第10話 縋る糸[前編]
夕暮れ時。三〇一号室に集まった四人は、ローテーブルを囲んで遅めの夕食を共にしていた。
このマンションからほど近い個人経営の弁当屋で思い思いの弁当を買い、会話もそこそこに空腹を満たしていく。鈴は未だにぼーっとする頭で箸を動かし、まだ温かい玉子焼き弁当を口に運んでいたが、脳の動きが鈍っているせいか味が分からない。
現場となったあの森で見たものが、瞼に焼き付いて離れない。すっかり忘れてしまいたいのに、自分の意思でどうにかなる筈もなく、たまに襲って来る吐き気に耐えるのが精一杯だった。
ふと、樹達が食べている弁当を見る。弁当屋にいた時から、ずっと気になっていることがあった。
海苔弁当。鮭弁当。海老天丼。いずれも肉が入っていない。理屈の上では偶然の可能性もあるが、それでも鈴はこれを偶然だとは思えなかった。
同課の仲間という事情もあり、樹達と一緒に食事をする機会は多い。だから知っている。樹も渚も普段から肉は食べているし、燿に至ってはかなりの肉好きだ。そんな三人が、今日に限って揃って肉を選択肢から外した。偶然な訳がない。
正直、いま肉を見て冷静でいられる自信はない。鈴自身、それが理由で肉を避けた。三人の無言の気遣いが深く心に染みて、情けないがまた泣いてしまいそうになる。嬉しくて。申し訳なくて。
「で、こっからは真面目な話なんだけど」
冗談なのか本気なのか分かりづらい発言に始終していた燿が、主に樹と渚を見据えながら勝手に話題を変えた。いつものことではある。
「ここしばらく、裏切り者があちこちで大暴れしてるでしょ?」
「そうだね」
樹が神妙な面持ちで頷く。
「被害者の数も、なんだか東京にいた頃よりも多くなった気がする」
樹の言葉に、燿は何度も首を縦に振った。
「意味分かんないよねー。大都会を離れて、少しは仕事も楽になるかなって期待したのにさ。いざ来たら
「うん……」
「ナブまで凶暴化しちゃうし」
「ナブ?」
「君らがさっき粛清した死神。巷では優男としてまあまあ有名だったみたい。俺も一回だけ組んだことあるけど、その時は大方イメージ通りだったよ」
樹と燿の会話を漠然と聞く。
凶暴化。いまひとつ現実感が湧かない話だ。あの死神が元は穏やかな人柄であったのなら、現場で目にした彼はなんだったのか。人が変わったとか、そんな枠で収まる話ではない気がした。
死神として生きる宿命に耐え切れなくなり、心が壊れた死神。死神の役目を放棄し、何もかもを捨てて姿を消した死神。それが裏切り者と呼ばれる存在だ。彼らの絶望や憤怒、憎悪や殺意の矛先は、かつて共に戦った
しかし、流石に根っからの人格まで変わる訳ではない。――普通なら。普通でないことが、現在この地でほぼ毎日起こっている。しかも、比較的最近になってからだ。
初めて実戦に参加した今日、知識として知っていた程度の事情を目の当たりにした。何が裏切り者達をあそこまで狂わせてしまっているのか。新米の鈴にはまるで想像が付かない。
「何が起こってるの……?」
誰にでもない問い。聞かれても困るだろうに、言葉にせずにはいられなかった。
「……怖い……」
不安をそのまま声に乗せる。声は当たり前に震えていた。
気遣わしげな樹の視線。緊張感のない燿の視線。
そして、真意を読ませない渚の視線。全てが鈴に注がれている。
異様な静けさの中、口を開いたのは燿だった。
「進捗があったら知らせるね」
燿は素っ気なくそう言うと、お茶の入ったペットボトルに手を伸ばした。彼はそれきり沈黙した。
* *
見渡す限りの闇。一筋の光すら届かない濃厚な闇の中に、鈴は立っていた。密度の高い闇。四方八方が黒く、現実感とは無縁の不可思議な空間だ。
鈴はここを知っている。恐ろしい場所だと知っている。
胸を圧迫される息苦しさ。朔風に撫でられたかのように、芯から冷えていく体。為す術もなく立ち尽くしていると、背後に視線を感じた。来た。
振り向きたくはないのに、体は鈴の意思とは関係なく動く。振り向きたくない。見たくない。見られたくない。なのに。
鈴は見た。自分が見殺しにしてきた人間達が、能面のような無表情でこちらをじっと見詰ている光景を。
絶叫が喉元までせり上がった。瞬間、鈴は更に見てしまう。境外の森で
* *
絶叫と共に、鈴は目を覚ました。
掛け布団をはねのけて、ベッドの上にうずくまった。完全に無意識だった。
鈴はただ一人、仄暗い寝室で声を上げて泣いた。
【To be continued】
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