第3話 宿命の到来[前編]

 見渡す限りの闇。一筋の光すら届かない濃厚な闇の中に、諸星鈴は立っていた。密度の高い闇。四方八方が黒く、現実感とは無縁の不可思議な空間だ。

 ここはどこなのか。いや、ここは。皆目見当が付かない。

 鈴は「自ら死を選び、死神となった元人間の出発点」とされる白い空間に、かつて一時的に滞在したことがある。この黒い空間は、あの場所とどこか似ていて――

 胸を圧迫され、息苦しささえ覚える嫌な無音。木枯らしに肌をなぶられているような、そんな冷たさがあった。が、風など吹いていない。おぞましい感覚だ。

 鈴はただ戸惑い、恐れ、立ち尽くす。そうして無意味に時間を消費していたら、ふと背後に視線を感じた。

 どうしようもなく悪い予感がする。しかし、それでも手掛かりを得るため振り向くと、自分が今までが、ぞろりと並んで立っている姿が視界に飛び込んで来た。全員が能面のような無表情をして、こちらをじっと見詰めている。

 そこで、鈴の意識は途絶えた。


 * *


 寝室のベッドで、鈴は目を覚ました。

 正確な時刻は不明だが、まだ朝には程遠いらしい。ベッドサイドのランプだけが、室内に暖色の光を提供している。

 鈴は目を見開いたまま、荒れに荒れた呼吸を繰り返しながら、奥歯をがちがちと鳴らした。室温を無視して冷え切った体の震えが止まらない。

 身を起こすことさえ出来ず、鈴は掛け布団を頭まで被って震え続けた。


 * *


 朝食は取らなかった。とてもそんな気にはなれなかった。あの夢の余韻は、空腹感すら掻き消すほどのものだった。とにかく気分が悪く、水分補給をするのがやっとだった。

 鈴は祈るような気持ちで朝を待ち、最低限の時間を置いてから三〇二号室を出た。そして、そのまま隣の三〇一号室の前に立ち、そろりとインターフォンを鳴らした。短い空白の後、ドアの向こうから足音が近付いて来た。

「鈴?」

 ゆっくりと開いたドアから顔を出した樹が、少々の驚きを伴った表情で鈴を見る。鈴はたちまち申し訳ない気持ちになったが、今更引き返せない。

「ごめんね。折角の休みなのに、こんな早くから」

「それは構わないけど」

 樹の言葉が止まる。理由は想像が付く。

「何かあった? 顔色が……」

「やっぱり悪い?」

 ろくに取り繕えもしなくなっている自分に、つい苦笑いを浮かべてしまう。

「悪いよ。目の下に隈も出来てる。ちゃんと寝た?」

「……寝てない」

「どうして?」

 当然そう問われる。

 ここまで来ておきながら、鈴は一瞬躊躇した。本当にこんなことで相談に乗って貰って良いのだろうかと。要は夢見が悪かったというだけの話なのだから。

「昨日の夜、怖い夢見て……」

 意を決して口を開いた。無意識に視線を逸らし、続ける。

「眠れなくなったの。眠ったら、また同じ夢見ちゃう気がして……怖かった」

 取るに足らない悩みだと思われるかも知れない。ただの夢だと切り捨てられて終わるかも知れない。けれど、たとえそうなっても不満を言うつもりはない。仕方がないことだ。

 ふと視線を戻す。樹の顔が

「樹君……?」

 一体、樹は何を思ったのだろう。鈴は戸惑いつつも、樹の言葉を待った。

 暫し黙っていた樹が間もなく発したのは、鈴にとって想定外の提案だった。

「上がる? 立ちっ放しは疲れるだろうし」

「え? 良いの?」

「嫌じゃなければ」

「有難う……。じゃあ、お邪魔します」

 良く分からないままリビングに通された。お茶を出されたのでお礼を言うも、樹はどこか落ち着かない様子で頷くだけだった。

 ローテーブルを挟み、樹と向かい合って座った。

 何気なくバルコニーの方に目を向けると、渚が桔梗の世話をしているのが見えた。ああ見えて――といったら失礼な気もするが、生前から園芸が趣味らしい。

「鈴」

「えっ」

 一時とはいえ、本来の目的を忘れてしまっていた。慌てて樹に向き直る。

「ごめん。ぼーっとして」

「ううん。気にしないで。それで、さっきの話だけど――」

 真面目で、やや複雑な顔をした樹は、一拍置いた後にを告げた。

「鈴が見た悪夢ゆめは、ほとんどの死神にとって、避けては通れないものなんだ」

 鈴は絶句する。氷を当てられたような感覚が背筋から全身に広がって行く。

「呪いみたいなものだと思ってる。僕もたまに見てるよ」

 樹の声音には隠し切れない諦めの色が滲んでいて、鈴を絶望的な気分にさせた。

 泣き出しそうになりながら、鈴はからがら尋ねた。

「あんな夢を、これから先もずっと見続けなくちゃいけないの? 終わりは来ないの?」

「……ごめん。それは個人差があるから、なんとも言えない」

 否定はされなかった。

 微かな望みも失い、鈴は自失状態で項垂れた。



【To be continued】

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