第498話 私を沖縄に連れて行って その14
天仁屋(アニヤ)の二段坂の一段目、俺達はギアをファイナルロー(一番軽いギア)にして挑む。
実はこの『天仁屋坂の一段目』こそが、ツール・ド・おきなわにおいてもっともキツイ坂だと思っている。
勾配は場所によっては13%~14%、180キロを走った体に、ペダルを一漕ぎするごとにダメージが蓄積していく。完全に命(タマ)を取りに来ていると言っても過言ではない。
俺も司も、坂の手前にある慶佐次のGZ(ゴミ投棄ゾーン)でサイクルボトルを二本とも投げ捨てると、1グラムでも軽い状態にしてからアタックを仕掛ける。
何故なら、そうでもしないと、もう付いていけないと思ったからだ。
本当にギリギリのところで踏ん張っている。
そして心の底からおじさんに感謝をしている。
もし軽量カーボンホイールを履いていなかったら……間違いなくここで終わっていた。
ロードバイクの世界では「軽さは正義」という言葉がある。
俺達は今、その言葉の意味を真摯に受け止めながらペダルを漕ぐ。
気が付くとトップ集団の中から、一人、また一人と、選手が千切れて行った。
だが俺達も、もう後ろを振り返る余裕なんか残されていなかった。
1キロにも満たない天仁屋坂の一段目が終わる頃、集団の人数は7人にまで数を減らしていた。
そして、またすぐに二段目が始まる。
ほんの束の間訪れた休息に、選手達は皆、一瞬、気を緩めた。
この坂で脱落しなかったことを神に感謝したかったのだ。
だがキング・オブ・ツール・ド・おきなわは、そんな僅かな猶予すら許してくれなかった。
天仁屋坂の一段目と二段目の間にある一瞬の下りを利用して、誇り高き王者はギアをアウターにシフトすると鬼の形相でスプリントを開始したのだ。
パキッと心の奥の方で何かが折れる音がした。
俺は追いかけることも出来ず、王者渾身のアタックをただ後ろから眺めることしかできなかった。
なぜなら頭のどこかで、「そのペースで二段目も行けるはずがない」と思ってしまったからだ。
きっと坂の途中で足が止まる。
自分に言い訳するような弱気な考えが、思わず足を止めてしまったのだ。
と、その時、
「ここで、行かせちゃダメだー!!」
高畑さんが声を上げると、MJKのエースクライマーはギアをアウターに掛けダンシングを開始した。
最後の力を振り絞るかのような捨て身のアタックで王者を追走する。
高畑さんの声で我に返った俺達も、引きずられるようにしてアタックを開始した。
さっきから俺と司のサイコン(サイクルコンピューター)は警報音を鳴らしっぱなしだ。
いったい今、心拍がどうなってるのかなんて見たくもないし考えたくもない。
ここにいる全員が棺桶に片足突っ込んだ状態でアタックしているのだ。
高畑さん一人に重荷を背負わせるわけにはいかない。
MJKのエースクライマーの覚悟をここで無駄にさせてはいけないのだ。
俺達は死に物狂いで高畑さんを追いかける。
そしてそれに引きずられるように集団は一斉にペースを上げたのだ。
すると天仁屋坂の二段目の途中、遂にMJKのエースクライマーは、王者を上回るハイペースで捕まえることに成功すると、絶妙なコース取りで中岡さんのアタックに蓋をする。
渾身のアタックを封じ込まれた誇り高き王者は俺達を睨み返す。
命拾いした。
俺達は今、心の底からそう思ったのだ。
『ツール・ド・おきなわ2016』はゴールの『21世紀の森体育館』まで残り30kmを切った。
…………再び、九日前、
沖縄本島の北側にある奥の集落を過ぎる頃、俺達は再びスコールに見舞われていた。
「うわっ、靴の中までびしゃびしゃだー」と司。
「これは、今日帰った後、メンテが大変だぞー」とおじさん。
ここまで雨に降られてしまっては、自転車を全部分解して完全清掃した方が間違いなさそうだ。
潮風の影響もあるだろうし、せっかくのニューバイクのベアリングが錆びたりしたら目も当てられない。
だが、こういう状況で無ければ分からないようなことが今日の試走でいくつか分かった。
まず、雨の下りでは、俺達程度のテクニックならば、決して無理はしてはいけないという事だ。
予想以上のカーボンホイールのブレーキの利かなさ具合に、俺も司も完璧に腰が引けてしまった。
もともとは、リハビリの一環でここまでエスカレートしてしまったロードバイク。万が一落車でもして大怪我しようものなら、目も当てられないし、リハビリで沖縄行きを了承してくれた西島監督にも顔向けできない。
さらに、路面の悪さも気になった。
そうでなくても高圧のエアを入れているロードバイクのタイヤ。しかも今俺達が履いているタイヤは、軽量カーボンホイールの性能をフルで発揮できるよう、軽量のチューブラータイヤって奴を履いている。もちろん水はけの為の溝なんて気の利いたものは付いてない。
ちなみにチューブラータイヤとはチューブとタイヤ部分が一体型になっているタイヤで、タイヤとホイールを両面テープで張り付けているのだ。
もともと、自転車のタイヤってのはこういうタイプだったらしいし、今でもレース用のホイールはこのチューブラータイプのが多いと聞く。そうですよね、おじさん。
ともかく雨が降ったら無理はしない!!
このことが分かっただけでも今日の雨天練習は収穫があった。
すると……「あのバカどこいった?」と司。
「……さぁ」と俺。
実は拓郎、『与那林道』を抜けてしばらくしてから、一人で先に行ってしまったのだ。
坂の下りではディスクブレーキのアドバンテージを生かし、明らかに俺達よりも速いペースの拓郎。
俺達に合わせるために、速度を落とし、明らかにフラストレーションを溜めてそうだったので、石巻さんが気を利かせて先に行かせたのだ。
ついでに、「奥の集落の先にある、二つ目のスプリントポイントも確認してこい」と。
「了解なのねー」と拓郎はそう言い残し、大雨の中、鯱のように泳ぎ……もとい、走っていった。
「……で、あいつは一体何処まで行ったんだ?」と石巻さん。
奥の集落にある自販機の前で一休みしながら拓郎に電話を掛けるが、あいにくなことに「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません」と……
すると、「ここから先は電波が入らないから携帯が繋がらないんだよ」とおじさん。
なるほど、流石ツール・ド・おきなわの経験者。こういう時いると助かるよね。
ホットの缶コーヒを飲み終えると俺達は再び自転車を走らせた。
すると数分後、何のことは無い、2つ目のスプリントポイントを越したところで拓郎俺達を待っていたのだ。
「もう、遅いのねー。体が冷えちゃったのよー」と拓郎。
ええ、お前、海獣なみに皮下脂肪蓄えてるんだから、寒いのとか平気じゃないの?
そこで改めてみんなで合流。
そして今日はここで折り返して、東側の海岸線をそのまま南下して帰ることに決めたのだ。
宿に帰ってからはシャワーを浴びる前に大急ぎでバイクの洗車をする。
東側の海岸線では時折、潮風に交じって波飛沫が何度も降りかかって来た。
試しに口の周りをペロッと舐めると、うーん塩っ辛い。沖縄で生活したら明らかに自転車の寿命は短くなりそうだなと思いながら、バイクのついでに俺達も一緒に潮水を洗い流す。
そこからはおじさん達と一緒に自転車を分解してのメンテナンス。
ついでに今日の反省会と相成った。
「ってか、拓郎の『ヴェンジ』、明らかに下りの性能が俺達と違うんだけど一体何なの?」と俺。
「うーん……なんなんだろうなー」と司も一緒になって腕を組む。
俺も司も帰り道では拓郎のバイクを借りて、ウェットの路面で何度かダウンヒルをやってみたのだ。
すると、ディスクブレーキの制動力とスルーアクスルの剛性、更には俺達のバイクには無いグリップの良さ。
初めて乗る俺にもすぐに分かるタイヤの性能差というものを感じて、俺も司も首を傾げる。
なぜなら、ロードバイクのタイヤにはF1のようなレインタイヤなど存在しないからだ。
すると……「それ、多分、タイヤのせいかもよ」とおじさん。
「タイヤ?でもレインタイヤとかじゃないですよね。拓郎のは」と俺。
「うん、拓郎君のバイクのタイヤ。レインタイヤじゃないけど、『チューブレスレディー』っていうタイヤなんだよね」とおじさん。
「えっ、そうなの?」と俺。
「そうだったんだ」と司。
「知らなかったのねー」と拓郎。
「「おいっ!!」」と俺と司。
「だって、昨日自転車が来たばっかしで、おじさんに組み立ててもらって空気入れたから、まったく気付かなかったのねー」と拓郎。
……くっ、確かに。
ちなみに俺達が普段乗っている自転車のタイヤは『クリンチャー』って言って、ゴムチューブを包み込むようにしてリムの淵にタイヤを引っ掛けるタイプのやつね。タイヤの内側にワイヤーが入っていることからWO(ワイヤードオン)タイヤとも言われたりもする。まあ、ママチャリのタイヤっていやあ分かるよな。
ロードバイクの世界でも8割以上がこのタイプだ。
そして俺達が今使っている『チューブラー』、昔からあるレース用タイヤ。確か競輪のタイヤは今でも全部これのはずだ。これが大体2割弱。
そして残りのほんの数%が、最近自転車の世界でも開発された『チューブレス』もしくは『チューブレスレディー』というタイヤなんだ。
ちなみに自動車やバイクの世界ではほぼ全てのタイヤがこのチューブレスタイヤになっているよ。
ところで『チューブレスタイヤ』ってのは名前の通りチューブの無いタイヤなんだけれど、メリットとしてはチューブな無い分軽量化できるのとチューブのあるチューブラーやクリンチャーなんかに比べて低い空気圧で走ることが出来るんだよね。
つまり、パンパンに空気を入れなくて済むから乗り心地がいい。そしてチューブがないので転がり抵抗がいい。そんな軽量かつ乗り心地のいい未来のタイヤ。それが『チューブラータイヤ』なのだー。(ワー!!ドンドンパチパチ)
これって圧倒的なメリットだと思うんだけれど、いまいち普及してないんだよ。なんでだと思う?
だって、タイヤとリムの隙間から空気が漏れるんですもの。
「アチャー」という声があちらこちらから聞こえてきます。
いや、全部が全部空気が漏れるってわけじゃないよ。でも、『チューブレスタイヤ』が売り出し始められた2010年前後、本当にエア漏れが酷かったらしいんですよ。
そして、その対策として、「エアが漏れたらチューブを入れればいいじゃない」という『チューブレス』という名からは本末転倒な方法を選んでしまったのもいけなかった。
確か当初はエア漏れ対策としてみんなチューブ持参で走っていましたよね。
そんなわけで、とてもじゃないが、おっかなくってレースなんかじゃ使えないというネガティブなイメージがこの『チューブレスタイヤ』には付きまとっているのです。
そこで開発されたのが『チューブレスレディー』というタイヤ。
何が違うんだって?
それが構造は『チューブレスタイヤ』とほとんど変わらないけれど大きな違いが一つあります。
それは、タイヤを嵌めた後に『シーラント』という液体のゴムみたいなパンク防止剤を入れているのです。
えっそれだけ?という声が聞こえてきますが、はい、それだけです!
つまり、チューブレスタイヤの中に『シーラント』っていうのが入れなくても空気が漏れないタイヤが『チューブレスタイヤ』でシーラントを入れるのが前提なのが『チューブレスレディー』ってわけだ。
もっとも最近では『チューブレスタイヤ』のユーザーの皆さん、パンク防止のために『チューブレス』でもシーラントを入れていると聞く。
どうだい、分かったかい?
為になるね~、為になったね~。
じゃあ、お前は何でその『チューブレスタイヤ』にしないのか?だって。
だって、めんどくさそうじゃん。
いちいちシーラント入れたり、それ専用のホイールにしたり、そもそも、シーズンオフに自転車乗らなかったら中のシーラント固まらないの?とか、いろいろ分からないことがあるし、いまいち信用できないんですよね。
それにタイヤがお高いですし……
そんな感じで、思った以上に普及しなかったタイヤ。それが『チューブレス』と『チューブレスレディー』というタイヤなのだ!!
そんな感じで俺には関係ないやーなんて思っていたら、あらやだ、ここ最近で随分と進化していたのですね。
「ところで、おじさん『チューブレス』が雨に強いってどうことですか?」
「うん、それはね、『チューブレス』は低い空気圧で走れるからなんだよ」
「はい、知ってます。……でっ?」
「えーっと、だからね、低い空気圧で走れるってことは、タイヤの接地面がへにょんってなるからグリップ力が強くなるじゃん」
「……あっ、なるほどー、単純だー」目から鱗で神児びっくし。
「そうだね、雨の日のレースだったらあらかじめタイヤの空気圧を下げることはあるけれど、ツール・ド・おきなわみたいにいつ雨が降るか分からないようなレースだったら、空気圧を下げることはないですからね」と新浜さん。
あら、おかえんなさい。外での洗車終わりましたか?
「たしかに、空気圧が低かったら接地面が大きくなるんでグリップ力が上がるけれど、転がり抵抗はどうなんだよ」と司。
「そこら辺は、『チューブレス』ってチューブが無いから、それでも他の『チューブラー』や『クリンチャー』よりも転がり抵抗がいいんだよ」とおじさん。
「「はへー、そうなんだー」」と俺と司。
「それに、チューブレスタイヤって太いでしょ、君たちのタイヤに比べて」
「はい、とっても太いです……(ポッ)」
そうなのである。俺も司もタイヤの太さはロードバイクの標準と言われている23Cという太さ。まあ、23ミリなんだけれどね。そして拓郎は28C。その間に25Cってのがあるので、サイズ的に言うと二サイズ上なのである。
「ってか、28Cって重そうなんだけれど、そこら辺はどうなんだ、おやじ」と司。
「えーっとちょっと待ってね」そう言いながらおじさんはスマホをポチポチポチ。「えーっとねぇ、君たちのタイヤが270グラムで、拓郎君の『チューブレスレディー』はシーラント込みで350グラムかな」
「まぁ、思ったよりも重くは無いな」と司。
「確かに思ったよりかはだな」と俺。
「まぁ、そのくらいの違いなんで、致命的な重量さって訳ではないよね」とおじさん。
「うん、つまりアレだ。チューブラーよりは軽くはないけど、転がり抵抗や乗り心地性を考えたらとんとんって感じか」と司。
「ただ、乗鞍みたいな登りオンリーのヒルクライムレースだとメリットはそれほどですけどね」と高畑さん。
「ディスクって相対的に車体の重量は重くなりますし」と新浜さん。
なるほど、ディスクブレーキにチューブラータイヤ。レース展開によって一長一短だという事は分かった。
というわけで、まとめてみると、拓郎の『ヴェンジ』というロードバイクは平地と下りが馬鹿速くて、雨の下りが何よりも得意なバイクだというなんですよ。
まっ、雨が降んなきゃ関係ーねーけどなー。(ゲラゲラ)
と、その時、「ピンポーン♪」とドアのチャイムがなった。
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