第2話 おぼろげな記憶と一つの要求
見たことも無い景色――
硬く平らな道を高速で走り回る四輪の金属の塊。
忙しなく行き交う大量の人。
色とりどりの奇抜な衣服。
まるで中に人が入っているかのように、音や音楽とともに滑らかに動く絵を映し出す不思議な道具。
そして、見上げると首が痛くなるほど高くそびえたつ超高層の建物。
目新しいものに囲まれた中で、唯一知っているのは青い空だけ。
乱立する建物で狭まった空は澄み渡っており、初めて訪れた場所に一人取り残されたような不安に襲われていた私は、変わらぬ青空に少し安堵する。
でも、空を横切る小さな点は鳥ではなく、翼を持つ巨大な金属の塊だということを私は何故か理解していた。
見たことも無い景色。しかし、どこかで見たことがある景色。
この場所を私は知っている。訪れたことがないのに、ここを知っている……気がする。
走馬灯のように駆け巡る、『誰か』が見て、聞いて、味わって、体験した別世界の生活――いや、『誰か』じゃない。これは『私』の記憶。
顔も名前も思い出せない。でも、これはかつて『私』が生きていた頃の記憶で間違いない。
何もかもすっかり忘れ去っていても、魂はこうして覚えていたみたい。
海の底からユラユラと上昇する泡のように、突如とある記憶が湧き上がってきた。
どこかのお店なのだろう。テーブルに運ばれてきた一皿の料理。黒い豆のドロッとしたスープのようなものの中に、白い塊がいくつも浮いている。
『私』は待ちきれないと言わんばかりにスプーンで白い塊と黒い液体を掬い、口に運ぶ。
口の中にじんわりと広がる優しい甘さとモチモチした感触。
――ぜんざいが美味しい!
ん? ぜんざい?
知っているようで知らない単語に首をかしげていると、ぜんざいを全部食べ終わる前に、また別の食べ物を食べたり、自ら作っている記憶が次々に蘇る。
黒い豆のペーストが中に入ったふっくらした白いパンのようなもの――饅頭。
甘じょっぱい黄金のタレがかかった団子――みたらし団子。
魚の形をした焼き菓子――たい焼き。
星のような小さくて可愛い砂糖菓子――金平糖。
他にも、どら焼き、練り切り、ずんだ餅、せんべい、おかき、栗饅頭、栗きんとん、羊羹、桜餅、おはぎ、いちご大福、ういろう、八つ橋、いきなり団子、かりんとう、芋けんぴ、きびだんご、柏餅……と『和菓子』の名前と作り方とその味を再び体験していく。
んん? 和菓子……?
また場面が変わる。今度は和菓子の記憶ではなく、仕事帰りの記憶みたい。
『あぁ……早く栗羊羹を食べたい……。家に帰れば最高級の栗羊羹が私を待っている……!』
我ながら危ない人のように独り言を漏らしながら夜の道をフラフラと歩く『私』。いつも仕事を頑張っている自分へのご褒美として奮発した最高級和菓子を食べるため、重い体を引きずるように帰り道を急ぐ。
黒い餡子の中に輝く黄金の栗。小豆の上品な味わいと栗の相性は抜群! 想像しただけで味が口の中に広がる……。
頭の中は最高級の栗羊羹のことでいっぱい。
それがいけなかったのだろうか。
突然、真っ白になる視界。甲高く響き渡るブレーキ音。ドンッと駆け抜ける鈍い衝撃。
一瞬感じた浮遊感の後、『私』の体は硬い地面に叩きつけられて――
「――私の最高級栗羊羹んんんっ!」
私は柔らかなベッドの上で飛び起きた。
「あ、あれ?」
混乱する頭で周囲を見回すと、独り身には広すぎるキングサイズのベッドは、どう見ても病院とは思えない。
あぁー。そうだった……。ここは王宮。王太子と王太子妃の夫婦の寝室。
私は昨日、結婚したんだった。
「今のは夢……? でも、とてもリアルだった……」
夢とは思えないほど鮮明で生々しく、和菓子の味も感じられた。
もしかして前世の記憶というやつですか?
最後のあれは死ぬ直前の記憶? 前世の私は事故に遭って死んだの……?
わからない。確かめる術は存在しないからどうしようもない。
前世の記憶らしき夢は、私の心を大きく掻き乱した。
「……せめて一口、栗羊羹を食べたかったのにっ!」
死に際の恐怖――ではなく、楽しみにしていた栗羊羹を食べられなかった悲壮な嘆きを思わず叫ぶ。
最高級ですよ、最高級! ただの栗羊羹じゃなくて、買うのをためらうほどお高いやつ!
朝からガッカリだわ……。憂鬱。今日は一日、やる気が出ないかも。
ため息をついてベッドに倒れ込んだその時、コンコンとドアがノックされた。
「アズキ様、お目覚めでしょうか?」
「あ、はい。起きています」
やって来たのは王太子妃付きの筆頭侍女。名前はカトレア。年齢は40代くらいで、スッと伸びた背筋と凛とした面持ちが印象的。柔らかな優しさと厳しさを兼ね備えた貴婦人である。
彼女はもともと王妃付きの侍女で、あの仏頂面殿下の乳母だったという。
「おはようございます、アズキ様……おや? いかがなさいましたか? 顔色が優れないように見受けられますが」
「少し夢見が悪くて」
「そうでございましたか。不安や緊張のせいかもしれませんね」
た、確かに。王太子に嫁いで王族の仲間入りしたらストレスを感じますよね。
ストレスの原因ランキングがあったら、確実にトップ5にランクインするに違いない。
「朝食はいかがなさいますか? 量を減らすよう厨房に言いますか?」
「いえ、大丈夫です。でも、ちょっと食べたい物があって……」
「伺いましょう」
カトレアの目がキラリと光る。
とんでもない我が儘を言い出すのではないかと見定めているような眼差しに、私は少し気後れしながら、
「あ、あの、デザートに和菓子が食べたいな、と……甘いものが欲しくて」
「和菓子ですか……。ご用意できると思います。すぐ厨房に伝えましょう」
「ありがとうございます」
よ、よかったぁ。怒られなかった……。
カトレアの優しいニッコリ笑顔に私はホッと安堵する。
もし『あれを食べたい。これを食べたい』と我が儘し放題で無茶な要求をしていたら、目が笑っていない美しい笑顔で静かなお説教が始まったことだろう。
彼女に逆らってはいけないと本能が言っている。
でも、やった! 勇気を出して言った甲斐があったわ! これで和菓子を食べることができる!
「では、朝の身支度を始めさせていただきます」
「あ、はい。お願いします」
カトレヤによるヘアセットやメイクを受けながら、私はまだ見ぬ和菓子に思いを馳せ、朝食をワクワクしながら待ち望んでいた。
――のだけれど、
「そ、そうだった……この国の和菓子はコレだった……」
期待していたのと違った……!
デザートで出された和菓子を見て、思わずガックリと肩を落としてしまう。
私の目の前に並んでいる小皿は三つ。
一皿目は、綺麗にカットされた黒い塊――黒糖。
二皿目は、皿を満たしたねっとりとした透明な液体――水飴。
三皿目は、黒い液体がかけられたサイコロ状の透明な塊――黒蜜寒天。
ここ、トワイライト王国の東部『和州』のお菓子、この世界の和菓子と言えば、黒糖、水飴、黒蜜寒天の三つなのだ。
すっかり忘れていた……。
王族に嫁いだのだから、高級な和菓子が出されると思うじゃない?
それなのに、黒糖と水飴と黒蜜寒天……。
なんでこの国にはちゃんとした和菓子が無いの!? 餡子すらないってどういうことですか!
西部『洋州』にはケーキやチョコレート、クッキーやマカロンなどなど、前世と同じたくさんの種類の洋菓子が存在しているというのに!
「ん? アズキ妃、食べないのか?」
対面に座っている夫、仏頂面殿下が気落ちした私に気づいて訝しんでいる。
……イケメンな王子様がポリポリと黒糖の塊をかじっているのは、ちょっとシュールね。
「いえ、食べます……んっ! これはこれで美味しい」
羊羹や練り切りを食べるつもりでいたからガッカリしたものの、別にこれらが嫌いなわけではない。
黒糖や黒蜜のほのかな甘さが、ストレスで弱った胃腸にじんわりと染み渡る。
でも、私は満たされない。
私の栗羊羹……せめて羊羹、いえ、餡子でいいから食べたい……。
でも、無いものは食べることができない。
「はぁ……いっそのこと自分で作ろうかしら」
んん? 自分で作る……?
この時、悩める乙女、アズキ・トワイライトに一つの天啓が舞い下りた。
「そうよ! 自分で作ればいいじゃない!」
幸い、前世の私らしき人は自作するほど和菓子が大好きだった。夢で見たレシピを再現すれば、和菓子を食べることができるじゃない!
――無いのなら 作ればよかろう 和のお菓子!
アズキ妃の決意の一句。
この国に和菓子を広めることが我が使命……なんちゃって。
「いきなりどうした、アズキ妃?」
「殿下! 昨夜、『一つだけ何でも要求を呑む』とおっしゃいましたよね?」
「ああ、言ったな。オレにできる範囲内であれば」
「では、お願いしたいことがあります」
私は彼の瞳を真っ直ぐに見つめて願いを告げる。
「――厨房でお菓子作りをさせてくださいませ!」
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