第17話 袈裟懸けの傷

●教室の事件

 樹は、春にプリントを解答してもらいながら、タヌキが少しおどけて見せたことを思い出していた。もちろん「ひろしの幽霊が来たけど気にすな」という意味だろう。だが、なぜひろしが死んだのか?なぜそのあとタヌキは戻ってこないのか。ひろしにも以前の豊坊ちゃんのようにやりたいこと言いたいことがあるのかも知れない。


「でも頼まれてへんし、礼もせえへんに決まってるわ」と、思わず樹はつぶやいた。


「どういうこと?誰も頼みません!プリントは勉強のためにするんです!お礼せんと解かへんねやったら、していりません!後ろに立っときなさい!」。教師は、また樹の様子を見にそばに来ていた。プリントを取り上げると、樹の手を引っ張り、教室の後ろに立たせ、しばらくそうしているよう厳しく言い渡した。泣き出した樹を数人の生徒が振り返り、あるものは馬鹿にした笑い顔を見せ、あるものは眉をひそめた。


 樹の席に残った春は心配げに樹を見ていたが、やがてとことこと樹の傍らに寄り添い手を繋いだ。カタンと樹の椅子がずれて、わずかな軽い足音が移動したのを合子は無意識に目で追っていた。


 樹は、繋いだ春の手の平を撫でながら小さな小さな声で呟いた。


「話聞いてくれるもんがおったら成仏して次に行ける……、でも、あいつずっと僕にいやなこと言うたりするやん。そんな奴助ける道理ないやんな……」


「うん、いまはべんきょうしよう。せんせいにあやまってぷりんとしよう」


「うん……、え、でも、説明でけへん……」「あ」。二人は黙ってしまった。わかってもらえそうにない野洲ひろしの出現や樹の幽霊を消してしまう「バーン」の力、タヌキから言われたこと。どれもが日常から遠く、テレビや劇場で見たお話のように思えた。それは教室の中、学校の中ではなんの意味もない無価値な使い道のないものに感じられ、樹は気持ちを沈ませていった。


 チャイムが鳴る。担任は出てゆき、生徒達は四時間目の体育のために体操着に着替え始めた。数人がからかいに来る。


「お前はここで立っとれよ」


 生徒達は次々と出ていった。教室がしんとするのと対象に運動場に楽し気な声が聞こえ始めた。樹にとって、懐かしい、よく知っている孤独があたりを包んでいく。


「いつき、ちゃんとたっていよう。いつき」。本当は軽い立ち眩みだったかも知れない。だが、樹はずんっと後ろに引かれるように、また、目の前の教室の様子が遠く簡単な色分けで描かれた景色のようになっていく。体が前後に揺らぐ。頭が下がり徐々に力が入らなくなっていた。再び樹は、ぼーっとした感覚にうずくまるように落ち込んでいった。


 樹の体が右膝からがくりと崩れ、倒れる寸前、春が入れ替わるように体のバランスをとった。シンとした教室で、まるで片足で一歩だけダンスのサイドステップをしたようになった。春がホッとした表情で姿勢を正した瞬間、教室の扉をガラッと開けて、野洲母子が駆け込んできた。大柄で足の覚束ない母をひろしが支えている。


「あ、おまえなんで立たされてるねん」「え、ええと……」と春は返事に窮した。


「どうでもええわ。俺らにすぐ『バーン』ちゅうのして成仏さしてくれ!。タヌキのおっちゃんちゅう人にそう言えって言われてきたんや」。ひろしが早口で言う。母親も


「早うしてもらわんと、骸骨みたいなもんが追いかけてきて食われてしまうて……」。二人が樹の体にしがみついた。春は目をつむって手の平を二人の背中に当てた。


「えい」。だが、何も起こらない。二度、三度繰り返す。が、やはり何も起こらなかった。


「何してんねん!」と、ひろしが悲鳴に似た大声を出す。ひろしがまた声を上げようとした時、廊下側から低い小さな振動が教室中に伝わってきた。


 振動に続いて、酸化した油のような匂いが教室にたちこめてくる。


 しがみついていた二人が振り返ると、廊下や教室の細かな汚れが浮き上がり、白骨化した亡霊が、薄汚れた骸骨となって形を見せ始めている。


「こ…ん…なと…ろに、…逃がすかぁ」


 亡霊は、激しい勢いで三人に突進してきた。


「ぎゃふ」。樹の体は突き飛ばされ、教室の奥隅の掃除用具入れの角に強く背中を打ち付けた。そのまま窓際の壁に飛ばされると、春は、壁に寄りかかりながらなんとか体を起こした。野洲親子もよろよろと樹の体に手を伸ばし、再びすがりついた。


「いつき、いつき!いつきぃー」。春は声の限り叫んでいた。


「はっ!」。樹は、自転車を全力で漕ぎながら覚醒めた時以上の衝撃で体に戻ってきた。背中と体のあちこちに強い痛みが走っている。心臓がばくんばくんと音を立てている。目の前にはひろしとその母親の幽霊が泣きながら自分にしがみついている。そして、数メートル向こうに青白くぼんやり光る埃の塊のような薄汚れた骸骨が、樹の顔面に膝蹴りを打ち込もうとしていた、


「うっ!うああああああ!」


「いつき、バーン!」


 春の声に樹は反射的に反応した。



●黒い塊

 体育の授業が始まった時、教師は運動場に整列した生徒達を前にして笛で号令を出そうとしていた。


「先生」と、吉也合子が手を挙げる。「堺屋くん、教室で立ったままです」


 それを言われて、教師は、樹を置き去りにしていたことを初めて思い出した。しかし、忘れていたことを生徒たちに気づかれないよう、あえて毅然とした態度は崩さずに言った。


「よ、呼んできて頂戴」「はい」。合子は、返事と同時に走り出した。教師は、流石に一人で行かせるのは無責任で、また、もし樹が自分の指示でない限り教室から出ないなどと言い出しては、他の教師たちも顔を出して面倒になると思ったのか、自分も走り出した。


 廊下を走る二人は、子供の「ぎゃふ」という声と、ドンと何かがぶつかる音を聞いた。


 二人が教室に入ると、倒れた樹が窓際の壁に寄り掛かりながら、よろよろと立ち上がるところだった。そこに黒い何かの塊が、樹に突っ込んでいこうとしている。


「堺屋!」「堺屋君」「いつき、いつき!いつきぃー」


 次の瞬間、


「バーーン」という強い爆発音と共に、三人の霊体が閃光とともに消滅し、教室と廊下の窓ガラスが吹き飛んで割れた。辺りに空気が焦げる香ばしい臭いが立ち込める。担任教師と合子は爆発の勢いに巻き込まれ倒れていた。樹も窓の下の壁にうずくまるようにしゃがみこんでいる。


 すぐ他教室の教師や生徒が駆け付け、学校中が大騒ぎになった。




〇ドジャースの激高

 運動場に二台のパトカーが停まっている。四時間目以降の授業は中止され、生徒は一斉に下校させられようとしている。


「すると、何者かがこちらの児童に向かって飛び掛かって行くのを見たと…」。歴代校長や校舎を空撮した写真がずらりと並べられた会議室では、山下刑事が樹のクラス担任の教師に聞き取りをしている。校長、教頭、学年主任らが立ち会う中、会議室の少し離れたところに、瀞とさと子、そしてなぜかドジャースが樹に寄り添うように座っている。合子は姉と共に座っている。救急車が来るまでの間という約束で山下が事情を聴いているのだ。


「はい、その女生徒と一緒に見ました。間違いありません」


「その何者かは、どないしたんですかなぁ」。山下のカラスのような視線が教師の表情を観察している。が、老女性教師は、毅然とした態度を変えずにいた。


「わかりません。爆発に紛れて逃げたのと違いますか」


「まぁ、その辺りはまたおいおい目撃した話が出ますやろなぁ。この学校も生徒さんだけで1500人、先生方も含めたら見つからんわけがおまへんわ。ひとまず先生も病院で怪我あらへんかよう診てもろて下さい」。山下は、無意識に含みを持たせた話し方をしながらもお辞儀をしながら立ち上がり、そのまま樹らの方を振り向いた。


「こりゃ堺屋さん、お宅のボクでしたか。そっちのジェームスディーンはどなたでんねん」


「今日、近所で冷蔵庫の納品ありまして、問屋の若い人に手伝うてもろてたんですわ」。瀞は会釈をしながら説明し、ドジャースはペコリと頭を下げた。


「ほうでっか。ボクおっちゃんのこと覚えてるやろ。警察のおっちゃんや。何あったか聞かしてくれるか」


 山下が教師と話している間、樹は瀞に「『バーン』したんか」と聞かれて頷いていた。瀞は「そうか…、とぼけとき」と囁いていた。山下は安井の一件である程度事情は聴いてくれるかもしれないが、事件のごたごたにこれ以上我が子が巻き込まれるのはごめんだった。樹は、その会話の前後に春からも「わからない、にしよう」と、いつもの生徒達から何か聞かれた時と同じ対処を言われていた。


「ええと、ようわからへん」


「教室で一人で何しとってん」と、山下が言う。


「……前の時間から、立たされてました……」樹は、俯いて情けなさそうに、また、恥ずかしそうに答えた。


「え?他の生徒は体育やっとんのやろ。えらい厳しい罰やなぁ」。山下は教師に聞えよがしな言い方をした。が、『罰』という言葉は、樹にもつらく響いた。ぽろぽろと涙が頬を伝った。


「こ、今度は何があかんことやったんかわからへん」と、罰について樹は小さく呟いた。


「ええ?こりゃどういうこっちゃ、ねえ?センセ」。山下は樹が呟いた意味とは取り違えて、教師に矛を向けた。


「授業中にプリントをせんと騒がしかったので立たせました。それだけです」


「ふぅん、お嬢ちゃんは同じクラスでんな。なんで教室におりましてん」


「あ、あの、体育の時間になってみんなで並んだけど、堺屋君いぃひんから、先生に『堺屋くん、教室で立ったままです』って言うたら、『呼んできて頂戴』って先生に言われて呼びに行きました」


「へぇ。立たせとこうとは思てはらへんかったっちゅうことですか?それと『呼んできて頂戴』て頼んだのに自分も来たのはなんでですねん」。つい刑事らしい推理が働いている。それともそう考えるように何かの力が働いているのかも知れなかった。


「そ、それは……、ちょっと忘れてて、迎えに行かせても素直に運動場にでてけえへんかったら……、ほかの先生にも聞こえて……」。教師の口調が毅然さから言い訳に変わった。山下は、余計なものを嗅ぎ当てたという風に顔をしかめた。


「まあまあ、警察は事件か事故かが仕事やさかい、教育はそちらでうまく……」となだめかけた時、ドジャースが帽子のつばを掴むと、立ち上がって勢いよく会議机に叩きつけ、大声で英語で捲し立てた。机を押しのけ、教師に詰め寄ろうとするところを瀞と山下に押し留められるほど激高したのだ。


「まあまあまあまあ、なんやわからんがおまはんが出てくる場面ちゃうやろ。こ、この兄ちゃん日本語伝わりまっか」と山下が言った時、ドアが開いた。片岡巡査が入ってきた。


「山下さん、救急車一台到着しました。あっ」。片岡も揉み合う山下に加勢しようとする。


「大丈夫や大丈夫や。ほ、ほな、パトカーも二台ありまっさかい三台に分乗して病院いってもらいましょか。な、兄ちゃん、とりあえず怪我してへんか診てもらいにいこな」




●袈裟懸けの傷

 市民病院にパトカーが停まっている。三人が診察を受けている間に、吉也合子の母親が到着していた。刑事から大まかな説明を受け、母親も診察室に入っていった。


 診察の結果、教師と合子は爆圧で倒れた時の軽微な擦り傷と打撲程度だった。幸い鼓膜などにも異常はなしとされた。樹のみ全身に打撲痕が認められた。まるで背中を袈裟懸けに切られたように斜めに内出血の筋がついている。教室の奥隅に作りつけられている掃除用具入れの角に打ち付けたと思われた。用具入れの扉の蝶番の後までがくっきりと残っていた。ぐったりとしている樹に、医師が尋ねる。


「どんなことあったか覚えてる?」


「え、ええと、よくわからへん、です。フ、フワッ……」。樹は、とぼけた返事を繰り返しながら、あくびをした。医師の目の前で赤ん坊のようにうとうとし始める。


「ボク、頭打ったり、痛いとかないか?」。医師の問いかけに、首を横に振りながら深い息をして、瞼が下がっていく。付き添っている瀞に、


「すごい眠たい……、タヌキさんとライオンさんに聞いとく…」と告げると、父にもたれかかるように眠ってしまった。


「タヌキさんとライオンさん?う〜ん、ちょっとした脳震盪かも知れませんね。今日は念の為泊まってもらって……」と医師が困惑したような笑顔を見せて言いかけた時、再び樹が目を開き、瀞を見上げて言った。


「おとうさん、とってもつかれているの……」


 そのまま、樹はふにゃりと眠りに落ちた。瀞は、樹の言葉に違和感を覚えた。今聞いたものは、妻千鶴子に聞いた「春ちゃんの言葉遣い」だろうか。「すごいしんどい」は、樹らしい言葉遣いだった。それを「とってもつかれている」と言い直した。あれは、春が疲れていると伝えたということか。


 瀞がこうした考えを巡らせている様子を、子供の体調を案じていると感じたのか、医師のそばに立っていた看護婦が、


「部屋にお連れしますね」と、樹を抱きかかえた。


「あら、軽い…、あ、失礼しました」。瀞は医師に会釈すると看護婦の後に続いた。



●聞き込み

 廊下には、ドジャースと山下が待っていた。お互いに話すこともなく黙っていたが、やがて、山下が口を開いた。


「兄ちゃん、さっきなんであんなに怒ってたんや」。ドジャースは、病院に向かう車内で落ち着きを取り戻すと、山下らが警察であることを知り、少なからずそのことに警戒心を持っていた。ベトナム戦争で負傷し日本に送られた時、脱走同然で軍を除隊し、軍関係者の取り成しであやふやな身分のまま働いている。日本の警察に目をつけられては面倒だ。


「ソーリー、ボクはちょっと冷静じゃなかったよ。でも、Qちゃんは大切な友達なんダ。友達を守らない奴はいないだろう?友達を馬鹿にする奴は許せないだろう?」。ドジャースはつとめて落ち着いて話した。


「友達?へぇ、問屋の店員さんやろ?長い付き合いかいな?」


「問屋の店員サ。Qちゃんは、アメリカ人にも優しい。だから、堺屋サンが納品にも呼んでくれる」


「ふぅん…。日本は長いんかいな」


「二年…かな」。ドジャースは追及されていると感じた。それは刑事と話しているからという先入観もあったかも知れない。


「ニ年にしたら日本語上手やでぇ。わしなんか…」と言ったところで、看護婦に抱かれた樹が出て来た。


 山下は、入れ代わりに診察室に入った。先に口を開いたのは医師だった。


「どんな現場だったんですか?」


「そ、そらぁ…、小学校の教室に、何者かが侵入してですなぁ、あのボクを突き飛ばして、何かをドカンと…、ちゃいまっか?」


「そうですよねぇ」。医師は首を傾げて俯いている。


「なんです?思たまま言うてみてください」


「男の子は、投げ飛ばされるか、突き飛ばされて、あちこち打ちつけてます。その上で窓ガラスが吹き飛ぶほどの爆発なのに、いわゆる爆傷がない。ないんです」


「爆傷…、鼓膜や肺がやられたり、破片で怪我するやつでんな」


「ええ、一切ありません。一体何が爆発したんですか」


「そ…それは、今頃鑑識が…。けど、たまたままんよう(偶然に運良く)爆圧を免れる隙間におったら…」


「まあ教室にそんな分厚い壁がありますかね。考えにくいことですが、爆圧が窓の高さで水平に伝わるか……」


「まだおます?」


「爆発の中心か……」


 まあそれはないわな、二人はそんな顔をした。

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