第15話 不穏の中で
燿から警告を受けた翌日のこと。
登校の支度をしていた樹の脇を、軍手を手にした渚が素通りした。花の手入れをしに行くのだろう。彼の足はバルコニーを向いている。
燿の話を聞いて以来、樹は考えていた。燿が口にした鈴と渚の『不安定』についてだ。詳細は聞けなかったものの、事実なら看過出来ない。
鈴の不安定については分かる。実際に本人の口からも聞いたのだから。
分からないのは渚だ。家族として情けない限りだが、思い当たる節はなく、普段との挙動の違いも分からない。なんとか確かめる方法はないかと、樹は昨日から思案していた。
「渚」
名を呼ばれた渚は足を止め、無感動な目を樹に向けた。樹は緊張で体を硬くしながらも意を決した。
「聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
声色といい、表情といい、相変わらず考えが読めない。下手に刺激するのは避けたいところだ。
「なんていうか、その……」
「早く言え。こちらも暇ではない」
言動に違和感もない。ますます不思議だ。
渚に勘付かれないよう、それとなく聞き出せるのが理想だ。自分の微々たる演技力で成功するかは不明だが、駄目元でやってみるしかない。
「最近、悩んでることとかない?」
「マルスだな?」
駄目だった。
不満も露に眉を顰め、こちらを睨める渚。その寒心に堪えない姿は、元々タフではない樹の心をへし折るに充分だった。
「悩みなどない。さっさと学校へ行け」
「う、うん。ごめん……」
すっかり主導権を奪われ、眼光に耐えられなくなった樹は、しょんぼりと引き下がる他なかった。
渚は鼻を鳴らし、早々に視線を外すと、やや低い足音を伴ってバルコニーへ出てしまった。窓が荒々しく閉められ、一時的に聞こえていた外部の音が再び遠のいた。
樹は去って行く渚の背を呆然と見詰めた。燿の忠告は決して的外れではなかったと、そう直感的に確信したからだ。
去り際の渚の束の間の表情には、透けて見える苦悩と孤独があった。
* *
九月が終わる。間もなく十月がやって来る。同時に――鈴が十七歳になる筈だった日が近付いて来る。十七歳になる権利を永遠に失った鈴には、最早なんの意味もない日だ。
死神は年を取らない。何故なら死者だから。転生するか、消滅するその瞬間まで、死亡時の姿形のまま生き続ける。他に道はない。
諦めるしかないと頭では分かっていても、心はまだ付いて来ない。この感情は、時間が経てば消えてくれるのだろうか。
家を出て、開放廊下の手すりを背もたれに立ち、静かに樹達を待っていた鈴は、そんな取り留めのない思考の渦に飲まれかけていた。樹が現れたのはその時だった。
隣の三〇一号室のドアが開き、学校指定のベストを着た樹が顔を出す。渚はいない。樹は鈴の姿を認めると、人の好い笑みを浮かべた。
「お早う。鈴」
「お早う。樹君」
笑い返す鈴。結局、樹が見せた不思議な挙動については分からず仕舞いだった。
「急に肌寒くなったね」
「びっくりだよねー」
既に鈴もベストを着用済みだ。色はもちろん黒。近々出番が来るであろうブレザーと同じ色だ。
いつもと同じように並んで歩き、エレベーターに乗る。ちょうどドアが閉まったところで、樹がこんなことを聞いてきた。
「最近、変わったことはない?」
「え?」
樹が一階のボタンを押す。その間無言だったが、鈴の応答を待っているのは明らかだった。
「突然どうしたの?」
「それは……なんとなく心配になって」
ドアが閉まる。一時の下降感の中、何故か細くなった樹の声がモーター音と混じり合う。
気のせいでなければ、樹の物言いはどこか言い訳じみて聞こえた。ついでに言うと、微妙に目が泳いでいる。余り演技は上手くないようだ。
「良く分かんないけど、あたしなら大丈夫。夢も見てないし、泣いてないし」
「そっか。良かった」
ベルが鳴り、ドアが開く。一階の廊下に出る傍らで、鈴は安堵している樹にちょっとした意地悪を仕掛けた。
「で、本当はどうしたの?」
樹が凍り付いた。分かりやすくてとても良い。これにより満足した鈴は、足取りを軽くしながらしれっと話題を変えた。
「昨日のことなんだけど」
「な、何?」
「同じ部署の死神に会ったよ。あたしの同期で、ここの
鈴の話に樹が目を丸くする。
「え?……そうなんだ。僕達だけだと思ってたよ」
「だよねー」
「何か話した?」
何気ない口振りで尋ねられた。しかし――。
自分から話題を提供しておいてなんだが、答えを用意していなかったことに気付く。鈴は少し悩んだ後、全く具体性のない言葉を返した。
「まあ……ぼちぼち?」
悪いと思いつつも、会話の内容は伏せることにした。鈴にとって、あの会話と感覚は、容易に説明出来るものではなかったのだ。
案の定、樹には怪訝な顔をされたが、追及もされなかった。
【To be continued】
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