第20話 「洋銀事件」まで
●呼び出しの電話
四時間目が終わる頃から、ぱらぱらと雨が降り出した。樹は、教室まで迎えに来たさと子の傘に入れてもらって帰宅した。千鶴子は、昼食を食べさせながら学校での様子を聞き、立たされた原因が「誤解・思い違い」とされたと知り、安堵した。樹は食欲が旺盛だった。鯵のみりん干し、焼きナスと味噌汁を勢いよく平らげた。
「りりりん りりりん」。千鶴子が受話器を取る。電話は山下刑事からだった。
「ご退院おめでとうございます。実は教室でのこと、ボクにもうちょっとお話聞かしてもらえんか思いまして。いやぁ、学校でちょっとお話しましてね。最後までおっちゃんが聞くなら話してええって言うてくれはったんですけど」「はあ、ちょっとお待ちください」。千鶴子は、電話を置いて、樹の傍に座った。
「刑事さんから電話かかってるで。Qちゃん学校で刑事さんと話したん?」「あぁ、そうそう」。樹はすっかり忘れていた。
「話の続き聞きたいって電話してきてはるで」「あ、そうやった」「ほんとだね、わすれてたね」
「えっと、話するで」
「もしもし、大変お待たせしました。あの、お話しますっていうてます。何時頃来られます?」
「あの~、それが、せっかくなんで一緒に安井さんの話も聞けたらええなぁ思いまして。向こうに電話したら、お出かけ中らしいて、二時頃戻ってきはるいうてね。よかったら、二時に三福荘さんでよろしいですか。いえ、お店の方にお邪魔したらお客さんの目ぇもあるしご迷惑かいなぁて…」。千鶴子のそばで電話に聞き耳をたてていた樹が、「やたっ」と小さく言った。三福荘に行く口実ができたのだ。
樹は二階に上がると、勉強の道具一式を鞄に詰めて持って降りてきた。
千鶴子は三福荘に電話をかけていた。何者かが学校に入り込み教室の窓ガラスが割られた件は、既に広まっていた。千鶴子は、労わりの言葉と「元気であれば顔を見せて欲しい」という言葉をもらった。
「Qちゃん、やっぱしお母さんもついて行こかな」「一人で行けるで」。樹は元気に即答した。この「一人でできる」といった言葉も、本当にできるかどうかはさて置き、ほんの少し前までは当たり前のように聞いていた言葉だった。
「『一人でできる』と『やってみなわからへんやん』がよくセットででていたな」と、千鶴子が思い出している間に、
「いってきまーす」と樹は、長靴で雨水をぴちゃぴちゃ跳ね上げながら走って行ってしまった。
揺れながら小さくなっていく傘を見送って、千鶴子は、
「いつもいつも」と、にっこりした。店に入ると、千鶴子は三福荘に電話を架けた。
●叱責の電話
雨が降り出す少し前、ドジャースが勤める会社「田代電業商会」に倉橋花江ことハナの姿があった。
社長室に通されたハナとドジャースが、ややうなだれて社長の前に立っている。
「まあ大したことならへんと思うで。けどお前、自分の立場も、会社員の自覚ももうちょっと考えなあかんわな」。社長の田代は、叩き上げの人物だ。親分肌で遠慮のない話し方をする。
「なんやあんたに迷惑かけなんだらええがのぉ。ほんま申し訳ねぇ。警察の世話なるようなことやったんか」
「堺屋の納品に出向いた時、あそこのちっこい子が学校で怪我したんで一緒に小学校いったんやて。そこでなんやらセンセに食って掛かって、警官に止められたんやと」「ほお」
「そのあと、滞在歴やら聞き出された言うこっちゃ。まあ、こいつ雇う時ちゃんと問い合わせとるし、大使館からもなんや許可するっちゅうてあったしな。おまえも後ろめたいことあらへんねやったら、堂々としとけ」
「ハイ」。ドジャースは、就労にあたって大使館からの迅速な配慮で身分を保証されていた。
「今朝も電話入っとったんや…」と言い終わらない間に、社長席の電話が鳴った。「今朝方お電話をした大使館の『フォーク』さんからお電話です」「はいはい…」。社長は二言三言話すと、
「おまえと喋りたいて…」と、受話器をドジャースに向けてぶらりと振った。
ドジャースが受話器を握る。社長の田代は席を立ち、ハナに応接セットのソファを促して自分も座った。電話越しにも、ドジャースが叱責されているのがわかる。
「うちが叱る手間が省けたのぅ」。二人はドジャースの様子を見ながら、苦笑いした。
アメリカ大使館では、目の前に迫った6月17日の沖縄返還協定調印まで一切の揉め事を封じ込める意図で、この若い元軍人に神経を尖らせていた。昨年12月20日にコザ市でアメリカ軍兵士が起こした交通事故を発端にしたコザ暴動の記憶も生々しく、絶対に大事にさせてはいけないと考えていた。テーブルに置かれた新聞には沖縄返還に関する記事が載っている。
「Interrogation?」と、ドジャースが聞き返した。「なんや」。田代がソファから声を掛けた。
「タ、大使館の職員が、トリシラベに来るそうでス」。ドジャースはうんざりという顔をした。
●雨の三福荘
「こんにちはー」。三福荘では、敦子と祥子が出迎えた。
「またえれえこったたぁねぇ」。敦子は声をかけながら膝をつき、跳ね上げた雫をタオルで拭いてやった。祥子も沓脱ぎに降りて、樹の背中やお尻の辺りを拭いてやった。
「んぐ」。樹は小さな声を漏らした。軽く拭かれただけだったが、そこここがわずかに痛んだ。
「あ、怪我のとこ?」と、祥子が聞く。「へ、平気やで」。樹は笑顔で応えながら上がった。その時、玄関のガラス戸が開き、山下刑事が現れた。
「いやぁ、ちょっと本降りになってきましたわぁ」
「ご苦労様です」。敦子は膝をついたまま、軽く小首をかしげてお辞儀をすると、持っていたタオルを上がり框に置き、「足、これで」と言いながら立ち上がった。祥子も、
「あ、どうぞ」と、自分のタオルを山下に渡した。
「あ、どうもどうも」と山下はありがたそうに雫を拭って、玄関を上がった。
「だいぶ扱いちゃうなぁ」。タヌキがにっと笑う。春もくすくすと笑いながら、二号棟に向かう樹たちの後に続いた。
●「洋銀事件」まで
二号棟の炊事場にある机のいつもの場所に樹は座った。その隣に祥子が座る。敦子は、二人の向かい側の席を山下に促した。自身はいつものようにそばの丸椅子に座る。春は樹の傍らに立ち、タヌキは敦子の少し後ろで、柱にもたれて腕を組んで立っている。
「え、お二人もいてはるんでっか」。山下が聞くと、敦子は落ち着いた様子で言った。
「そらぁ親御さん来られんなら代わりがおらんといけんでしょう。祥子…」
「あ、うちお茶淹れて…」。祥子が立ち上がって管理人室に消えていく。
「い、いや、そんなん大丈夫でっせ。子供さんを怖がらしたりしますかいな。ど、どうぞどうぞおってください。ほな、ボクなにから話してくれるかなぁ」。山下は、強いまなざしの敦子から目をそらし、樹に軽い作り笑いを向けた。
「えっと、なにから…、あ、洋銀。洋銀や。あそこのお手伝いにいった時、幽霊、幽霊おってん…、いてたんです」。たどたどしい樹の説明が始まった。
「いきなりかいな。ボク幽霊てそないぽんぽんおる思うか」。山下は軽く口の端で薄く笑っていなめるように言った。樹は口ごもってしまう。
「ちゃんとさいごまできいてくれるんやったらって、いつきいってたよ」「あ、そや。最後まで聞いてくれるんやったらって言うたのに…」。樹は春の助けで、言い返すことができた。
「あ…、せやったな、せやった。すまんすまん」。山下は敦子をちらちら見ながら言った。
「銀さんがバルサンいっぱい持ってきて、『これやって』って」「これしてもらおうおもて」。春が正確に訂正する。「あ、これして貰おう思うて、や」と、樹は言い直した。
「ほんでバルサン炊いたんかいな」と、山下が訊く。
「うん」
「ほな、戸ぉやら窓は、締め切ったっちゅうことやな」。山下は、戸締りのことを確認し、少し悔しそうな顔をした。
「うん。ほんで大工さんはみんな帰ってん」。山下は手帳を開いて、黙って小さく頷いた。
「あ、僕らはアンテナあげてん」。山下はまた頷く。
「終わってからお店に戻って…、お父さんが換気扇つけたり…窓開けて…」
「もっかい(もう一回)開けたんやな。裏の戸ぉもかいな」。山下は以前自分がたてた仮説にこだわった。
「え、えぇと…。覚えてない。けど、最後は戸締りして畠中さんに鍵渡したもん」。樹は自分が思ったように話せないことにもどかしさや苛立ちを感じた。敦子が、見かねたように丸椅子を机に寄せて座りなおした。
「ぁ…、どうぞ」。山下は敦子を横目で見ながら、手の平を敦子から樹に伸ばして、話の続きを促してくれるよう促した。軽く笑顔を見せた敦子が言う。
「でぇ、Qちゃんはどないしとったん?」
「あっ、ああ!僕お店に入ってみてんけど、幽霊おれへんようになっててん!」。樹は、顔を上げるとはきはきと話した。
「Qちゃん、幽霊はそれでしまい?」
「う〜ん、お便所に逃げ込んでたと思うけど…、戸締まりして帰ってん。それからお風呂屋さん行ったら、鮒の兄ちゃんが来て…、僕シャンプーしながらうっかり『バーン』してしもてん」。樹はちょっと俯きがちになった。
「え、今話変わりましたか?ほんで『バーン』てなんでんねん」。さすがに山下も聞き返した。
「あ、あの、僕…、幽霊を触ったら『バーン』ってなって幽霊成仏してまうねん」。樹は俯いたまま答えた。祥子が、茶を山下の前に置いた。そのまま樹の隣に座る。
「う、うちは二回近くにおったことあって、ほんまに『バーン』てなるんです!」。なにか言いたそうに口を開いた山下に敦子は言う。
「そいで、夜中にここに来た時、いつもと様子違うて、刑事さんも言うとられよったねえ」
「あ、あれか!うーん」。思わず山下が唸る。その後のなんとなく嚙み合わない会話も頭に蘇ってくる。幸子の「ほんまや!そや!風呂屋の帰りからおかしいわあんた」という言葉とも符合する。
「鮒の兄ちゃんに憑りついてたもん、全部とってしもたから…」
樹の言葉を今度はタヌキが続けた。
「善財童子さんが『刺青の男は心が清められて、兄貴分が余計にひどいことをしようとして酒場で死んでしまった』て言うてはったのう。あ、うまいこと言えよ」
「あ、うん、鮒の兄ちゃんは心が清められて、兄貴分が余計にひどいことしょうとして洋銀で死んでしもてん…」
「今のん滝渕と村井のことやな。くぅ…、それが泥棒の動機っちゅうんかいな」。山下は結論だけが出てきたように感じた。
窓ガラスの向こうは雨が少し強くなった。その中に若い男女が一本の派手なレモン色の女物の傘に隠れるように寄り添いながら現れた。幸子と滝渕だった。
幸子は敦子を見つけて、滝渕は山下を見つけて顔を曇らせた。二人は引き返す機会を雨の勢いに削がれて玄関の軒先に入った。玄関の扉が開き二人が入ってくる。山下はバタバタと玄関に向かい、
「た、滝渕やないか、ええタイミングや、ちょ…、ちょっと顔貸してんか」と言った。少し身構えて凄もうとしたが、滝渕の様子は見違えるほど角が取れて、警察が苦手なただの若い職人のような印象だった。
「ちょっとだけや、こっち来てくれ」「お、おぅ」
無言で見送った幸子だったが、悔しそうに「ちっ」と唇の端を歪めると部屋に引き上げてしまった。
「手間かけん。ちょっとここ座ってくれ」「お、おぅ」。滝渕は、落ち着かない様子で山下の隣に座った。
「村井の一件の日、お前風呂屋行った時、この子に会うたな」。滝渕は、ちらっとだけ樹を見て、山下を見返すと、「おぅ、会うたのう」と答えた。この素直さにも山下はまた調子が狂うものを感じた。
「風呂屋でなんか覚えてることあるか」。滝渕は、なんでそんなことをという顔をしたが、少し考えて、
「この子にシャンプー借りてのぅ、えらいさっぱりするもんや思うたのぅ」と答えた。山下には、無関係な意味のない話に聞こえた。「はぁ?……他にはないんかいな」
「……この子に怪我させたことあってのぅ、……詫びてのぉ」
「詫びてぇ?お前そんな奴ちゃうやんけ」。山下は、思わずつっかるように言ってしまった。滝渕は、言い返す言葉に淀む。その様子すら山下を混乱させた。
「う、うん!」。敦子が強く咳払いをして山下を制した。「村井って人のこと聞こーちぃて呼んだんと違げぇんですか」「あ!…すんまへん」。山下は、敦子の方を向くとちょっと頭を掻いた。
「そ、それで、風呂屋から下宮さんとこ帰ったら村井がおったんやな」。樹にとってこの部分は初めて聞くところだ。
「妙に優しいてのう、…こう…、気色の悪いもんが体に這い込みよって…。わしが流しで吐いとる間に、おらんようになっとった」。滝渕は、机の一点に目を落として強張った顔をした。
樹には、何の会話が進んでいるのかわからなかった。山下、祥子、春、そしてタヌキを見たが、誰一人解釈ができない様子だった。が、敦子はいつものように腹の座った微笑みを浮かべて、
「ほぅ、あんた、もうその人を受け入れられんかったっちゅうことかね」
「!」。滝渕はビクリと反応し、山下越しに敦子を凝視した。
「そ、そうか。……わしゃもう兄貴に合わせた酌も、あいそもようせん…、気持ちがこう…もう、兄貴をよう受け入れん。じゃけん、兄貴も余計どげなぶろうか(どのようにいたぶるか)…、あ!」。滝渕は俯き、また背後を振り返った。
「どないしてん?」。そう言った山下他全員が、滝渕のうろたえぶりに驚いた。敦子だけが穏やかに微笑んでいる。タヌキだけは、ぼそりと
「また善財童子さんとちゃうかぁ」と、敦子を見ていた。
「幸子はめよう(陥れよう)思て、鍵がめよった(盗んだ)んじゃあ!」。滝渕は一瞬激昂して立ち上がった。踵を返して行きかけるところ、すかさず山下が、滝渕の右手首と右肩を掴み、壁際に押し固めた。
敦子が、ゆっくり立ち上がって滝渕に向かって言う。
「いま、業わかした(激怒した)理由を考えて、言うてみい」
滝渕は、「えっ?」と呟いた。山下は、ブツブツ言いながら力を緩め椅子に座り直した。
「さ…幸子が哀れや…思うたき」。滝渕は、絞り出すように言った。
廊下の二号棟との角に、幸子が待ちかねて様子を見に来た。祥子が気づいて視線を動かした。
「もうええじゃろ」。滝渕はゆっくり背を向けた。
「組も……、やめるつもりじゃ」。二人は、互いの肩に優しく手を触れながら部屋に帰っていった。その様子を見送る祥子が言う。
「…素敵や、なぁQちゃん」「ぇ、」「お幸せにっちゅうやっちゃのう」「あ、うん」「ほんとだね」
樹は、今の祥子の言葉で初めて、自分の生み出した歪の一つにけりがついたと感じ、ホッと溜め息をついた。
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