第12話 対決 タヌキ 対 村井

●対決 タヌキ対村井

「おお、よう来てくれた」。315号室のドアを開けると、そこにいたのは、以前の姿が想像できないくらいにいきいきした安井だった。


「どうや、安井」。瀞は、丸椅子に座りながら言った。


「いやあ、もうほんまに生き返ったような毎日でな、体の調子だけは退院レベルやって先生から言われているんや」。安井は十歳くらい若返ったような、大きな若々しい声で話した。


「ほんまにそんな感じやな」。瀞も日に日に元気を取り戻していく安井を見てにっこりとした。


「それもこれも全部Qちゃんのおかげや。ほんまおおきにやで」。安井は、樹に頭を下げた。樹は、恥ずかしそうに、小さく、「うん」と頷いた。瀞も少し誇らしげに樹に頷いた。春も樹の傍らで微笑んでいる。


「そしたら退院の日取りも考えんといかんなぁ」。瀞の言葉に、安井は、ちょっと目を落としておもむろに口を開いた。


「そのことで、お父ちゃんにQちゃんを連れてきてもろたんや」


「どういうこと?」と、樹が首をかしげる。背後にはタヌキも現れて、話を聞いている。


「あの…、自分にまだなんか憑りついてないか、Qちゃんに見てほしいんや」


「えっと、ええ?…」。樹は思わず、瀞とタヌキを交互に見た。その視線で、瀞は、そこにタヌキがいることに気づいた。安井は、樹と瀞が同じところを見たことに気づき、ぎょっとしたように、


「な、なんかおるんか」と、タヌキの方向を指さした。


「はっはっは、わしやわしや」と、タヌキは少し体を揺すって笑った。樹が実況し、


「こないだ、一緒やったタヌキのおっちゃんやで」と付け加えた。


「へ、へぇ…、あ、そうか、付き添いの人」と安井は、胸をなでおろすと、


「そや、この人に聞いてもろてええかQちゃん、毎日一回は、変なことが起きるんや」「変てなんや」。タヌキの合いの手には気づかず、安井は言葉を続ける。


「いきなり、病室のドアがバーンって開いてガラスが割れたり、ものすごいくさいにおいがしたり、こないだは丸椅子が、がんがん壁にぶつかって壊れてもてな」。安井の指差した先の壁は確かに傷だらけになっていた。


「段々きつうなっていくみたいなんや。こんなん連れてハナちゃんに家世話してもろたり、堺屋に仕事もろても、きっと迷惑かける……」と、言いかけた時だった。


「ドンッ」と強い風圧が部屋中の空気を震わせたかと思うと、黒い塊が部屋の壁に激突して止まった。「ひゃ!」と樹と春が声を上げる。だが、もちろん瀞と安井にはこの塊は見えない。


 黒い塊はむくりと立ち上がった。頭が天井につくほどで、身体の厚みや幅も三倍くらいになっている。背中と思しき場所、いや全身に顔の片方や、両目から鼻、片目だけもあれば、目から耳まで、口だけのものもある。肘から先の腕や足首も不規則に何本もあり、その全てがばらばらに動き、あるいは震え、泣いている。


 これらは、亡霊村井が長らえるために食った亡霊の残りカス、それぞれの亡霊の生粋の自我だった。村井がエネルギーとして吸収できるものは、死者が亡霊となるきっかけとなったなんらかの強い念と言える。わずかでも村井自身の持っているもの、怒り、嫉妬、諸々の欲望などに繋がれば、それを自身の念として自らのものにしてしまう。だが、村井にない哀れみなど他の感情は、断片になり、排泄され、その亡霊の形だけを保った汚物のような人形になってしまう。人間は様々な経験から感情や価値観を形成して成り立っている存在だ。死により肉体を失い、霊となった後、亡霊村井によってほとんどの念を奪われて、内的にはスカスカで意思も持たない、言いなりの人形にされるのだ。ただ亡霊たちの生粋の自我だけは、吹出物のように村井の体に残り、浮き出していく。この数十もあるものは、成仏すべきその人の本質とも言えるもので、村井は、彼らの成仏を妨げ、その身に縛り付けたままで絶望や恐怖を与え、その負の感情をさらに食らっていた。


 桁外れの禍々しさが、例えようもなくびりびりと伝わってきた。樹は、恐ろしさにその場で、崩れるように父にしがみついた。春も、怪物村井から隠れるように樹にしがみついている。


「な、なんや!なんや!」。瀞は、樹を抱きかかえ、安井は,部屋中に目を配りながら前を塞ぐように立ちはだかった。


「い、今出たんかぁ」


 安井がまだ治りきっていない体で立つ鼻先に、タヌキが半身の構えで立っていた。


「こ、こんなん見たことないでぇ」


「Q!Q!どうなってんねや!」。瀞は、樹に呼びかける。樹は、恐ろしさで声がでない。あわあわと口を動かし、震えながら村井を指さすくらいしかできなかった。


 村井はゆっくりと部屋を見渡し、記憶を辿るように呟いた。


「川に落ちた乞食…、電気屋のガキ…、そうやこのガキはわしの兵隊を消し腐ったクソガキやんけ…、」とぶつぶつこぼしながら、村井は記憶を整理し、樹に的を絞った。


「こらあ、ガキぃ」と言いながら村井は、樹に迫った。


「おまえの相手はこのわしじゃっ!」。タヌキは、ふたかかえもあろう村井の身体に組み付いた。鈍い音がして二人はぶつかった。振動は病室中に響き、びりびりと窓が鳴った。村井の体の表面からぼろぼろとおが屑のようなものが舞い上がり、落ちていく。「ぐずり」とした腐った倒木のような感触にタヌキは顔をしかめた。


「なんじゃこらわれ食われにきたんか!」「あ!しもた!」。村井の両手がタヌキの頭を鷲掴みにした。タヌキは咄嗟に体を引き、首をすくめながら腰をねじり沈めた。村井の手が緩み、顔がタヌキを覗き込むようになった瞬間が生まれた。


「ゴボッ」。タヌキの全身をバネにした右の拳が、村井の顎に炸裂した。


「ぐああっ」。村井の顎の左半分が文字通り吹き飛び、おが屑のような破片がぼろぼろと舞い散り、床に沈むように消えていく。村井は顔をのけ反らせ、後ろに倒れた。壁に突っ込んだ時と同じような鈍い大きな音が響いた。


「う、うわあああ、やったあ」。父にしがみついて怯えていた樹が、その様子を見て声を上げ、思わず立ち上がった。


「タ、タヌキのおっちゃんが、り、力石のパンチで、一発で倒したで!」。樹は慌てて、震える声で村井の姿かたちや、自分に迫って来る村井をタヌキが迎え撃ったことを実況した。


「マガジン読んどって良かったわ」。タヌキが振り向いた。


「Q、今のうちに逃げられるか?」。父は、樹を強く抱き上げ、立ち上がった。安井も二人をかばうように立ち上がった。


「えっ?えっと‥、た、倒れて、うわっなんか出てる!」


 倒れた村井は、砕かれた顎を両手で抱え、もがいている。無数の言葉や感情が湧き上がり、傷口から血のように噴き出たかと思うと、実体となったそれは短刀になり、あるいは札束になり、拳銃やさまざまなものになって、ボトボトと床に無数に転がった。身悶える女の裸さえ出てきた。


「な、なんやあれ!」。瀞と安井が指差す。樹も抱き上げられたまま振り向いて指差す方を探した。


 タヌキが振り向く。


「えっ?えっ?これ見えてるんか!実物?」


 その言葉と同時に病室のドアが開いた。杉原に呼びつけられた山下が片岡巡査を伴って病院にやって来たのだ。


「ほう、皆さんお揃いでん‥、な、なんやこれ!」。山下は、思わず後退りし、後ろの片岡にぶつかった。片岡も様々な物が、虚空から落ちて床一面に転がる様を見てギョッとした。


「警察!」。混乱し、沸騰していた村井の意識が、巡査の制服を見た瞬間、「捕まる!」という危機感一点に絞られた。


「ドゥンッ」。山下と片岡を突き飛ばして、村井は反射的に逃走した。二人は、もんどり打って倒れた。激しい風が廊下を吹き抜ける。


 倒れた姿勢の山下と片岡が、病室を振り返る。病室の一番奥には、子供を抱きかかえてかばうように立つ二人と、床に転がった札や刃物、拳銃を始めとした様々なものがあった。


「はっ」。全員が息を呑む。ほんの半呼吸ほどで、それらのものはじくじくと泥にまいた砂粒が色を変えながら沈んでいくように床に消え始めた。


 ほんの数分か、あるいは十数分だったか、村井が噴き出したものは、跡形もなく消えた。


「どうなっとったんや‥」と山下がこぼすのと、


「なんやってんあれ」と安井が呟くのは同時だった。全員がそこに立ち尽くした。


「もう、おらへん」。樹がようやく呟くようなかすれた声で父に囁いた。


「う、うん」。瀞はゆっくりと樹を降ろした。樹に負ぶさっていた春もぴょんと床に降りる。二人はほっとした顔を見合わせた。


 山下は、腹をさすりながら、立ち上がった。


「痛いわほんま。なんやこれ…。は!」。山下は、シャツのボタンをもどかしく外し、腹を捲り上げた。そこには、先ほど杉原組で仲根の腹についたという手形とよく似た手形が浮き上がっていた。

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