第15話 最極秘法

●札束

 タヌキは、夜のドヤ街の片隅にいた。古びた赤ちょうちんの影から、脇道の暗い所を覗いている。そこには、一人の幽霊が村井に押し倒されて、今にも食われようとしていた。だが、下顎のない口では上手く噛んだり呑み込むことができない。両手で足先から鷲掴みにし、強引に喉の奥に押し込んでいく。


 幽霊はもがき、叫び声を上げた。もちろん、道を行き交う人達には聞こえない。ただそれは、周囲に漂う霊達には届いて、タヌキのように遠巻きにしている霊がちらほら集まりだしていた。


「こりゃ、あかん。おまえら、さっさと逃げろ!」とタヌキは、大声を上げながら飛び出した。


 村井は、一瞬両手の動きを止め、タヌキを睨みつけた。タヌキは、もがく幽霊の腕を掴むと、村井の左手の甲を踏みつけ、一気に幽霊を引き抜いた。


「あぁ〜、死ぬかと思った」と幽霊が、思わず呟いた。


「死んでるやろ!」と、タヌキがつっこむ。


「えっ?」。幽霊は我に返ったように、周りを見渡した。自分や怪物にも、素知らぬ顔で行き過ぎる人達と、ぼんやり光るタヌキや、形もあやふやな遠巻きの幽霊達が目に入った。


「あ…、わしもう死んでたな」と幽霊は、忘れ物を思い出したような顔をした。


「そや、わかったらもう成仏せえ」とタヌキに促されると、その幽霊は、小さく何かを呟きながら、細かい光になりながら空に昇っていった。


 村井の姿は、醜い突起が無数にある分厚い皮袋のように見えた。ただ、全身のそこここには虚ろな顔や体の様々な部分が浮き上がり、蠢いている。それに村井自身の手足がついている。更に引き裂かれ無惨な顎と傷口が、皮袋の口のように開いている。そこから、またぼとぼとと村井の欲を象徴する物が実体になって溢れ落ちた。


 タヌキの威嚇に、村井は闇の中に後退りしていく。札束や大きな宝石がついた指輪が転がる路地をタヌキが更に追い詰めていった時、ふと後ろで、


「うわっ、なんやこれ」と、軽い足音が近づいてきた。いかにもチンピラ風の男が札と宝石を拾った。


「あ、おまえそんなもん拾うな!」とタヌキが大声を出すが、その男には聞こえない。


「うっほ!金に宝石!ついてるやんけ」といいながら、男は宝石を、ポケットにしまい、札束を数えだした。


 村井は闇に逃げていった。



 路地に落ちたままの物は、やがて病室の時と同じようにじゅくじゅくと消えていく。しかし札束は、チンピラに握られたままだった。


「ど、どういう理屈や…」。タヌキは、チンピラの後をつけた。



●鰻屋

 チンピラは、表通りに出ると鰻屋の暖簾をくぐった。


「おいでやす…」。年配の女将が、似つかわしくない客に訝しい目を向けた。


 チンピラは口の端で笑うと、女将の肩口をかすめるように奥の席に座り込んだ。


「鰻重の松や!今日一番の捌けや。二匹四段重ねにせえ!」と、勢いよく言う。


「へ、へぇ…、ほしたら、お値段も時間も掛かりますけど…」と女将は、半ば馬鹿にしたような、様子を窺うような顔で返した。


「はっ!なんぼや。あと肝焼いて、酒は冷やで持って来んかい!」と言うとチンピラは、札束をこれみよがしにテーブルに叩きつけると、ニ枚を抜き出して、女将に向かって投げつけた。札束は、ひらひらと通路に落ちる。


「…こんな…、罰当たりまっせ。ほなお預かりしときます」。女将は、背を向けると板場に注文を通して行ってしまった。


 タヌキは、チンピラの向かいの席に座り、改めて札を数える様子を眺めた。


「うわ、ほんまにほんまもんやな、けど、鰻ではしゃぐて…、まあ、ええけど」



 女将は一万円札を指で弾くと、そばにいた仲居に目配せした。仲居はにっちゃりと微笑みを返した。



 仲居が突き出しと枡、お絞りを盆にのせ、やってきた。


「お客さんえらい景気よろしいなぁ、勢いのええお客さんに来てもうたら、お店も明るなってよろしいわ。冷やでっけど、コチラどうです?珍しい和歌山のお酒入りましてんけど、辛口でお口にあいますやろか、どないですぅ…」。チンピラは喜んでそれを注文した。


「あ〜、あ〜、もうぼられだしたがな」。タヌキは冷ややかな目で眺めている。



 鰻が焼き上がる頃には、チンピラも出来上がり、店を出る頃には、両手いっぱいに土産の折りを持たされていた。



●それ自体に我なく、故に我れなし

 チンピラは、その足で馴染みのキャバレーに繰り出した。呼び込みの両手に土産を持たせて、大声を張り上げた。


「はっは〜、さっさやかながら〜、お召し上がりをっちゅやっちゃ〜、はっはっはっはっは」


 一人のホステスが慌てて飛び出し、周りに頭を下げながらチンピラを端のボックス席に押し込んだ。


「よぉ〜香代」。チンピラは、でたらめに手を伸ばしながらも、抱きつこうとする。香代と呼ばれたホステスは、その手をかわすともう一度ボックス席に突き飛ばした。


「な、なにさらすんじゃこら」


「コラはこっちの方や、あんたこんだけのもん。ちゃんと自腹で買うてきたんやろな。またうちに迷惑かけたら、わかってるやろな!」。香代は激しく啖呵を切った。ホステスや客がそれぞれのボックス席から覗き込み始めた。


 その啖呵を意に介さず、チンピラは、香代の手を取ると席に自ら倒れ込んだ。


「香代、香代怒んなあ、わしもついてきたんや、な、結婚しよ、大事にしたるでえ」


「あほ、なに言うてんの!もうええ加減にして!」


「ほらほらほら、結婚指輪やでえ。幸せにしたるでぇ」とチンピラは、ムライの吐き出したものから拾っていた大きな宝石のついた指輪を取り出し、頭上に掲げてみせた。ホステス達が集まりだす。


「ひぇ…」。香代は一瞬輝きに目を奪われた。思わず手に取り、照明にかざす。それは血のように赤く濃く、ぬらぬらと透き通りつつ輝いていた。


「な、なんなんこれ!こんな気色悪いもん、『宝石ちゃう』わ!!」


 香代は、宝石を床に投げ捨てた。


「なんさらすんじゃ、わしがせっかく…」


「こんな毒々しいもん!『宝石ちゃう』わ!」。香代が叫んだ直後、赤い宝石はぐずぐずと形を崩し始め、泥に砂粒が沈むように跡形もなく消えていった。


「きゃー」。香代他数人のホステスが声を上げた。


「ど、ど、ど、どないなっとんねん。こ、こっちは間違いのう、札束や」。チンピラが内ポケットから取り出したものは、間違いなく、一万円札だった。店内が騒然とする。


「これも『本物やない』っちゅうんかい!」。チンピラが札束を光にかざした瞬間、それは泥になって、手やテーブルにボトボトと落ちていった。なんとも言えない異臭が広がる。うなぎを食った何人かも吐き戻したりしたが、それは間違いなく鰻だった。


 大騒ぎになるキャバレーの舞台に立ちずさんで、タヌキは、腕を組んでいた。


「なんやねん。ほんまもんの札や宝石になったんちゃうんか…」


「…田伏殿」。縫い取りのライオンが話し出した。


「おお、ライオンさん、あれどないなっとんねん。わしゃさっぱり…」


「恐らくあれらは、ムライの妄念の代物。本人の思いが形になりし物なれば、同じ思いで手にすれば形を保ち、それを拒めば即ち忽ちに形を失うのでありましょう」「あ、そら道理やな」


「万物は生まれし時より、我は我なり、我思う故に我ありと申します。彼の物は紛い物。それ自体に我なく、故に我れなしとなりましょう」。タヌキは、その言葉を無言で聞き、深く頷いた。


「…そ、そうか!」



●「ムライ」

 菜の花の川原では、樹と春が砂地に描いた的に、石を投げて遊んでいた。的は、スケッチブックに描いたものと同じ「ムライ」だった。絵の横に「ムライ」と書いて四角い枠も描いている。石が、絵の顔なら10点、手足なら2点といった調子だ。


 石投げは春の方が上手かった。最初は樹がハンデをつけて遠くから投げていたが的に届かず、同じ距離でいい勝負になっていた。


 遠くから樹達を呼ぶ声がする。ふと川の向こう岸を見ると、見知らぬ男達が樹に手を振って何かを言っている。それはよく聞き取れなかった。


「みんな感謝しとんねん。おまえらも手ぇ振ったったらどうや」。樹達が振り向くと、タヌキが立っていた。樹は言われるがままにそろそろと手を上げた。


「な、なんの人?」


「人数、数えてみぃ」。二人は端から指さして数えだした。


「…、七、八、九、十、十人や、あ、病院で『バーン』ってした人ら?」。樹と春は勢いよく手を振った。


 十人の更に向こうにも人影が見える。老人とその手を引く少女のようだ。彼らも胸の上辺りでこちらに手を振った。


「あの人らも見たことあるわ」。珍しく樹が記憶力を発揮した。


「しもみやのおじさんのときだね」。春の方が正確だ。


 タヌキは、少し大きな石に腰掛けた。


「あれなんや?上手いこと描けてるな」。タヌキが指差す。


「『ムライ』やで」と樹が小石を投げた。小石は的をかすめて転がった。


「こないしてカタカナにしたほうがええなぁ」「え?」


「人間離れしてきてんねや。世間一般の『村井さん』に悪いやろ」。タヌキは立ち上がって、昨夜の話をした。


「見た目もやけど、あいつが出した札束を拾ぅたアホがおってな。ムライが逃げても消えへんのや。こりゃえらいこっちゃで」


「拾たらどうなんの」と、樹が聞く。


「拾たアホは、鰻屋で散財しとったわ。当たり前に使えた、ほんまもんのお札っちゅうこっちゃけど、偽物は偽物。手はあるで」


 タヌキはそう言いながら近くにあった枝で、ムライの胴体らしき楕円に手足をつけ、頭部にふやけた竹輪のようなものを描いた。


「うぇ〜、また出てきたらどうしょう」。樹と春は、その絵から少し後ずさりした。


「田伏殿」。胸の獅子が遠慮がちに声をかけた。


「お、おう!びっくりした」


「わ、ライオンさんや」


「彼の者も只、貪食に耽るなら、更に異形に変ずるやも知れませぬ」


「そ、そうか、もともと自分が『人間』やてなことも忘れてもたら、どんなばけもんになっていくか…」


 樹と春は、首を傾げている。タヌキは自分の胸を軽く叩きながら、


「つ、つまりやなあ、体っちゅう入れもんがあったらええけど、あんなもんになってしもて、『自分は人間』やっちゅうことすら忘れてもたら、その時思うたもんに変わってまうかも知れんのや」と言った。


「その時思ったもん?」


「相手を怖がらす形とか…、攻撃しやすいとか…わしにもわからんわ」


「うぇ〜、怖いなぁ。けど、形変える前に、顎、治したらええのになぁ」「ほんとだね」。二人は震えながら頷きあった。


 タヌキは苦笑いすると、煙草を取り出し火をつけた。


 わずかな沈黙の後、春が何かを思い出し樹の袖を両手で引っ張った。


「いつき、いつき、『タヌキさんだより』のこと」と春が言う。


「なんのこと?」


「『みみなしほういちか、ぼたんどうろうみたいにまよけになるもんありませんか。あとでてくるときのじょうけんみたいなもん』っておとうさんいってたよ」


「そや、そんな話も出とったなぁ。けどわし、念仏なんかよう知らんぞ」


「ライオンさんは?」と、樹が訊く。


「これは難題、しばし沈思黙考…」と縫い取りの顔をしかめた。やがて、


「さて、我らが尊崇する文殊菩薩様は、知恵第一の菩薩にて、お力を得る法あれば、厄除、安産、病魔退散…」


「なんのこと?」


「お産とかやなぁ、なんか悪霊退散とかあらへんのかいな」


「さ、されば、天台の慈覚大師が修行の末、授かりし、八字文殊の最極秘法なるものがございます。魔障怪異の鎮宅法、天変地妖祓除、魔物降伏、怨敵和睦のために修されし、秘法でございます」


「へぇ」「へぇ」。樹と春はポカンと話に頷くだけだ。


「ほんで、どないしたらよろしいねん」。待ちきれない様子でタヌキが聞く。


オンアクウンキャシャラクの八字を真言となし、印契は大精進の印、鎮宅の法ともなりまする。六寸の檜の円盤の中央に文殊の種字を配し、八字を記し、護摩法にて加持の上、梁の上に置くのみで……」


「ちょ、ちょっと、ちょっと、わからん。インゲイてなんや」


「両の手や身振りにて、おすがりする御仏を表す印、『シルシ』にて即ち、内縛し二大指を並べ立て、少し屈する大精進の印…」


「ナイバク、ナイバクがわからんわ」。タヌキはもどかしく、行者が印を結ぶ時のように両手を動かして、でたらめに五指を曲げたり伸ばしたりする。樹と春も柏手を打って手を合わせたり、キリスト教徒がするように両手指を重ね合わせたりしてケラケラ笑っている。


「そ、それそれ、樹殿のそれが外縛にございます。内縛はそれぞれの指を手の平側に向け、外からは爪は見えぬ様になり…、それ親指が合い並びましょう。これぞ大精進の印」


 しばらく河原では、真言の唱え方、印の結び方、心掛けなどの話題が続いた。



「ふう、なんかえらい大変やな」


「いずれも長い修行を経たる者であればこそ……。ここは、寺社の庇護をお求めになられては。なにより御仏にすがり般若心経をお唱えするところから……」


「あ、ああ〜、まぁそうやんなぁ」。タヌキには小獅子のどの提案もが、古めかしいカビの生えたものに思えた。


「なんやこう、パッパッーっと片付くことあらへんやろか」


 その場の全員が黙ってしまった。陽射しはぼんやりと柔らかく、緩やかな風が川に向かって吹いていた。

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