第81話 和田峠ヒルクライム その1

https://kakuyomu.jp/users/t-aizawa1971/news/16817330663946740559


 今日は春休み最後の週末だ。来週から学校が始まる。


 俺たちは相も変わらず司の父ちゃんの秘密基地で自転車の整備をする。


「なー、親父ー、今日はどこ行く?」とチェーンを拭き拭き司。


「この前行った奥多摩はどうだ?」とブレーキパッドの面直しをしながらおじさん。


「うーん、奥多摩ねー。今日は午後からビクトリーズの練習があるからあんまり長いのはなー、あ、親父、チェーンオイルとって」と司。


「そっかー、じゃあ、近場で面白そうなところね」とピンセットでブレーキパッドにめり込んでいる金属片を取りながらおじさん。


「うん、今まで行ったところじゃなくって、どこか新しいコース無いの?」


「あることは、あるけれど……」とちょっと語尾を濁すおじさん。


「なんか、問題でもあるの?」と司。


「ちょっと、きついかなー」とおじさん。


「何がきついんですか、おじさん?」とタイヤの空気圧を確認しながら俺。


「坂の勾配が……」


「うへぇー、と司」


「奥多摩よりもきついんですか?」往復100㌔近く合って、1000mも登るコースよりもきついと聞いて俄然興味がわいてきた俺。


「奥多摩都民の森コースは、どちらかといったら中級クラスって感じかなー」


「あれで、中級なの」とうんざりした顔の司。


「そうだな、距離は長いけれど、奥多摩のコースって平均勾配は6~7%だから、クライマ-にとってはそれほど難易度は高くないんだよ」


「へー、そういうものなんですか」俺はてっきり、距離が長くて、たくさん登った方が難易度がきついものだと思ってたが……


「どちらかというと、距離が短くても平均勾配がきつい方が上級と呼ばれるよね。自転車乗りの世界では」


「へー、そういうもんなんですね」とクルクルとクランクを手で回しながら俺は答える。


「今日、これから行こうと思っている峠は和田峠って言って、八王子市内にあるんだよ」


「なんだ、市内か、じゃあ、すぐ行けるの」


「うん、ここから30分もあったら行けるかな」とおじさん。


「そんな近所にヤバイ峠なんかあったんだ」


「ああ、車で山梨方面に行くには、中央道か大垂水峠って相場は決まってるけれど、その昔は和田峠が主として使われてたんだってさ」


「へー、ちなみに、どのくらい」


「平均勾配は10%ちょっと」


「うっ!」


「獲得高度は364m」


「まっ、まあ、そんなもんか」


「で、距離は3.5㌔」


「ええー、たったの3.5㌔で364mも登るのー!!」


「最大斜度は18%」


「うっひゃあー」と顔を引きつらせる司。


 でも、正直、俺の方は興味津々だ。


「まあ、標高からいって高尾山に登るような感じかな?」


「高尾山かぁー」そう言って腕を組んで考え始める司。


「おじさん、俺、行きたい」


「おっ、神児君やるか?」


「はい、奥多摩もきつかったけれど、それ以上にきつい峠ってどんなものか知りたいです。それに市内にあるってのにも興味はありますし」


「むっふっふっふ、ついにクライマーとしての血が騒ぎ出したか」


「いやー、そんなつもりはないんですけれどねー」でも、もしかしたらおじさんの言う通りかもしれない。


「で、どうする、司。峠のふもとで待ってることもできるぞ」とおじさん。


「あー、もう、行きますよ、行けばいいんでしょ、行けば。」


「まあ、そんなにムキになるなよ。帰ってきたら、新しくできたコメダ珈琲で朝飯食べさせてやるから」


「おおー、ラッキー!!」と司。


 この前から近所にできたコメダ珈琲のシロノワールが食べたい、食べたいってうるさかったんだ。


 そういや、前の世界でもこいつコメダ珈琲のファンだったもんなー。


 というわけで、今日は往復50㌔ほどのサイクリング。奥多摩へ行くような重装備はせずに、いつもの装備で北里家を出発した。


https://kakuyomu.jp/users/t-aizawa1971/news/16817330663954095359


 俺たちは自転車で甲州街道に出る。名物のイチョウ並木はすっかり緑の衣を身にまとっている。時折どこからともなく桜の花びらが舞ってくる。


 近所の公園の桜は先週既に散ってしまったが、これから標高が上がるにつれてまだ満開の桜が見れると思うと、なんか得した気分になる。


 走り始めは、アップも兼て、心拍数140以下でゆっくりとペダルを漕ぐ。早朝の甲州街道はまだ車も人もまばらだ。


 すると、西八王子駅を越えて、高尾山駅前の信号を右に曲がり、高尾街道へと入っていく。ここは迄はいつもの1964年のオリンピックコースと一緒だ。


 武蔵野陵を過ぎて、いつもは直進する川原宿の信号を左折すると陣馬街道に入る。


 そこからは道なりに、西に進む。途中、恩方中学校が見えてきた。確か将棋の羽生名人ってここら辺の出身なんだよねー。


 そんな事を思いながら俺たちはゆっくりと進む。と、そこで、司。


「お、親父、なんか、さっきから登ってないか?この道!!」


「まあ、そうだな。確かにちょっとした登り坂だな。」


「ちょっとした、登り坂って」そういいながら、既に司はフロントギアを一番下に落としている。大丈夫かおまえ。


 どんどんと遅れていく司。「とりあえず先、行っててくれー」


 そう言い残し、視界から消えていった司。


 お前の事は忘れないからな。司。一緒にシロノワール食べたかったな。

 

 そんな事を思いながら俺とおじさんはさっさと先に行く。

 

 というか、気が付けば既に山の中。たしかに民家はちらほらあるけど、


「おじさん、まだ、和田峠始まってないんですか?」


「うん、まだなんだよねー」


 確かに峠って感じの坂道ではないけど、家を出てから1時間もしないうちにこんな場所に出るだなんて、まさにミステリアス八王子。


 しばらく道沿いを走り続けると、陣馬高原下バス停というバスの折り返し地点に出た。


「神児君、ここが、和田峠のスタート地点だよ」とおじさん。心拍計についている標高を見ると360mと指示している。


 ここから約3.6㌔で360m登るのか。


 そう考えると、ワクワクが止まらない。果たして足を着かずに頂上まで行けるのか、山の陰で見えないはるか先にある頂上を見据える。


 ってか、司のやつ、迷ってねーか?大丈夫か、オイ!!


 俺とおじさんが缶コーヒーを飲み終えて一休みしたころ、司が顔を真っ赤にしてやってきた。


「遅いぞー」と俺。


「速すぎだぞ!」と司。


「まぁまぁまぁ」とおじさん。


 とりあえず、司のために買っておいた缶コーヒーを渡す。


 一口飲んで司、「ちょっとぬるくなってんじゃねーか」とぶつぶつ。


 そりゃ、お前のせいだろとは言えずに、俺とおじさんは顔を見合わせた。


 司もコーヒーを飲み終わり、一息つくと、いよいよ和田峠の頂上を目指す俺達。


 その間にも、バリバリのロードの格好をした自転車乗りが次々に和田峠の頂上に向かって行く。


 へー、ここって、そんなに有名なんだー。


「ちなみに、ここから頂上まで何分くらいで行けるんですか?」


「実は、和田峠ヒルクライムって言うサイトがあって、自分の記録を報告するサイトがあるんだ」とそう言いながらiPhoneを見せるおじさん。


「へー、そんなのがあるんですか?」と見ながら、「平均が23分ですか」


「うん、まあ、20分を切ったら優秀って言われてるぞ。神児君はどのくらいかな?」


「うーん、まあ、足を着かずに30分以内」と俺。


「何言ってんだよ、若いんだから20分を目指しなさい」とおじさん。


「ちなみにおじさんはどのくらいでのぼれるんですか?」


「おじさんのベストは去年出した21分かな。勝負しようか、神児君」


「いいですよ。手加減無しで行きますからね」と俺。


「よっし、じゃあ、勝負だ。おじさんに勝ったら、コメダ珈琲で好きなもの頼んでいいぞ」とおじさん。


 いつも好きなものを注文させてもらっているのに、何かすいませんね。


「じゃあ、俺が負けたら」


「司の面倒を見ておいてくれ」と即座におじさん。うーん、それはそれでめんどくさいなー。


「なんか言ったか!?!?」と司。


 怖い怖い。地獄耳だ。


 そんなこんながありまして、朝の7時半、陣馬高原下バス停を俺たちはスタートした。


 出だしは快調で意外や意外、司が先頭を引っ張っていく。奥多摩の道に比べてかなり狭いが、このくらいの勾配は経験したことがある。


「おーい、司、最初は勾配が緩いけれど、半分過ぎたら途端にきつくなるから気を付けなさい」とおじさん。


 まあ、でも、奥多摩都民の森とかだと、「いったいゴールはあと何キロ先だ」みたいになるけれど、和田峠だったら、残り3㌔とスピードメーターを見れば、すぐ分かるので、その分、精神的にも楽かなと…………思っていたのだが、それはすぐに勘違いだと分かった。


 一キロ過ぎたあたりから、とにかく、休む暇がない。斜度10%を超えると、とにかく気を緩めるとすぐに失速して自転車がふらつく。


 司が、「あとはよろしくー」と言い残し、早々と後方に過ぎ去っていく。


 なんとか立て直そうとダンシングをしようとするが、おじさんから「足がすぐに売り切れるからやめときなさい」と言われた。


「この先、つづら折りで、ダンシングでないと凌げないところがあるから、そこまでガマンガマン、神児君」と。


 おじさんに言われ、ハンドルをギューッと握りしめながらひたすら我慢しながらペダルを漕ぐ。しかしもう既にファイナルギア(一番軽いギア)を使ってしまっている。


 司じゃないけどトリプル欲しいー。痛切にそう願った。


 ひたすら我慢、歯を食いしばりながらじっくりじっくり登っていく。最近雨が降ってないのに路面がぬれている。


「あちこちから地下水が湧き出てるから、滑らないように気を付けて」おじさんが言う。


 排水溝のグレーチングなんかでタイヤを取られたら一発ですっこけそうだ。登りはともかく、下りは気を付けなくては。


 そうこうしているうちに、半分通過。脳みそがビキビキしてくる。マジか、こんな負荷のかかった運動、今までしたことも無い。


 足だけでなく、体を引き上げる腕が痺れ始めている。ヒルクライムって上半身にもダメージがあるって聞いてたけれど、今初めて実感した。


 スピードメーターではあと1.5㌔というところで、「頂上まであと2㌔」という看板に出くわした。


 うっそだぁぁぁー!!心の中でそう叫ぶがもう、声には出ない。


「大丈夫、神児君、あと、1.5㌔で頂上だから、この看板は間違いだから」おじさんが後ろから声を掛けてくれる。


 どうやら、あの看板を見て動揺したのを気付いたみたいだ。


 俺はどうにか、気持ちを切り替え、ひたすら上を目指しながらペダルを回し続ける。


 ブスブスと脳みそがショートしそうな感じだ。今鼻血が出たとしても全然おかしくない。


 体中の体力を一気にこの峠に吸われているかのようだ。


 すると、「そこのカーブを過ぎたら、今日一番の坂だぞー」だんだんと遅れ始めたおじさんが背後から声を掛ける。


 見ると、つづら折りの先に、自分の予想の1,5倍ほどの高さにガードレールが見えた。


 今からあそこに行くのか?一瞬心が折れかけた瞬間、「神児君ー、ダンシングだー」とおじさん。


 俺はその声を聞いた瞬間、ブラケットを握りしめ一気に体を起こす。


 体中の血液が逆流してるかのような錯覚を覚える。


 心拍計を見ると、既に190を超えている。


 俺は歯を食いしばり、一気にその坂を駆け上がる。脚だけでなく腕を使って四つ足で坂を駆け上がる感覚だ。


 止まったら倒れる。そして、倒れたらもう起き上がれない。


 俺はその恐怖に突き動かされながら、ひたすらダンシングで坂を登り続ける。


 スピードメーターを見ると残り500m、すると、一瞬勾配が緩やかになる。ハンドルについている斜度計を見るとそれでも10%はある。


 が、先ほどまでの18%の絶壁に比べたらはるかに楽だ。


 俺は一旦シッティング(すわり漕ぎ)に切り替えると、少しでも体力回復に努める。


 しかし、距離にして奥多摩の十分の一にも満たないのになぜにこれほどまで体力が削れらるのか!?


 東京最難関の峠の意味を今まざまざと思い知る。


 残り300m。視界が開けてきた。


 残り200m、最後のカーブを曲がる。視界が開け空が見える。


 しかし、ここに来て、さらに勾配が上がる。


 俺は、もう知るかといった気持ちで最後のダンシングをする。


 1回、2回、3回、4回、5回。あと何回漕げば頂上なのか?6回、7回、8回、9回。


 頂上の山小屋が見えてきた。それに合わせて傾斜も緩やかになる。


 俺はここでやけくそ気味にシフトアップしダンシングを止めない。


 スピードがグングンと上がって来る。


 目の前が一瞬真っ白になった。


 そして俺は頂上にたどり着いた。

 



 頂上にたどり着いた俺は必死にペダルを外す。


 もう立っている事すらできやしない。


 何とかペダルを外し自転車から降りると、そのまま自転車ごと、草むらの上に倒れ込んだ。


 

 空が青い。


 太陽が二重に見える。


 心拍計をふと見ると、200の数字が。


 どうやら俺は今、棺桶に片足を突っ込んでいるみたいだ。


 心拍200オーバーは生死に関わると、確か以前おじさんに聞いたっけ。

 

 なんかもう、どうでもいい。


 それよりも。空気、空気をくれ。

 

 俺は息を吸うために口をパクパク開けていると、


「おーい、僕、大丈夫か?」と見ず知らずの自転車乗りのおじさん。


 どうやら頂上に先客がいたらしい。


「は、はい、なんとか」と俺。


「はい、お疲れ」そういってミネラルウォーターのペットボトルをもらう。


「あ、ありがとうございます」礼もそこそこに俺はそのペットボトルの水をゴクゴクと飲む。


「あんまり頑張り過ぎちゃうと、死んじゃうから気を付けろよー」おじさんはそう言い残すと、峠の向こう側に自転車で行ってしまった。 

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