第11話 手形

●滝淵の変容

 滝淵は、杉原の私邸に半ば監禁状態でいた。


 杉原は、村井が集団に襲撃され、とどめに川に叩き落とされたと考えていた。瀧渕が襲撃に荷担しているなら、仲間が誰か吐かせ、面子と組の力を示さなければならない。村井の弟分の瀧淵が次に狙われるなら、これも組の面子が立たない。杉原は、滝淵にふらふらせぬよう言い聞かせて外出した。


 滝淵は、杉原を見送ると所在無げに客間に戻ってきた。杉原夫人が食卓を片付けようとしていた。


「あ、わしにやらせてください」。皿を重ねてキッチンに運ぶ背中を、杉原夫人はポカンと見ていた。疑いを晴らすでもなく、ゴマをすっているでもない。それは測り兼ねた。


 日を追うごとに滝淵は多くの家事をこなすようになっていた。


 いみじくもそれは滝淵の生来の気質から出た行動だったが、本人も気づいていない。滝淵は、洗い終えた皿を水切り台に整頓して並べると、部屋の掃除にかかった。




●手形

 「杉原建設」と掲げられた看板のあるビルの正面玄関に杉原の自動車が停まった。待ち構えていたように、若い衆がパラパラと駆け寄って来て、


「お疲れ様です!」と言いながら、運転席のドアを開ける。一人は、運転席に滑り込み、駐車場に自動車を移動させる。もう一人は、小声で耳打ちした。


「また洋銀のママ来てます」


「社長!もうそろそろ堪忍しとくなはれ」。銀は杉原の顔を見るなり事務所中に響くような声で、いつものように捲した。


「毎日おばはんの顔見てものう」と言いながら、杉原は顎で玄関横の豪華なソファを促した。


「何遍も言うてまっしゃろ。村井はんのことは、うちに何も関わりおまへん。このままやと干上がってまい…」と、相変わらずの調子の銀の目の前に、杉原はパッと手を開いて制止した。


「村井の死に方なんや…、店どうこうちゃうんや」。少し沈んだドスの利いた声は、銀を黙らせる力もあった。


 その時、二人が座る傍の一人掛けソファが、突然後ろ側に転がり、鉢植えの観葉植物をなぎ倒して止まった。


「なにすんねん、おばはん!」。杉原が立ち上がるのと同時に、七、八人の従業員も色めき立って、駆け寄った。


「う、うちなんもやっとらへん!」。銀はよろけながら慌てて立ち上がった。


「なんかしてん!こないだもわれ、ガラス割りくさって!」


「知らん知らん、あんたら誰かとまた揉めて勝手に…うっ」。突然、周囲に排泄物のような臭いが立ち込め、全員が鼻を覆った。


 事務所玄関には、亡霊村井が出現し、仁王立ちになって何かを罵っている。以前タヌキが見立てた通り、村井は存在が正常に保てなくなり、身体のあちこちが虫に食われた倒木のように崩れ、汚れたおが屑のようなものがボロボロと落ちていた。


 ただそのおが屑は、下宮やタヌキのように虚空に消えず、喘ぐように地面に落ちると、泥に沈む小石のようにゆっくりと消えていった。また、これまで無数の霊やその欠片を食ってきたであろう残骸のようなものが夥しく体中に浮き出して一体化し、恐ろしい姿になっていた。


 村井に投げられ、ソファに突っ込んだ汚物色の兵隊は、倒れたソファからじわじわと起き上がろうとしていた。異臭はこの兵隊からまき散らされていた。従業員が、ドアや窓を全部開いていく。


「臭いんじゃボケ、何したんじゃおばはん!」。杉原は、銀を強く突き飛ばした。銀はそのまま事務所の玄関から強い西日の中に放り出された。


「ひぃ、ひぇ!」。道路に転がり落ちた銀は、大げさによろけながら立ち上がると、逃げて行った。


 銀を一瞬見失った村井は、部屋を見渡し、そこが杉原組の事務所であることに初めて気づき、我に返った。


「はっここは!お、おやじ(社長)!」


 だが、もちろん杉原に村井は見えない。村井がいくら「おやっさん、わしや!」と目の前に立っても、一切の反応はなかった。また、もしその姿が見えても、変わり果てた異形の姿が村井に見えるかは疑わしいほどだった。他人の霊を食い、自分のものにすると、同じ感情は更に強化され、都合の悪い、あるいは合わない感情は霊体の端に追いやられ、吹き出物のように形を造る。そのため、村井の全身に浮かび上がった様々な顔や手足は、村井とは無関係な、叫びや罵り、詫び、嗚咽、繰り言を発し、もがいている。このため、せっかく我に返ったとしても、これらの声やもがきに考えを乱されてしまう。自分の心を保ち続けることができず、孤独と混乱と徒労感に落ち込んだ瞬間、村井は元の憑依先へと、強い力で引き戻されていった。一陣の強い風が吹き抜け、辺りの書類が巻き上がった。


 村井が姿を消した事務所で、汚物色の兵隊は、目的と村井を見失い、ぐねぐねと首を振っていたが、よろよろと立ち上がると恐らく銀を目指して玄関へと歩き出した。


 従業員の男が散らばった書類を面倒くさそうに拾っている。そこに汚物色の兵隊が出食わす形になった。


 従業員男性は、背後に気配と強烈な異臭を感じ、体をビクッとさせると手で鼻を覆って、振り向き立ち上がった。


 行く手を遮られた兵隊は、声にならない雄叫びのような声を上げながら、従業員の胸を両手で思い切り突き飛ばして出ていった。


 玄関から足元がおぼつかない様子で出てきた汚物色の兵隊は、銀の行った方を見定めると歩き出し、体を重そうに揺さぶりながら徐々に速度を上げていく。だが西日に晒された体は、じょじょに乾いた泥のようにひび割れ、ぼろぼろと崩れていく。兵隊は、走りながら崩れていく両手を交互に見て、悲しさと恐怖が混じったような言葉にならない声を出しながら消滅していった。


「げほっ、がはっ」。突き飛ばされ壁に叩きつけられた従業員は、その場に倒れ込んでいる。


「な、仲根!お、おい、誰か介抱したれ」。杉原は、自らも駆け寄り、仲根と呼んだ従業員を抱え起こした。


「き、急に、げほっ、なんかで思い切り突き飛ばされて、ごほっごほっ」。仲根は、胸を押さえながらむせている。


「おまえが勝手に…」と言いかけ、なにかに気づいた杉原は仲根のシャツを一気に引き裂いた。


「ああっ!」。一同が息を呑んだ。中根の胸には、真っ赤な手形がくっきりと浮かび上がっていた。


「お、おい!山下呼び出せ!」




●エレベーターを待つ間

 堺屋の軽トラックが、市民病院の駐車場に停まった。


「お父さんな、ほんまにこの調子で忙しなんねやったら、しばらく安井に手伝いに来てもらおかと思てるんや」。樹と春は、父の後ろを付いて歩きながら、先程の敦子との会話を思い出した。


「会社にするん?」。樹は、安井がずっと仕事に来たら、今以上にお手伝いが減ってしまうように思った。それは、もっと祥子達との勉強会に通えるという嬉しい気持ちでもありながら、父の手伝いに出かけられなくなるさみしい気持ちでもあった。


「会社みたいな大袈裟なもんにせんでもなぁ。けどもうちょっと店大きゅうしてもと思てな」。樹は、父は店を大きくしたいと思っているんだ、と思った。


 二人は市民病院のロビーをエレベーターに向かって歩いた。


「それよりな、安井から詳しいこと聞いたで」。父は立ち止まり、振り返った。樹も立ち止まり、少し不安な顔で父を見上げた。


「ようやったな。怖かったやろ」。樹は、ほっと息をついて春と軽く頷き合い、返事をした。


「うん。でもタヌキさんと春ちゃんおったし」。父は膝を折ると、その場で樹を抱きしめた。タヌキが、満足げな顔で瀞の後ろに現れた。


「上等兵。そもそも安井のおっちゃんが静かに眠れるように、横に座りに行ったったんがえらかったんやろ」。タヌキは、瀞に耳打ちをするように囁いた。


「そや、ラジオと着替え渡してくるだけのはずやったのに、すぐ帰らへんかったんか」。瀞はタヌキに促されたかのように、樹に問いかけた。


「あ、えっとな、安井さんにずうっと喋りかけてる幽霊はな、僕に「バーン」されたないから、僕がおる間は安井さんから離れるねん。そしたらその間、静かに眠れるやろ。」


 父は、その後、事の顛末と文珠菩薩の夢の話までをじっくりと聞いた。


「ほんまに大変やったなぁ。先のタヌキさんの件から間なしやのに。あんまし怖いことが起こらんかったらええな」。瀞は、樹の肩に手をかけ、ゆっくり立ち上がると再び歩き出した。


「あ、タヌキさんな、僕の守護霊になってくれてんで」


「ああ、ハナちゃんのとこで『守護霊ちゅうもんがついてない』て言うとったな。そうか、タヌキさんかいな」。瀞は、少し困ったようなほっとしたような笑顔を見せた。


「今もいてはるか」。樹が自分の後ろに立っているタヌキを指差すと、父はその場で頭を下げた。


「タヌキさん、おおきに。よろしくお願いします」。樹には、父の挨拶が、普段の客に対するものではなく、相手に敬意を払ったどこか軍隊風のものに見えた。


 行き交う人が、子供に頭を下げている様子を訝しげに見て通っていく。


「お、お父さん、」と樹が少し恥ずかしげに言った。


「あ、せやな」と瀞も照れ笑いをした。


 エレベーターの扉が開く。二人に続いて春、タヌキが乗り込むと扉が閉まった。

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