第16話 6月10日 木曜日

●6月10日 木曜日

 朝食を食べながら、樹は夢の話をした。いつになく父、瀞は真剣に聞いてくれた。


「八字文殊の最極秘法なぁ。文殊菩薩の秘法ゆうことか」


「うん、オンアクビラ…、えっとなんやったっけ」。樹はしばらく考え、傍らにいる春に尋ねる。


「いんけいはだいしょうじんのいんだね」


「そうそう、お父さん、こんな手するねんで」。樹は、大精進の印契をしてみせた。瀞は樹が時代劇の一場面を真似しているように思えて、つい笑いそうになった。


「ほんで、円盤に字ぃかいて屋根裏にあげとくねんて」。樹は、いつになく春の検索が進まないため自分がぼんやりと覚えている範囲で話し続けた。


「 ふぅん、幣芯や扇子車みたいなもんか…、そんなんで効いたらいうことあらへんけどなぁ」と瀞は、箸を止めた。隣に千鶴子が座る。


「Qちゃんに、そんなんのお守りでも持っててほしいわ。あ、もうそろそろ出掛けや」「ごちそうさまあ」。さと子が先に立ってランドセルを背負う。樹も残りを口に詰め込んで立ち上がった。


「傘持っていきや。降るかも知れんで」「はあい」



●可愛らしい文字

 樹が教室に入ると、すでに登校した男子生徒らが野球の話をしている。「近鉄三連敗」「阪急十三連勝」という言葉が聞こえる。樹には何のことかわからなかった。この年、阪急ブレーブスは開幕から好調で、6月8日からの対近鉄三連戦を下し、6月10日の時点で十三連勝を続けていた。樹は、春と出会ってから彼らの話の輪には入らないようにしていたが、それにも増してひき弾かれるような気持ちがわいていた。


「あ、そや。ラジオ…」と樹は、ラジオが安井のもとにいってしまったことを思い出した。セ・リーグでは長嶋がホームランを打ったらしい。


 樹の中に、トーストの上のバターが溶けて広がりながらパンに沁み込むように、寂しいような悲しいような気持ちが、しんと腹の周りに広がった。男子生徒らの話し声や教室のざわざわとした物音が遠ざかり、目の前に広がる教室の景色も遠ざかっていく。樹は、そのままぼーっとした感覚にゆるゆると落ちていった。以前は、しばしばこのような状態になっていたが、春とのやり取りができるようになってからは治まっていたことだった。


「いつき、いつき」と春が呼びかける。だが、樹は心の中でうずくまるようになっている。チャイムがなり、担任教師が入ってきた。「起立」と号令が聞こえる。


 春は、樹の体で慌てて立ち上がった。号令に合わせて礼をし、着席した。


 一時間目の算数が始まる。前もって春は教科書とノート、筆箱を出し、鉛筆を右手に持った。黒板に書かれた式や絵を丹念に書き写していく。


 左隣の席の女子生徒・吉也合子が、樹のいつもと違う様子に気づいた。ノートを覆うように書いていく左利き特有のいつもの手の動きではなく、右手で手元をじっと見つめて書いている。


 合子は、教師に当てられて黒板に解答を書いて戻る時、それとなく樹のノートを見た。いつもの雑な金釘流ではなく、どちらかというと可愛らしい文字が並んでいた。


 二時間目。今度は樹が当てられて、教科書を読まされていた。


「いなばのしろうさぎ…」


 いつもと違う話し方に、今度は複数の生徒が違和感を感じた。美しい標準語の抑揚で、じっと教科書から目をそらさず一心に朗読している。読み終えて座る時の仕草もどことなく違っていた。


 樹は、自分の体が立ち上がり朗読を終えて座ったところで、我に返った。右手に持っていた鉛筆を左に持ち換える。徐々に教師の声が近くに戻ってきた。「あ、ぼーっとしてた…」と呟き、周りを見ると、合子と目が合った。



 休み時間、樹は自分の席で顔を両手で覆うようにして居眠りでもしているようにじっとしていた。


「ぼくずっと、ぼーっとしてたん」「うん、さんすうとこくご」「そんなに……」。樹自身は、ぼーっとすること自体には、快も不快もなかったが、最近なかっただけに、また長時間だったことも少し整理がつかなかった。


「すごい……、春ちゃんノートしてくれたん……」「うん」


「……ありがとう」「いつきつかれてる。むりしないで」「うん……」。樹は、のろのろとランドセルを開けて次の社会の教科書を出し、国語をしまった。


「堺屋、どうしたの」。年老いた担任教師がすぐそばに来ていた。春に「いつきいつき」と言われて、樹は担任に気づいた。


「うわ、え、なんて……」「さかいやどうしたって」「あ、なんでもないです」。首をかしげながら担任教師はいってしまった。


 樹は、教科書をパラパラとめくった。井上と予習をしたところが出てきた。


「よいこでいたらごほうびがもらえるかもだね」と、春の声がする。


「えっ?ご褒美?」「おべんきょうしたところ」。樹は口元を隠して周りを伺いながら小さく頷いた。



●野洲ひろし

「あ」。休み時間のざわめきの中、樹が何気なく顔をあげると、教室の中央よりの席に野洲ひろしが座っている。一時間目から自分はボーッとしていたが、また学校に通いだしたのだろう。ひろしはいつもの仲間のもとへと立ち上がった。樹は関わらないように、教科書をパラパラとめくりだした。


 休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。生徒達は慌ただしく席に着く。ひろしら男子生徒もバラバラと席に散っていく。ひろしも席につこうとしたが、先程の席には他の生徒が座ってしまった。ひろしは、慌てて他の空席を探す。見つけた席に辿り着こうとした時、


「ふー」と、トイレから駆け戻ってきたらしき別の男子生徒がそこに座った。


「おい、俺の席ちゃうんか!」とひろしは、不安気な大声を上げて、他の生徒の机を叩いたり、教室中を駆け回った。だが、ひろしに気づくものはいなかった。


「堺屋、キョロキョロしない!」と担任教師が、樹を注意した。クスクスと笑い声が聞こえる。樹はビクリと震えると、教科書を読む姿勢になり、目を合わせないようにしてそのまま固まった。


 注意を受けた樹をひろしが見ている。


 樹は震えが止まらない。


 ひろし死んだんや!


 ひろし死んだんや!


 ひろし死んだんや!


 果てしなくその言葉が頭の中で連呼された。


 何分かたった頃、


「いつき、いつき」。傍らの春に肩を揺さぶられて、樹は我に返った。


「あのこ、でていったよ」。樹の耳には、教師の声と、時折生徒が手を上げる声が聞こえだした。それでも樹は、震えが収まらなかった。あれは野洲ひろしの幽霊だ。幽霊が怖いわけではない。急に学校に来なくなったこと、担任がきつい調子で「お母さんが入院されていて、野州はお祖母さんのところにいます」と告げたこと、何より本人が死んだことにまだ気づいてなさそうなこと…


 繋ぎ合わせたことがらが、ひろしが、どこかで死んだと示しているからだ。



 ひろしは所在無げに廊下の壁に持たれていた。



●授業中の廊下

「おまえ、ちょっと前に病院で見かけた子ぉやな」。シンとした廊下で、タヌキは5メートルほど距離を空けて話しかけた。ひろしはぎょっとしてタヌキを見る。


「よ、用務員のおっちゃんか?ぼ、僕のことわかるん?」


「そやな、そんなもんや…、おまえ…」と、タヌキは言葉を続けようとしたが、それはひろしの泣き声でかき消された。


「う、うわーん、だ、誰も知らん顔するねん!婆ちゃんも父ちゃんも…、と、父ちゃん!う!?うあ!」。ひろしは、次の瞬間体をこわばらせると、どこかに引き戻されるように消えた。


「…ムライが憑依元に引き戻されたんと同じやな…」


 タヌキは何か言いようのないやりきれなさを感じた。


「そや、Q…」。タヌキは扉のガラス窓越しに、教室を覗き込んだ。樹は明らかに席でそわそわしていた。先程のひろしの大きな泣き声が聞こえていたようだ。席を立ち上がろうとする樹の背中を全身を使って抑えようとする春も見えていた。


「堺屋!」。再び教師の厳しい声がする。生徒たちの目が樹に集まった。そのすきを突くように、タヌキは教師のすぐ後ろに現れた。


「キョロキョロしない!今はプリントの…」と教師が厳しく言葉を続ける背後で、タヌキは少しおどけたような笑顔をしてみせた。


(大丈夫やで)いつも父がしてくれるサインのように思えて、樹はざわついた心が少し穏やかになった。体に入った力が抜け、春に少し頷くと、小さく「ごめんなさい」と言い、プリントに目を落とした。



●ひろし、母、父親

 岐阜県のとある山村では、一軒の母屋に喪服を着た親戚衆が出入りしていた。


「実家に戻った矢先に嫁と孫に首吊りされりゃ、婆様も寝込むわのぅ…」と、土間でひそひそ話し声がしている。その背後にタヌキが立っていた。表沙汰にしたくないのか、焼香客はわずかで、空の座布団が目立っている。読経を上げる僧侶の脇に、死んだ野洲母子の夫が座っていた。歯ぎしりをするように、独り言を繰るように、口元が動いている。どこか一点を見据えたようなきつい視線は、わずかに泳いでいるようでもあった。その肩には、負ぶさるように白骨化した亡霊が憑りついていた。


 タヌキが振り向くと、土間の一番隅にひろしが母親と手を繋いでうずくまっていた。母親も混乱が収まらないようだが、息子に手を繋がれてようやく少し落ち着きを取り戻したようだ。首のあたりが紫色に腫れ上がり、首の骨が折れているのか右に首を傾げたようになっている。


 タヌキの姿に気付いたひろしは、小声で母に何かを告げた。母は、小さくタヌキに会釈しながら、おどおどとしゃべりだした。


「…万博の後仕事がのうなってから、気ぃ荒ぅなってしもて、うちやひろしを平気で殴ったり蹴ったり…。ある日背中を強う蹴られてから、体中が痛うて痛うて」


 ひろしが続ける。


「け、怪我はお父ちゃんのせいなんや、お父ちゃんに蹴られてから、黒いおしっこ出るようなって。立たれへんくらい痛い痛いて、ほんで入院してん」。ひろしの咽ぶような声が、土間に響いた。


「なんか大変やってんのう」


「お父ちゃん見舞いにも来ててんけど、じきに『退院や、こんなもん寝てたら治る、入院も薬も金の無駄や!』とか急に大声で言うようになってん」


 タヌキは、身体をこわばらせた。それはムライと共に315号室にいて看護婦についていった霊がひろしの母、そしてひろしの父に憑りついて酷くなったのではないか。


「真っ黒なおしっこ、腎臓損傷やとかでやっと市民病院に入院させてもろたら…、なんや急にもっと人が変わったようにひどうなってしもて、わずかな金のことで怒り出して、むりやり退院させられましてん…」


「せ、せやねん。お母ちゃんの足もうまともに動かへんようなってんのに…、岐阜の婆ちゃんとこ引っ越し…、岐阜の婆ちゃんとこ、すごい田舎やねん。お母ちゃん立ったらあかんのに、家のことせえって、けど、ちゃんとでけへん。ほんだらまたお父ちゃんが蹴るんや…、ああああ」。ひろしはガタガタ震えながらその場に泣き崩れた。


 これも、善財童子の言っていた「歪み」の一つなのか。タヌキは、やりきれないものを感じた。この母子は殺害されたあとでも心の底には父への愛情や恐怖が残り、離れがたくなっているようだ。一方で父親は、白骨化した亡霊にすっかり憑りつかれてしまっている。


「なんぼ謝っても堪忍してくれいで、『死んで詫び入れろ』て無理やり…、ううう、こ、この子も…、あん人は鬼ですぅ…」。母子はその場で泣き崩れた。タヌキも膝をつき二人の背中に手を触れた。


「ほんまに酷い目におうたな。さっさと成仏して生まれ変わってしまうんや」。タヌキは少し霊格があがったものの、いわば樹のような武器があるわけではなかった。先日もムライに頭から食われかけたほどだ。この場の二人がこのまま妄念を強張らせる前になんとか成仏する気にさせようと焦っての言葉だった。


「そや!え、ええか!さっきまでおった教室に行け!」「ぇぇっ…」


「ここに囚われてたらいつかあの骸骨に食われて父親と一緒や!」。二人は身を寄せ合って震えている。


「学校いったら、Qに『タヌキのおっちゃんに言われた、二人ともバーンしてくれ』ちゅえ!」。二人はおろおろしている。


「で、でも教室にもう僕の席あれへんかってん」


「のうてもええわい、Qにとにかく二人共バーンしてもらえ」


 白骨化した亡霊がタヌキたちに気づき立ち上がった。


「どこもいかすかあーー!」。亡霊は野洲の父親の肩を思い切り蹴って、土間のタヌキに飛びかかって来た。


 父親はもんどりをうって後頭部から転がり、正面に並べた献花台をなぎ倒し、燭台、供物、遺影が将棋倒しに倒れた。

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