第10話 朗読「注文の多い料理店」

●6月10日 木曜日

 野州ひろしは欠席していた。樹は、村井の作った恐ろしいものをひろしがまた連れてこないことに安心していたが、


「先生、野州なんで休んでんの」といった質問が、男子生徒から出るようになった。


「お母さんが入院されていて、野州はお祖母さんのところにいます」。樹には、先生の説明が威圧的で、もう質問をさせないような言い方に思えた。生徒達も黙ってしまう。先生はそのまま授業を始めた。




●朗読「注文の多い料理店」

 樹は、三福荘に前日から通っていた。学校から帰ると、樹は母の縫った布製の肩掛けバックに勉強の道具等を詰めて出掛けた。


 午後の日差しが二号棟の硝子窓から差し込んでいる。この時間、ここが一番三福荘の中で明るく、広い机が使える。樹と春は、祥子が六限目を終えて帰ってくるまでに宿題をしてしまう。


「あとちょっとだね」「うん」。二人は互いに話し合いながら計算ドリルを仕上げた。


 文殊菩薩の夢を見てからも、二人には何も変化はなかった。これまで以上に霊がいるところには近づかない、できるだけ「バーン」をしない。「双六の順番」については、「一緒にやろう」という子供らしい結論になっていた。それは、「二人がかり」となるのだが、「半分こで」、タヌキも「考えてもしゃーない」と結論や対処を先延ばしすることにした。



 計算ドリルを終え、家から持ってきた宮沢賢治を音読し始めると敦子は、管理人室から出て樹から少し離れた丸椅子に座り、足元に目を落として静かに聞き入る。美しい標準語に近い話し方で聞き取りやすい。


「……立派な一軒の西洋造りの家がありました。そして玄関には、えっと……」と、樹が詰まったところで立ち上がり、


「どげな漢字じゃ」と、優しく本を覗く。


 敦子はそばの丸椅子を引き寄せ、樹の背中に手で触れながら、顔を近づけて本を覗き込んだ。


「これは、英語で…RESTAURANT 西洋料理店 WILDCAT HOUSE 山猫軒じゃな」


「レストラン?」


「そうじゃ」と敦子は、傍らのノートにメモをしている樹を愛おしそうに眺めている。樹は、さらに読み進めていく。本当は春と一緒に読み上げているのだが、それは誰にも分からなかった。


 やがて窓に、手を振って走ってくる笑顔の祥子が映った。敦子も笑顔で腰をあげ、


「祥子先生に交代じゃね」と言うと、管理人室に戻っていった。


 樹が本を朗読する間に管理人室で二言三言交わした祥子が、息を弾ませながら樹の机にやってきた。こんな調子で二人の勉強会が始まり、やがて井上が合流し、祥子が井上から受験用の勉強を教わっている間、樹は、自由に春と二人で何かに取り組む。これが春も含めた四人の穏やかな日常になりつつあった。




憐憫れんびん

 敦子は、茶を淹れていた。管理人室から出て、ふと見ると二号棟への角に隠れるように、幸子が三人の様子を見ていた。白いデニム地の流行のホットパンツから白く細い足をいっぱいに出し、ウエストを強調するようなぴったりした赤いティシャツの上に、やはり白いデニムのショート丈のジャケットを羽織っていた。樹の朗読を、まるで絵本を読んでもらう子供のような顔で聴いている。


「もうもとのとほりにはなほりませんでした」


 敦子は、朗読が終わるのを待ち、改めて近づいた。盆には幸子の分の茶も載っていた。敦子に気付いた幸子は、驚いて半歩ほど後退りした。


「あんたの分も淹れてある。一緒に飲んでいけ」。敦子は子供たちに「休憩になさい」といいながら、盆を卓に置いた。


「ちっ」


 舌打ちをしながら幸子は、しぶしぶ敦子に従った。敦子は幸子と樹に向かって、


「熱心に聞いとったけ、感想とか教えてもろうたら」と言った。祥子と樹は、並んで座っていたが、少し緊張したまま、幸子を見ている。


 敦子が二人の向かい側に湯呑みを置き、自分は先程の少し離れた丸椅子に腰掛けた。幸子は、逡巡するかのように口を半開きにして目をあちこちにやりながらも席についた。


 幸子は、樹の持っている本を覗き込みながら、おずおずと口を開いた。


「もう顔もとに戻らへんのん」。幸子があまりにも疑り深そうに聞き返したことが意外で、三人は吹き出して笑ってしまった。幸子は、真っ赤になってぶっきらぼうに聞いた。


「続きは?書いたあんねやろ」「これで終わりやで」。樹が答える。


「嘘、うそぉ、このままぁ?」と納得いかない心配そうな様子が、これまでの擦れっ枯らしな印象とあまりに食い違っていたことに三人はポカンとしてしまった。


「そんなんで終わらんやろ。なぁ」。まだ食い下がる幸子に、敦子と祥子は顔を見合わせて苦笑いしてしまったが、樹は俯きながら答えた。


「罰あたってんで、きっと」。しんとした二号棟の炊事場で、傍らの春も樹の顔を見上げている。


「山の動物を遊びでいっぱい撃ち殺してきて、自分の犬が死んでも『損した』とか言うてたやん。だから罰があたってん」。そうか、と敦子と祥子は「罰」が腑に落ちた。だが幸子は、不安げに言い返した。


「絶対、ようけ(大勢)で仕返しに来るに決まってるわ」


 再び炊事場はしんとした。ただその言葉は、幸子の半生を語っているように思われた。敦子と祥子には、言わば憐憫の情がわいていた。


 いつの間にか、タヌキが敦子の更に後ろに立っていた。気付いた樹が、そちらに顔を向ける。半呼吸置いて、樹の視線に気付いた全員がはっとして振り向いた。もちろん皆にタヌキの姿は見えない。


「もう、懲りてまうやろ」。タヌキの言葉は、樹にはちょっとわからなかった。


「もう、こりてまうやろう…って」。樹が、言う。


幸子は、「懲りるか!」とやや強い調子で返した。タヌキは話し続けている。


「罰受けて、懲りんと、まだ『山鳥を10円』買うて帰ったから戻らんようなったんや。変な見栄かなんかに執着しとったんや。せやから今度は懲りるやろ」。樹は、ゆっくりその言葉を繰り返した。三人は、そんな話だったかという顔をした。


「けど・・・」と、まだ何か言い返そうとする幸子の背中を敦子は、軽くポンと叩いて、


「お茶冷めるで」と、微笑みかけた。


 祥子も樹の方に椅子を寄せると「さっきのんどこのページ?」と話しかける。春も樹の座る丸椅子に足をかけて、樹におぶさるように本を覗き込んでいる。幸子はこの部屋で、初めて感じる穏やかな空気と、祥子と樹の睦まじい様子に身の置き所が無いような孤立感に似た心細い不安が湧き上がった。この不安が軽い嫉妬に置き換わりかける。ただそれも子供同士が仲良しなだけだ。


「うちいくわ」。それでもついにいたたまれず、幸子が席を立とうとした時、


「遅なりました」と井上が帰ってきて、幸子の隣りに無造作に座った。


「あ、井上君 こちら畠中幸子さん」。敦子に紹介され、幸子は頬を赤く染めた。つい一瞬嫉妬を感じた光景が鏡写しにされたような気恥ずかしさがあった。


「井上です。ここに住んではるんですよね。よろしくお願いします」「は、はあ、あ、うん」。幸子は消えそうな声でなんとか答えた。


「今日は、Qちゃんの本読みの聞き役してくれとってのお」と敦子が間を取り持つ。


「へえ、Qちゃん上手でしょ。畠中さんも好きな本、課題に出したげて下さい」


「う、うち本なんか全然……」。幸子は、本当に子供に読ませるような本を知らない。恥じ入って俯いた。


「あ、そうですか……」と、井上は言葉に詰まってしまった。そのような心を推し測れる樹ではないが、


「図書館いったら、いっぱい本あんねんで」と言った一言に井上は、軽く救われた気がした。


「あ、それええなあQちゃん」と、井上が改めて幸子の方を向くのと同時に幸子は立ち上がった。


「う、うち、また」。幸子は少し引きつった笑顔を井上に見せると後ずさりするように席を立っていってしまった。


「へぇ~」。敦子が意味ありげに一人相槌を打ちながら、幸子の湯呑みを片付けた。


 幸子は洋銀事件で、部屋に男を引き入れているのがばれて、下宮宅にもいられなくなり、銀と洋子の取りなしで、なんとか三福荘の銀の部屋に寝泊まりを許されていた。洋銀の工事の遅れは、このようなところにも歪みを産み出していた。


 幸子の後ろ姿を見送っていた井上に、祥子が言う。


「エッチ」「えっ?」


「ほんまじゃ、エッチ」。笑いながら敦子も言う。


「エッチぃ?」「えっち?」「今はそない言うんか、このスケベ。はっは」。タヌキが笑った。


「あ、いやいや、ちゃいますよ!」。笑いに包まれる中、敦子は幸子の湯呑みを手に管理人室に戻っていった。




こらしめと罰

「あ、そうや。鮒の兄ちゃんのこと聞いたらよかった」


「鮒の兄ちゃん?」。井上が聞き返した。


「あっ」。祥子は、洋銀事件の夜、滝渕と幸子が一緒に警察官に連れてこられたこと、またその滝渕が幸子の売春の相手で、樹に怪我をさせた相手だと思い出し、樹と井上の顔を交互に見た。


「前、突き飛ばされて入院したけど、こないだお風呂屋さんで『すまなんだのう』って」


「そ、そいで許したん?」。祥子は、少し納得がいかない顔で聞き返した。


「え?うん。えっとな、シャンプー流したげたら『バーン』ってしてしもてて、心は清められたけど自分はモテたままで周りは混乱してるねんて」。すぐ春が修正する。「じぶんをもてあましたまま」


「あ、自分を持て余したままで、周りが混乱してる、や」。祥子が小さな声で「なんやちごうとる」と微笑んでつっこんだ。


「どういうこっちゃわからへんで」と井上は、苦笑いを浮かべた。


「えっと、僕が畠中さんとこにお使いいった時、鮒の兄ちゃんもいてて、僕のこと畠中さんの子供やって勘違いして怒ってんて。『なんじゃわりゃこら!われこんな子ぉおったんかい!』って」。春が検索した通りを樹は付け加えた。


「ふうん」。井上は素っ気なく返事をしてはみせたが、そんな間柄の男がいることを知って先程までのちょっとした高揚感が失われたことを隠すための無関心な素振りだった。


「あ、警察に二人が連れてこられてた時、『風呂屋の帰りからおかしいわあんた』って言うとった」と祥子が、思い出した。


「風呂屋の帰りって……、確かにQちゃんの『バーン』の後やんな……」


「ほんでその晩、『しゅうじゃく』のこと夢でタヌキのおっちゃんに聞いてん」。再び、樹の視線がタヌキに向く。祥子と井上が思わず振り向く。


「もう、ドキッっとするやん。タヌキさんおるん?」「うん」


「日本橋で成仏しんなさったと思うとったよ。あ、挨拶したほうがええ?」。祥子が言う。


「はっはっは、そらご丁寧に」「そら、ご丁寧にって。えっと、タヌキさんな、今、僕の守護霊やねん」


「へえ、ほんとけ。そいで、滝渕…さん?が心は清められたけどって教えてくれたんじゃ」


「え?えっと、それは、ぜ、ぜんざいどうじさん」


「ぜんざい?」と二人が、思わず聞き返した。


「うん、すごい優しいお兄ちゃんやねん。もんじゅぼさつさんも来ててん」。樹は、言いながら間違いがないかチラチラとタヌキの頷きを確認しながら話した。


「へぇ…」。井上と祥子は、それっきり言葉が続かなかった。


「ほんで、僕の『バーン』はひずみを生む力やって」と言いながら、樹は俯いた。


「歪?」。祥子は、樹の肩に手をやり、もう片手で樹の左手を握ってやった。


「うん、人が自分で苦労せなあかんことやのに、『バーン』ってしたら、しんどいのがなくなってその人にはええかもしれんけど、周りに迷惑かかったりもするねんて」


「それが、歪かぁ。滝渕って人がおかしなったんも歪。言うたらそうか……」。井上が呟くように言った。


「うん、だからどうしてるかなぁって」


「僕は、Qちゃんの『バーン』で二階に駆け付けたんが縁で、バイトさせてもろてるし、電気関係目指すつもりで就職考えるようになったで」


「『よいもわるいもおこっていくのさ。ひっくるめて『ひずみ』ってよぶことにしよう』、っていってたよ」。春の言葉を樹が伝える。樹の言葉に被せるようにタヌキが威勢よく話し出した。


「とにかく『バーン』は慎重にせなあかんねや。せやからこのタヌキさんが守護霊様になったってんねやないか」。タヌキは春の告白や樹たちの魂の三重螺旋の話題にならぬよう話を逸らした。


 その時、二号棟の窓ガラスをコンコンと叩く音がした。全員が驚いて振りむくと、そこには穏やかに笑った樹の父、瀞がいた。祥子が窓を開けて挨拶をする。「こんにちは」


「こんにちは。Q、支度し。市民病院いくで」


「ええ~、うーん」。樹は、話を続けたくて、少しむずかるような顔をした。


「安井さんがあんたの顔見たいねんて」。瀞はそれだけ言うと、三福荘の玄関に向けて歩き出した。祥子も管理人室に走る。「堺屋さんおいでです」


「ごめん下さい。堺屋です」。敦子がすぐ出てくる。タヌキも玄関に現れた。


「こんにちは、堺屋さん。何かせいた(急ぐ)御用でも」


「あ、いえ、これから洋銀の一件の安井の入院先に、様子見に行くとこなんですが、安井の奴、うちの子供に会いたいて言うてまして。あ、それはそうと奥さん、ご主人から、また大きな工事の話頂いて、ありがとうございます」。父がちょうど頭を下げているところに、道具を詰めた樹が祥子らと共に玄関に現れた。


 樹は、「ありがとうございましたー」とおじぎをすると、下駄箱の靴を履いた。


「井上君やQにも手伝どうてもらわなあかんな」。樹の肩に手をかけながら瀞は言う。


「うん!」樹は、にっこりと返事をした。


 井上も「よろしくお願いします」と言う。


 ところが、ちょっと首をかしげながら敦子が間に入った。「なんか井上君らのお手伝いでは間に合わんくらいせきもん(大急ぎの工事物件)らしゅうて、本職の人呼んでもらわなあかんみたいに言うてましたけど」


「そうでっか、わかりました。先に教えといてもらえると算段もつきます。今日も左官屋が仕事に入る前にこっちが入らしてもらえるよう言うといてくれはって、ほんま段取りよういきました」


「いえいえ、全部こっちが急にお願いしたもんじゃて言うとりました。けど、あんまり立て続けにお願いしたら、お体に触っても。これを機会にお店を会社にして、人も雇うたらどうですか」。敦子の、気遣いにも唐突にも思える言葉に、瀞は少なからず返事に困った。


 その様子を見て敦子は、


「あ、さしでがましいこと言うて」と頭を下げた。


「あ、いえいえ。そしたらこれで」と瀞は、樹の手を握り、軽く会釈をすると玄関を出た。


 タヌキは、二人を見送りながら敦子を見ていた。

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