第16話 存在理由[Mercurius]
露ほどの罪悪感もなく学校を休んだ渚は、テラスハウスが建ち並ぶ閑静な住宅街を訪れていた。
マンションから徒歩圏内。若い夫婦や子供が多く暮らすこの賑やかな住宅街では、二人の死神が生活している。渚も良く知る二人だ。渚は樹達が学校へ行った頃合いを見て、鬱屈した気持ちを持て余しながらここまで来た。
一軒のテラスハウスの前に立ち、少しの躊躇いを経てインターフォンを鳴らす。短い沈黙の後、機械越しにおっとりした女の声が聞こえた。
『珍しいわね。貴方の方から訪ねて来るなんて』
渚は適当な言葉を探していたが、女はすぐに汲んでくれたらしく、穏やかな口調で促してきた。
『アポロに用事?』
「……ああ」
『少し待っていて』
通話が切れると、入れ替わるように人の会話と足音がドアの向こうから漏れ聞こえた。
ドアが開き、三十代前半ほどの外見をした赤髪の男が顔を出した。ラフな格好。どことなく気だるげな表情。直前までくつろいでいたのが分かる。
男はコードネームをアポロという。先ほどの女――ディアナ同様、同課の先輩にして燿の元世話役だ。
「お前の方から来るなんて珍しいな」
ディアナとほぼ同じことを言いながら、アポロは渚を中に招いた。
ディアナは渚にお茶を出して早々、用事があるからとすぐに二階へ引っ込んで行った。
「お前、学校はどうした?」
向かいに座ったアポロが、早速面白くない話を振ってくる。渚は表情を作らず、「いつも通り」を意識した淡泊な口調で答えた。
「必要ない」
「労働か通学も死神の義務だぞ」
瞬きの間に繰り出されたカウンターに二の句を失う。渚はいわゆるジト目でアポロを見るが、知らず顔をされて終わった。
「で? 今日はなんの用だ?」
本題の口火を切ったのはアポロだ。
「暗い顔してここまで来たってことは、ユピテルにもマルスにも言えねぇ内容なんだろ?」
「……」
消えない緊張感に煩わしさを覚えつつ、渚は無言のまま手中にあのペンダントを召喚した。
「覚えているか」
ペンダントをアポロに見せ、問う。
「お前はこれが死神の証で、仲間の証だと言った」
「ああ。忘れちゃいねぇよ」
何かを感じたのか、ひとたび神妙な面持ちになるアポロ。静かにこちらの言葉の先を待っている。
渚は消極的な感情を理性で制し、一呼吸置いてから口を開いた。
「それは今もか?」
「……どういう意味だ?」
「諸星がいる今もか?」
平静を装ったつもりだったが、語尾だけが頼りなく震えてしまった。ちっぽけなプライドを捨て、肝を据えて絞り出した渚の言葉を、アポロは眉一つ動かさずに聞いていた。
「最近カリカリしてると思ったら、そういうことかよ。お前らしいっちゃらしいけどな」
頬杖を突きつつ、アポロはなんでもないことのように答えを寄越した。
「そんなんで変わる訳ねぇだろ」
「……そうか」
「そうだ」
心に溜まった澱が緩やかに流れてゆく。自分がどれだけ気負っていたのか、改めて気付かされた。
渚が静々とペンダントを下げたところで、アポロが再び口を開いた。
「けど、あんまり周りに当たんなよ? また孤立するぞ」
「一言余計だ」
思わず舌打ちしてしまうのはお約束だ。
お茶をあおってから、渚はゆっくりと立ち上がった。そして、アポロを一瞥する。
「礼を言う」
「おう」
渚にしては素直な言葉だが、アポロは燿とは違い茶化したりはしない。伝えることになんら抵抗がない理由の一つがこれだ。
「メルクリウス」
身を翻そうとした矢先、思い出したように呼ばれて振り向いた。
「なんだ?」
「その変なキャラ、いつまで続ける気だ?」
問われる。意味が良く分からなかったので、思ったことをそのまま口にした。
「変か?」
「は?」
アポロの顔が微妙に青ざめる。意味が良く分からなかったので、今度こそ玄関へと歩いた。今日は何かとやることがある。長居は出来ない。
「――あれ? メルクリウス?」
玄関のドアを開けたら、いま一番会いたくない男が目の前に立っていたため、仕方なく足を踏んづけた。騒音に値する悲鳴が上がったが、顧みず脇をすり抜け、悠然と外に出た。
「なんで!? 俺なんかした!?」
「タイミング悪ぃんだよお前は。てか、勝手に入って来んなっつってんだろうが!」
そんな声量の大きい会話を背に買い物に向かう。
ディアナにも挨拶くらいしておくべきだったか。などと思い至ったところでもう遅い。とても引き返す気にはなれなかった。あの家には今、息をするように人の心を掌握してくるモンスターがいるのだ。
【第3章 End】
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