだ!!」


「キングは目の前だ!!」


 側道にいる観客達がツール・ド・フランスよろしく一斉に煽り立てる。


 この場所にいる誰もが今のレース状況を正確に把握してるに違いない。


 絶対王者を若き挑戦者達が追い詰めているというこの状況を……


 アドレナリンがどくどくとあふれ、血液が逆流するかのような錯覚を覚える。


 先程から何度かチラチラと後ろを振り返る中岡さんは既に俺達との距離を正確に分かっているに違いない。


 これまで三度、このような修羅場を潜り抜け栄光を勝ち得てきたチャンピオンは、俺達との距離とゴールまでの道のりを誰よりも正確に把握してるのだろう。


 だからどうした!!


 それがなんだっていうのだ!!


 ここまで来たら、勝利に対する執念の強い者が勝ち残るのだ。


 それが証拠に、高畑さんの捨て身のスプリントが実を結んだのか、王者の背中はもうすぐそこだ。


 手を伸ばせば届くような距離にまで近づいたのだ。


「どぅおらぁぁぁー!!」


 温厚な高畑さんから、普段なら決して聞くことのないような獣の咆哮をあげ、王者を追い詰める。


 ゴールまで『残り1km』の標識が通り過ぎる。


 緩やかなカーブの最中、その執念が遂に王者の背中に届いたかと思った次の瞬間……中岡さんの右手中指が微かに動くのが見て取れた。


 それと同時に、俺の耳に、カチリッと聞こえてくるはずの無いシフトアップの機械音が……


 直後、王者はまるで水すましのようにススーっと俺達の目の前から遠ざかっていく。


 そこにいる誰もが、砂漠の中で蜃気楼でも見たかのようだった。


 ぞわっと背中に寒いものが走る。


 なんと王者はこの局面においても、まだ余力を残していたのだ。化け物かよ!?


 それと入れ替わるかのように、ガクッとスピードを落とす高畑さん。


「スマン、石巻」


 そうとだけ言い残すと、高畑さんは俺達から千切れて行く。


 もう、俺達には後ろを振り返る余裕すらない。


 そしてそのまま、俺は下ハンを握りしめると、愛機『Tamac SL5』を派手に振りながらもがき始めた。


 残り900m。


 鳴瀬神児一世一代のスプリントだ。


「うぉぉぉぉぉぉおおー!!」


 もう、王者の背中しか見えない。


 呼吸する余裕すら無いほどの決死のスパートだ。


 絶対にゴールまでなんか持ちやしない。


 でも、あんたの背中にだけは死んだって追いついてやるんだよ!! 


 今まで味わったことの無いような愛機との一体感が俺の全細胞に伝わってくる。


 一漕ぎ一漕ぎするごとに王者の背中が近づいてくる。


 静かだ。


 何も聞こえない。


 いや、俺とあんたの息遣いだけが聞こえてくる。


 もう、それ以外は何も聞こえない。


 息が苦しい。


 でも、それ以上に追いつけないのが悔しい。


 まだだ。


 まだ俺は踏める。


 まだ俺は息が続く。 


 王者の背中がすぐ目の前にある。


 もうすぐだ。


 もうすぐ追いつける。


 それまでどうか……俺の肺よ、そして心臓よ、どうにかそれまで持ってくれ……


 そうして、遂に王者の影に俺の『Tarmac』の前輪が重なったその時……


「よくやった、神児」


「ナイスファイト」


「ありがとう神児君」


 俺の背中越しに三人の声が聞こえてきた。


 直後、三本の矢が王者に襲い掛かる。


 俺はもう、ペダルを踏むことすらできず、体をハンドルに預けたまま、この物語の最終決着を後ろから眺めることしかできなかった。


 ゴールに向かって4本の矢が横並びとなって突っ込んで行く。 


 その様子を見ながら、ふと、以前、石巻さんが俺に言った言葉が頭の中で反芻してた。


「MJKトレインは65kmで千切れ始めるんだ」と……


 それは、『ツール・ド・おきなわ2016 市民ロードレース210km』ゴール手前、100mのことであった……


https://kakuyomu.jp/users/t-aizawa1971/news/16818093075182558003

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る