第18話 いいこわるいこ

●いいこわるいこ

 菜の花の河原は、いつも通りの穏やかな風が吹いている。


 気がつくと樹は、浅い流れに脛まで浸かって立っていた。春は、岸の石に腰掛けて俯いている。川の向こうには、野洲母子が立っていた。他の人影もあった。懐かしい対面を果たしたように野洲母子と互いの腕や肩に触れている。


 やがて、その人影に伴われて二人は歩き出した。樹は、その様子をぼんやりと眺めていた。母親が少し振り返り樹に手を振った。ひろしも立ち止まって樹に手を振った。母親が何かを言っている。それに頷きひろしが、川に向かって走ってきた。じゃぶじゃぶと水に入ってくる。ひろしは水の中の石を拾って、力一杯こちらに投げた。石は、二人の中ほどでぽちゃりと落ちた。樹は、はっと我に返った。


「あれ!、すごかったぞーー!」。ひろしは大きな声で叫んだ。樹は、そんなことを言われることに驚いた顔をしたが、笑顔になって小さく頷いた。二歩三歩ひろしに近づく。


 ひろしは、もう一石を投じた。


「おまえはーー!、こっちーー!、くんなーー!!」


「はっ!」。樹は、どんと胸を突かれたように後ろ向きに体を震わせた。振り返ると、春が小さく見える。川は浅く、広く、自分が川の真ん中ほどまで来ていたことに気づいた。


「死んでまう?」。それまでさわさわと聞こえていた川のせせらぎが、突然物凄い音量になって耳に入ってくる。川幅一杯の白波が上流から押し寄せ、一瞬で樹の足元を抜けていった。水かさは、膝に達しようとしている。樹はぞっとした。


「ぼけー!」。ひろしは、そう叫ぶとじゃぶじゃぶと川を引き返し、走って母親に追いついていった。


 樹は、急に水が冷たく、濁りも増したように感じた。


「わあぁああぁあ!」。樹は声をあげ、じゃぶじゃぶと引き返していった。進むに連れて、川は浅く、水は温み、澄んでいく。転がるように水からあがった樹が振り返ると、そこにはただ、石に水が跳ね、きらきらと流れる美しいせせらぎがあるだけだった。


 樹は、菜の花が咲く河原の川岸に膝をつき、よろよろと四つ這いになり、「はあはあ」と喘ぐように息をした。強張った表情の春が駆け寄ってくる。


「あのこが、『おれらにすぐ『ばーん』ちゅうのしてじょうぶつさしてくれ!。たぬきのおっちゃんちゅうひとにそういえっていわれてきたんや』っていったの」


「え?あ、そうなんや…、はあはあ」


「でも、わたしは『バーン』できなかったの」


「えっ、そうなんや、ほんでぼくのこと呼んだんや。すごいびっくりしたわ」


「ごめんね。とってもおどろいたね。つかれたね。きょうしつに、あのこをおいかけてがいこつがきたの」


「ああ、あれすごいすごい怖かったわ」。叩き起こされた次の瞬間、骸骨の亡霊が膝蹴りを食らわせようと目前に迫ったのだ。その一瞬を思い出し、樹はぶるっと震えた。


「あ、あの骸骨も成仏したってこと?」。樹がふと疑問を呟いた。樹の傍らにしゃがむ春の背後に誰かが立ち、春の背中が日陰になった。人影に気付いて、二人が見上げる。


「やあ」「善財童子のお兄ちゃん!」。善財童子は、「お兄ちゃん」という呼ばれ方にちょっと照れたが、二人の向かいに、手頃な石を置いて腰掛けた。


「タヌキさんも、どうぞ」。二人が振り向くと、背後にタヌキもいた。正座して縮こまっている。


「へ、へへ、すんません」。タヌキは愛想笑いのような、照れ笑いのような顔で輪に加わった。


「Qちゃん!えらいすまん!ほんま、こんなんなると思わんでな。教室の外で、あのひろして子とな……」と、これまでの経緯を話し出した。


「母子逃がして、あの骸骨も、成仏さすて『バーン』しか、思いつかなんだんや。いや、骸骨はちょっとでもわしが食い止めてと思たんやけど、蹴られて蹴られて、行かれてしもたんや」。タヌキは申し訳なさそうに、そしてふがいなさを恥じ入りながら早口で話した。


「問答無用で消さんことって言うてたやん」。樹の言葉にタヌキは返す言葉もない。


「それだけ、子供を…、母子を救いたいって強い気持ちだったってことなんですよね。Qちゃん、許してあげてよ」


「ほんま堪忍してくれ。さっきまで善財童子さんにもお灸据えられとったんや。もう勘弁や」


「あ、うん」。樹と春は小さく頷いた。


「タヌキさんには、修行を急かし過ぎた責任が僕にもある。本当にごめんね。目が覚めたあと、大事にならないようにしておくから」。善財童子は、子供達にも謙虚に座り直して頭を下げた。


「あ、あの」「なんだいQちゃん」「そしたら骸骨も成仏したん?」


「あ、そうだね。母子と行き会わないように時間をずらしたんだ。もう来るよ。ほら……」。善財童子が指差すと、虚空から男が降ってきた。川の中ほどに男は落ち、大きな水柱が立った。


「ドボーン」。こちらから見ると、清らかな浅いせせらぎだが、男は足がつかず、また速い流れに押し流されて、半ば溺れるようにして、ようやく向こう岸についた。


「げ、げえ、げえ」。男は水を吐き、這いつくばっていたが、迎えに来ていた何人かの人影に抱えられるようにして立たされて、歩き出した。それらを指揮していたであろう一つの人影が、こちらに手を上げ深く頭を下げた。善財童子が、立ち上がってそれに応える。


「あの骸骨のもともとの守護霊さ。もうどうしようもなくなって長い間、なんの手立てもなかった。あの守護霊が役目に区切りをつけられたのはQちゃんやタヌキさんのおかげなんだ」。善財童子は、樹に温かい眼差しを向けながら座った。樹は俯いたまま小さく頷いた。


「…ぅぅ…、クスン」。樹は、固く身を縮こまらせて、声を押し殺して泣き出した。春は沈んだ表情をしながら、樹の背中を撫でた。


「お、おい、Qちゃん、どないしたんや」。タヌキも身を寄せ、樹の両肩を抱き、顔を上げさせた。


「ぼ、僕のせいなん?二人死んだん……、僕が、ひ、歪作ったから……」。樹は、タヌキの足元で泣き出した。


「Qちゃん、こんなことにまでなるなんて、誰もが追いつけなかったんだよ。そんなに自分を責めないでよ」。善財童子も樹の髪を撫でた。


「誰も?誰もって?」。樹は食って掛かるように聞き返した。


「病院の医者や看護婦、母子や彼らの周りの人たち、お祖母様やご近所衆、それぞれに関わる霊、土地の神々までね」


「ぼ、僕にはあかんとか言うくせに……、僕には罰も当てるくせに……、みんなは『誰も追いつけなかったんだ』でしゃーないんや!」。珍しく樹が早口で大きな声を出した。


 樹は小石を地面に投げつけた。


「わしは、お前の守護霊として、ずっと側におらなあかなんだ。教室にあの子が迷い込んだ時も、それとのう連れ出したり、先生の目がお前にいかんようにしたり……とかな」


 樹は、また小石を投げた。やり場のない気持ちがそうさせていた。


 生まれてこれまでの様々なおかしなことの答えが目の前に突き付けられたような気がしていた。今回のように誰かに命じられ、結果罰を受けたり、変な目で見られたりして、役に立っても怪我をしたり、あとでいじめられたりの繰り返しだったように思われた。強い理不尽さのようなものを感じて、樹はもう一つ石を投げた。


「……なんもええことないわ……、なんにもやりたないわ!」。樹はその場で尻をついてぐったりしてしまった。春は黙って、樹の膝や体についた砂粒を払い落としてやった。


「前の話の続きの……、君たちのことはまた今度話そう。ね。それと……」。善財童子は、続きの言葉を子供向きにしようと、少し思案した。


「今回もそうだろうけど、本当は『罰』じゃなくて、色々なめぐり合わせが起きる時だってこともよくあるんだよ」


 この説明でも樹や春には難しかったようだが、樹は


「めぐり合わせが起きる時?」と、俯いたまま聞き返した。


「うん、学校の机って一旦上を片付けないと給食を載せられないよね。次のものが載る順番もあるのさ。悪くなりすぎないよう手を差し伸べるのも守護霊の役割。今回のタヌキさんは、Qちゃんから長く目を離しすぎたし、岐阜の葬式では、出来事が突飛すぎて、タヌキさんも含めて、誰も何もできなかったんだ」


「…えっ、えっと…」。樹は、説明を掴みあぐねている。


「もし幽霊の子に坊やが気づかないままだったり、来たのが放課後や運動場だったら…、もし坊やがあの男を待ち構えて力を加減して『バーン』してたら…、変わっただろ?」


「あ、うん…、びっくりして、思っ切し(おもいきり)してもた…」。樹は、以前父の足に憑いていた「いかさま」や315号室で10人の霊を「そっと・じわじわと」成仏させたことを思い出した。


 春は黙って樹の傍らに膝をつき右腕を握った。春の手はひんやりと冷たく濡れている。無意識に樹は、春の方を向く。春の全身はぐっしょりと濡れ、雫が滴っている。


「あれ?なんで?」。春は俯いたまま何も言わない。


「な、なんや、あそこの石に座っとったんちゃうんか。川入ったんか」。タヌキは少しうろたえた。自分が説教を受けている間に何があったのか。


「春ちゃん、君は坊やと一緒に川に入ったの。それとも……」。善財童子の言葉の先が、樹は分からないようだったが、タヌキは腰を抜かさんばかりに驚いた。


「そ、そ、それてどういうこってんねん。まさかこの子ぉがQちゃんを殺そて思て連れていった……」


「ううん」。春は、強く首を横に振った。


「いつきがかわのなかにいたの。がっこうにきてすぐも、たたされてたときも、びょういんでも」。善財童子は頭を巡らせた。「川を渡る」中間にいたとはどういうことか。樹を見つめる。樹は少し考えて、はっと気づいた顔をした。


「僕…、それ全部…、ぼーっとしてたわ」


「さんすうもこくごもしゃかいも、うけたのはわたし。きょうしつで、たっていたのもわたし」。春は登校してから午前中のほとんどの時間、たびたび樹と入れ替わっては樹の体を動かして授業を受けていた。春は続けて、


「びょういんでさきにねたのはいつき。わたしも、とってもつかれているの」。それは市民病院で瀞が聞いた言葉だった。


「わたしも、かわの、いつきとおなじところにきたの……。おなじところ。なのに……、あしがつかなかったの」


 春の思いつめた顔から涙がこぼれた。三人は絶句した。春にそんなことが起きていたとは。


 川は、渡る人それぞれにとって相応の深さ・勢い・濁りに変化する。学校で自分が受けた罰に打ちひしがれて深く気持ちを落とした樹と比べてもなお罪深いと川が応えているように、春は感じていた。


「わたしは、わるいこ…」。春は声を詰まらせ、樹にしがみつき、声を抑えて泣いた。春は、これまで掲げてきた「いいこになる・なりたい私」が、厳しく著しく否定されたように感じて打ちひしがれた。タヌキはおろおろし、かける言葉を失っている。善財童子は、二人の傍らに膝をつき背中を優しく撫でた。


「春ちゃん、つらい思いをしていたんだね」


「僕の代わりもしんどいのん?」「ううん」「どういうこと?」


「いつきがずっとぜんぶまかせてくれたらいい。いいこになれる」「ええ?」


「ときどきだから、あわてるし、うまくいかない。いつきはずっとつかれているもの。もっとやすん…」


「春ちゃん」。善財童子が春の言葉を制した。


「春ちゃん、違うよね。この体は坊やのもの、うまくいってもいかなくても坊やがやらなくちゃいけない」


「いつきがさみしくなる、しかられる」


「それは坊やが乗り越えなくっちゃいけないんだ」。善財童子は、あくまで優しく、しかし毅然として話した。


 沈黙が続いた。日差しはあくまで柔らかく四人を照らし、濡れた春を暖め、髪や服を乾かしていった。時折吹く穏やかな風も微かに菜の花を揺らせ、せせらぎの音もさわさわと続いていた。


 やがて、樹は立ち上がった。涙を拭き、膝の砂を払い、春に手を差し伸べて立たせた。


「もう…、いく。春ちゃん、行こ」。樹は、右手で春と手を繋ぎ、歩き出した。


「坊や!」


 樹は、さらにしばらく歩を進めて立ち止まり、振り向いた。


「もうええねん!わからへんもん!叱られても…いじめられても、僕、僕のままがええわ!」。樹は大きな声ではっきり言った。同時に春の手を握り、自分に引き寄せた。


「春ちゃんは、これからも、僕と一緒にいてもらうわ!」。善財童子は、「それは無理な…」と諭そうと口を開いた。


「また、あかんて言うんやろ!僕は僕のまま!春ちゃんは春ちゃんのまま!『うまくいってもいかなくても』僕が決めたから!それでええねん!」。樹は自分を振り絞って言った。自分の決断の言葉に自らが恐れ、不安をいっぱいに募らせながら。


「いこ」。樹は、春の手を強くひっぱり歩き出した。驚くほど軽く春はついてくる。その軽さに一瞬樹はひるんだ。だが、春はもう自分と同じ勢いで小走りについてきている。『お祭りの夢と同じだね』と、二人は顔を見合わせて、泣き顔で笑った。


「お、おいおい、どこ、どこいくねやーー」と、タヌキが慌てて追いかけてくる。樹と春は、少し振り向くと、嬉しそうに笑った。タヌキが、自分達を引き止めず、付いてきてくれることが嬉しかった。そして、笑いながら速度をあげた。タヌキは、善財童子にぺこぺこしながら、二人を追って走っていった。


 善財童子は、ほんの少し呆れたような顔をしたが、やがて、最初に樹たちに出会った時のような慈しみのある笑顔を浮かべると、


「よし」と小さく頷いて、彼らを追って走り出した。


 菜の花の河原は、最初と変わらず穏やかな風が吹いている。河原の砂地には二人が駆け抜けた足跡が残っていた。以前「的」にして遊んでいた「ムライ」を踏み越えて足跡が続いていた。

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