第19話 大事にならないようにする

●テキサスの黄色いバラ

 ドジャースは、市立病院のロビーに置かれた赤電話で、店に連絡をしていた。電話の相手は福知らしい。


「よっしゃ、もうゆっくり役たってこいや。今日は直帰にしといたるわ」


「サンキュー OK……OK」。ドジャースは電話を切り、樹の病室315号室に戻った。入口には片岡巡査が立っている。ドジャースは片岡に一瞥をくれてドアを開けた。以前安井が寝ていたベッドに樹が横たわっている。丸椅子に座った瀞が立ち上がった。


「ほんま世話掛けてすまんな。ほな一辺帰ってくるわ」。この時代、まだ日本は完全看護が確立しておらず、子供の入院には大人の付き添いが求められていた。瀞は千鶴子と交代することにし、その間、ドジャースに樹のそばにいてくれるよう頼んで病院を出た。


 ほどなく、樹は目を覚ました。傍らで、ドジャースが鼻歌を口ずさみながら新聞を読んでいる。その歌は、テレビのポパイやトムとジェリーなどの挿入歌に聞こえた。


「あれ……ドンちゃん……」「オウ、Qちゃん。だいじょーブかい?」。ドジャースは、新聞を脇机に置くと片手をベッドについてもう片手で樹の髪を撫でた。


「う、うん。何してんの?」「ボクは君をカンビョーしてるんだ。堺屋さんがQちゃんのお母さんを連れてくるまで」。樹は小さく頷いた。また親に心配をかけてしまったなという顔をした。ドジャースは、少し萎れた樹を励まそうとした。


「ボクはQちゃんは全然だいじょーブだって言ったんだヨ。店の天井裏にだって登れる」


「あはは。さっき何歌ってたん?」「おう、yellow rose of Texas、アメリカの古い歌さ」


 母・千鶴子が着いた時、病室では二人が日本語訳をこしらえた「テキサスの黄色いバラ」を合唱していた。母は、呆れたような安心したような顔を見せた。


~エミリー 君は遥かな僕の黄色いバラ 必ずもう一度探し出すから

 エミリー 広い南部を訪ね歩いて イエロー ローズ オブ テキサス 探しに行くよ~



●6月11日(金曜日)

 朝食後、樹は外科の診察を受け、背中の袈裟懸けの傷に軟膏を塗られたり、打撲の傷などの手当を受けた。


「結構治りが早いなぁ。傷の線が途切れてきてるわ」。打撲の腫れもひいている箇所があった。千鶴子が、


「よう怪我してたら早よ治るようなるんでしょうか」と聞いている。


「あ、そんなんないですよ」と医師はそっけなく答えた。


 樹は、午後からいくつかの検査を受けた。左側と右側に複数の絵が描かれており、関係するものを線で結ぶものや、単純な計算をしていった。四角い枠に印を書き込んでいく検査では、「始め!」の合図とともに両手で鉛筆を持ち、どんどん枠を埋めだし、


「あ、ボクそれは片手で……」と看護婦が制したが、医師から「それはそれでいいから」と言われ、その後の検査では両手使用が許された。ボルトにナットを通し、たくさん穴が空いた板にはめこんでいく検査では、左手がボルトを穴にさすころには、右手が次の材料を探したり、両手で、別の材料を探したり、二人掛かりであからさまに進めていく。一つの文章を二本の鉛筆が分担して書き進める場面さえでてきた。タヌキは傍らで手を叩き、笑いながら見ていた。



●6月12日(土曜日)

 診察室で医師が、樹と千鶴子を前に話している。樹の隣には春が立ち、タヌキもいた。


「いやあ、たまに両手で作業をするお子さんはいますが、これだけ別の作業を同時にする子はみたことがありません。文章まで両手で書くと『二人が掛け合いで書いているみたいに字の大きさや癖が違って』、学校のテストなんかでは先生に注意されるかもしれませんね。未だに、右手に矯正した方が良いという考えを持った人もいますので。いずれにせよ。障害をうかがわせるものは感じられませんでした。背中の傷もずいぶん治りがいいようです。退院して、また一週間ほどしたら診せに来て下さい」


 二人は、電車で帰ることになっていた。病院からの帰り道、千鶴子は訊いた。


「昨日の検査、春ちゃんと二人で書いたりしてたんやろ。学校でもあれやってんの」


「ううん、どっちかやで。けど、もう二人とも自分がやりたいことどんどんやることにしてん」。樹は、いつになく強い笑顔で答えた。千鶴子はその言葉を聞いていったん立ち止まって、また歩き出した。春によってブレーキがかけられてきたように感じてきたこの頃だったが、何か変化があったのかも知れない。今の言葉がどんな意味があったのか、どんな経緯でそうなったのか聞きたい気もしたが、どれから聞いたらいいものか迷った。


「そんなこと学校でしたら、また先生に怒られるかも知れへんけど。検査でも答えは間違ごうてへんかったみたいやし……」。千鶴子は、しばらく『両手使い』が連絡帳に書かれることを覚悟しておこうと思った。


 電車は朝の混雑時間帯をとうに過ぎて、がらんとしていた。席につくと、樹はゼンマイが切れたオルゴールのように、寝てしまった。自宅近くの駅までは短い距離ながら乗り換えがあった。千鶴子は、乗り換えのホームへの階段を樹を抱いて降りた。下車駅に着くころ樹は、ぼんやりと目を覚ました。


 駅には父が迎えに来ていた。ランドセルが載っている。


「学校、行くんやったら連れたげるで」「うん行く」と、樹は即答した。瀞は樹の返事で回復具合を測っていた。千鶴子は、あの強い笑顔とわずかな距離でも寝てしまったことから、回復具合がよくわからなかった。ただ今の返事が積極的で、それを止めたくなかった。


 買い物をして帰るという千鶴子と別れて、堺屋の軽トラックは小学校に向かった。



●校長先生


 樹のクラスは、空き教室に移動して授業をしていた。そうと知らぬ樹は、いつもの教室に向かった。樹の隣には春、後ろにタヌキが続いている。


「ガラッ」「あれ?」しーんとした教室には、山下がポツンと立っていた。割れた窓には、間に合わせでベニヤ板が貼られている。樹に気づいた山下は少し驚いた顔をしたが、笑顔を作って口を開いた。


「Qちゃん、退院したんかいな。おめでとうさん」


「…ありがとうございますー」。樹は、堺屋でこれまで仕込まれてきた型通りの礼儀で応えた。「おっちゃんは何してんの?」


「昨日のこと、考えにきたんや。あ、ボク、背中の怪我の具合どないや?」


「うん、『背中の傷もずいぶん治りがいいようです。』って」。樹は、春が再生した医師の言葉を、背中をめくりながら言った。


「どれどれ〜、ほんまやなぁ、もう青じみ消えてるとこあるなあ……、せやけど、ここ、蝶番の跡残ってるでぇ。だいぶ高いとこに突き上げられとんなぁ」。山下は両手で樹の代わりに生徒用の椅子を持ち上げると、掃除用具入れのかなり上に掲げてみせた。「こんな感じやで」。山下は、子供が自分で跳べる高さではないことや、高齢の女性教師が投げつけることも不可能だと考えた。


「ここにぶつけられたあと、この高さから落ちとんねんで。ボクものすごい丈夫やなぁ」。言われてみるとその通りだなぁと、樹は思った。タヌキも「ほんまやなあ」と、大きく頷いている。


「けど、突っ込んできた奴は、さっぱり誰も見てへんねん。何が爆発したかもわっからへんのや」。山下は半分独り言のように言いながら首を傾げた。「なんでもええねん、Qちゃんはなんぞ見とらへんか」


「いつき、わからないってこたえよう」と、春がいつものように言った。タヌキは、入院前と少し違う樹の雰囲気に気づいた。


「えっと、刑事のおっちゃん僕のこと、おかしい子やて思う?」。樹は、急に真面目な顔で言った。


「ええ?なんやなんや?おっちゃんなんか自分らのころから……」


「ゆ、幽霊と話したこととか人に言うたら、おかしな子やって思われる……んです」。樹は、春の手を強く握った。ただ樹は、目をそらさず山下をじっと見つめた。


「ゆ、幽霊て……」。山下の脳裏に、病室での安井との会話や自分の体についた手形、そして杉原建設に呼び出された時に見た従業員についた手形とそこで聞いた出来事が思い出された。


「それて安井さんが言うてた村井の幽霊の話かいな」


「うん」


「あ、あのわしを突き飛ばしたり、ジュクジュクって消えたあれかいな!あ、あんなんが出てきた言うんかいな。あんなおかしなことそう次々と……」。山下は早口で捲し立てた。あの時の恐怖と、それを無人の教室で子供に語られ始めるという戦慄的な展開による緊張に耐えられなかったのかも知れない。


「あーあーあー!」。樹は、両手を上下にさせ、大きな声を出すという、最も子供にふさわしい方法で山下の言葉を遮った。その手に引っ張られて春もポカンとした顔でぐらんぐらんした。タヌキが後で「ぷっ」と笑った。


「お、おっちゃん、ちゃんと最後まで聞いてくれるんやったら、ぜ、全部僕話したげるで」。山下は生唾を飲み込んで言った。


「ぜ、全部?」。樹が頷く。春もそれに連れて頷いた。


「えっと、洋銀のこと、村井さんのこと、安井さんのこと、野洲のこと……」。樹は順番に答えた。


「え、今のヤスて誰や」


「うちの組におった野洲ひろしって子ぉやねん!。転校してすぐ死んでしもたのに、センセ黙っててん!」


「さ、堺屋!」。樹が振り向くと、教室の入口に校長先生に伴われた担任教師が立っていた。その口元はわずかに震えている。校長は背の高い落ち着いた雰囲気の初老の男性だった。


「あの、刑事さんに少しお伝えしようと思ったことがありまして、担任と来たんですが。堺屋君登校してきたんですね」。校長先生は、落ち着いて慈しみのある笑顔で言った。


「あ」「あ」「あ」。樹、春、タヌキがぽかんと口を開けた。校長の背後に善財童子が立っている。人差し指を口元にあてて「しぃ」という仕草で微笑んだ。


「いえ、昨日、担任は『授業中にプリントをせんと騒がしかったので立たせました』とお伝えしましたが、それがどうやら間違い・思い違いのようでして…」。校長先生の言葉に担任教師は驚いたようだった。校長先生は一枚のプリントを胸ポケットから取り出し、ぺろりと掲げた。


 そこには、氏名の欄に「堺屋樹」と書かれ、びっしりと解答文が書き込まれたプリントがあった。


「な、なんですこれは!ずっときょろきょろしてたんです。プリントなんかできるはずが…。あ!こ、こんな字、この子は書けません。誰かが書いた偽物です!!」。担任はうろたえながらも、文字の矛盾を指摘した。この指摘は本質的には正しい。


「ほ、ほぅ、『筆跡鑑定をせえ』と言わはるんでっか。ほな、ボク。そこの黒板に名前とか書いてみして」。山下は、心霊体験的な怖さが薄らいだことも手伝って、ことさらに担任教師の言葉に反応した。


 樹は、おずおずと黒板に向かい、右手でチョークを持つ。春が「堺屋樹」「自分が知っているいろいろな仕事」と書き出した。少し小さくまとまった可愛らしい文字が並んだ。


「こ、こんなアホな、この子はこんな字書きません!」。担任教師は、校長先生や山下刑事に訴えた。担任教師の声が聞こえたのか、樹のクラスの生徒たちが数名集まりだした。その中には、吉也合子もいた。


「あ、堺屋君は左利きでしたね。左手で書いてみて下さい」。校長先生の口を借りた善財童子が言う。


「はい」。樹は、左手に持ち替え、同じ文字を、普段通りの立派な金釘流で書き上げた。


「え…」。担任教師は絶句した。クラスの生徒がどんどん集まってくる。


「というわけで、先生は、あまり堺屋君のことをご存じなかったために、少々の誤解があったようです。堺屋君を教室の後ろに立たせたり、体育の時間まで残らせておく理由はなかったということがわかったと思います」。校長先生は、生徒たち全員に聞こえるように言うと、山下刑事にお辞儀をしながら何か言おうとする担任教師をなだめながら連れ出した。


「へえ、お前両利きなんや」「けが大丈夫?」と、生徒たちが黒板に集まる。樹に話しかけたり、自分たちも左手で書いたりを始めた。吉也合子もその輪に加わった。


 居所を無くした山下が教室を出ていく様子を眺めながら、苦笑いのタヌキは教室の後ろで腕組みをしていた。


「あれはあれでやりすぎな気もせんではないねんけどなぁ……。あっ」。これが夢で言った大事にならないようにしておくということか。


 生徒たちは、四時間目の授業で使うリコーダーを取りに来ていた。手に手にリコーダーを持って教室に戻っていく。担任教師は、意外なくらい普段通りの雰囲気で教室に登場し、音楽の授業が始まった。全員が合奏する中、樹はすぐふわふわとした様子になり、やがてリコーダーを持ったまま眠ってしまった。

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