第8話 習い事せんの?

●習い事せんの?

 敦子は、管理人室で樹にサイダーを飲ませた。


「プァー、美味しい」にこにことその様子を眺めながら、敦子はタオルを換えながら、樹の汗まみれの髪や背中を拭き、服の上からもタオルを当てて、とんとんと汗を吸わせた。


「気持ちええわ」と、樹が声をもらす。


「うふふ。今日はどげしたん?」

 敦子はサイダーのお代わりを注いだ。



「えっと、…お使いに市民病院にいって、バーンってしたら、ゴミドンの病気が治ったんです」


「え?」と、敦子は要領が掴めず、困ったように笑顔を返した。「ゴミドンて洋銀さんの裏で怪我した…」


「あ、そうそう。えっと」と、樹は、敦子に問われるままに、洋銀の便所から飛び出した亡霊たちが、村井に襲い掛かり憑りついて、そのまま病室に村井の亡霊と共にいたこと、ゴミドンは安井と言い、父の友人であること、亡霊たちを除霊した光と爆音が安井の「砲弾ショック」を治したことを話した。


「そ、そんなこと…へぇ」

 敦子は思わぬ話の返事に窮した。つい先日、夫や雪上家にまつわる一件があったばかりだ。そんな不可解な出来事が相次いで起こるものか。ただ、刑事の聴取と、樹の話は筋が通っている。


「十一人にバーンって、うちの二階でしたように?」「うん」と言って、樹は左腕を伸ばしてみせた。


「まだちょっと痺れてるわ」

 その手に絡み付くように敦子は、左腕を抱き締めて引き寄せた。右手も後ろから樹を抱き締める。


「怖かったじゃろ、えらいね、頑張ったねぇ一人前やねぇ」


 樹はうっとりと疲れた体を敦子に委ねている。樹の耳元で優しく敦子がささやく。


「Qちゃんは、お姉さんみたいになんか習い事せんの?」


「え?どういうこと?」

 樹には唐突な『お姉さんみたいに』が引っ掛かった。


「お姉さんはずっとバレエを続けんなさって、発表会も間近やって。お手伝いもほんまにえらいけど、Qちゃんも好きなことあったら習いよったらええやろ?」


「うーん、ピアノとか習字とか、公文行ってたけど…もうこんでええよって」と、俯いてしまう。敦子はそんな樹の髪を撫で両手で顔を上げさせると、


「じゃけ前みたいにここで井上君に勉強教えてもろうたらどうじゃ。祥子と一緒に」


「ええ!ほんま?」「ごほうび」と思わず春が言った。「ご褒美や」


「え?」と敦子が聞き返す。


「隘路のそばの、目抜通りも、それ眼と鼻の先やねんて」

 樹はぴょんと立ち上がった。


「ちょっと何なんそれ?」


「お母さんに頼んでみる!ありがとうございましたー」

 樹は、小鹿が日溜まりを跳ねるように飛び出して行った。


敦子は樹の汗を吸った数枚のタオルを畳み重ねると、子供っぽい汗の匂いをすっと吸った。そして、


「行ってらっしゃい」と、樹を見送りながら手を振り、思いつめたような、そして、とても愛しいものを見る表情を浮かべた。





●解体計画

 敦子がタオルを抱き締めたまま、自分の言葉の余韻に浸っていると、三号棟から、雪上と例の不動産屋が現れた。


「ほんまは、一気に三棟とも砕いてしもたほうが結局安あがりますけどな」


「ただ一棟には、洋銀さんに大学生、古い店子さんも住んでもろてます。やっぱり元の計画通りで」


「お優しいでんな、あ、若奥さん毎度です」と、不動産屋は頭を下げた。


「ご苦労さんです。すぐお茶を」と、敦子はタオルを恥ずかしげに体で隠すと管理人室に消えた。


「まあ、どうです、お茶だけでも。家内もああ言うてますし」



●不動産屋の話

 奥の間で、茶を囲みながら、三人が世間話をしている。界隈に精通した不動産屋の話は面白く、やがて洋銀の事件の話題になった。


「ほんまちょっとややこしなってしもて新装開店いつなるやら。あ、ちゃんと堺屋さんに工事はいってもろてますねんけど、申し訳のうて」


「ややこしいて、店裏の川に人が落ちて亡くなった話ですか」と、雪上は興味深く聞き返した。


「へえ、警察とやくざがあべこべですねん」


「あべこべ?」

 雪上と敦子は顔を見合わせた。


「警察は、泥棒に入った村井はかなり酔うとったんで、勝手に飛び出して浮浪者を巻き添えにして死んだっちゅうことにしたいみたいですけど、辻褄が合わんのです」


「辻褄?」


「へえ、それまでなかった傷や手形が全身についとって、これはかなりの人数にやられたに違いないと」


「警察でも気づきそうやないですか」


「そ、それが、近所の誰一人、足音人影見てまへんねんて」


「いやぁ、気持ちの悪いこと、はっ」

 敦子はここまで聞いて、樹の話が一気に飲み込めた。


「ん?どうした?」と、雪上が尋ねる。敦子は樹から聞いたあらましを雪上にそっと耳打ちし、


「す、すんません。うち怖い話は」と理由をつけて不動産屋に頭を下げ、席を立った。


「あ、これはこれはすんません…、なにしろ村井は杉原組のもんで、社長がどないしてでも突き止めろって聞きまへんねん」


「へ…へぇ」

 雪上は、相槌のうちように窮した。敦子の耳打ちは、「答」だけがいきなりでてきたようなものだ。


「うちの工事にも堺屋さん入って欲しいし、困ったもんですな。ほな洋銀のお二人もいつまでうちにいるかもわからんと」


「こりゃその浮浪者の回復待ちでんな。なんかわかったらそれが全てですわ」


「ああ、そしたらもうけりつきましたな」


「え?」


「ああ、いやいや、早うけりついたらよろしいな」と雪上は取り繕い、


「ほな、解体はもうちょっと考えてみますわ」と言いながら茶を飲み干した。





●追跡

 タヌキは、村井を追っていた。怒りに突き動かされた村井は、一瞬で買い物をしている真っ最中の銀の目の前に立ちはだかった。


「ごるあ、くそばばあ」と捲し立てるが、銀には一切聞こえない。すぐそばを無関係の人が通りすぎ、そちらに気をとられ、銀への盲念が途切れると、一気に病室に引き戻される。そこにいるのは、もう霊感を失った安井だけだ。自分の命を奪った霊達は、樹によって消されている。安井に何を叫んでも反応は得られなかった。


 村井はまた怒りをたぎらせて銀の前に飛んでいく。これを繰り返していた。


「これほっといたらすり減って消えてまうんちゃうか。Qちゃんのこと思い出したりせん限り……」と、独り言を呟くとタヌキは、すっと消えて樹のもとに移動していった。




●これでいいのか悪いのか

「お帰り。ちょっと遅かったなぁ」

 母、千鶴子が店先で樹を出迎えた。樹は、あくびをしながら上がり口にあがった。


「うん。えっと、ちょっとしんどなってな」


「あんまりまだ無理させたらあかんかったかな。そや安井さんの方はどないやったん」


「川から憑りついてきた幽霊がようけおってんけど、一人が暴れて飛び出すの見たら、あんなことやっててもあかんってみんな成仏してくれることになってん。ほんで一人ずつバーン、バーンってみんな消してあげてん」

 身振り手振りで樹は説明する。続けて、


「ほんだら、その光とかバーンの音で、砲弾ショックの安井さんが、『あんな光や爆発やびりびりした体に伝わるもん戦争以来や。でも全然ちゃう。まったく反対向きの光と爆発、そうや、あんな光と爆発初めてやった』いうて、それっきり砲弾ショックが治ってしもてん」


「へぇ…、そんなんできんのかいな」

 千鶴子は半ばぽかんとした顔になった。樹は、ちょっとにっこり笑って、


「安井のおっちゃんにもすごい喜んでもらえたで」と言った。「へぇ」と、千鶴子は感嘆の声を漏らした。


「ほんで帰り道で寝てまうくらい疲れてん」


「うん、どっかで休んでたん?」

 千鶴子は、樹の傍に座った。


「ううん、春ちゃんがなあ、代わりに歩いてくれてん」


「え?」

 千鶴子はまた一瞬ポカンとしたが、先夜の出来事を思い出した。


「Qちゃんが寝てしもて、春ちゃんだけ起きてたら…代わりに春ちゃんだけで体動かせるということなんかな?、へえ!そ、そんなん、今までもしとったん?」

 思わずゾッとしたものが体を駆け抜けた。何気なく一緒に暮らしている息子が時々誰かと入れ代わっているなんて。


「ううん。初めてやんな」と樹が隣に座った春の方を向いて聞く。「うん」。春の返事はもちろん千鶴子には聞こえない。


「うんって」と、樹は自然な調子で春の言葉を千鶴子に伝え返した。


「は、初めて!あ、そう、そうなんや。え、つまり、Qちゃんが寝てしもて代わりに春ちゃんが歩いて帰ってきたってことなん。それで遅く…」と千鶴子は話を整理しながら聞いた。


「あ、違うねん。その後、春ちゃん自転車すっごい勢いで走ったから、ドキドキしてきて僕目ぇ覚めてしもてん」

 樹は、目が覚めた時の、びっくりした時を思い出して笑いながら話した。


「それQちゃん、居眠り運転してて目ぇ覚ましただけちゃうのん?」と千鶴子は、次々に展開する話を整理しながらも、合理的な答えを出してみた。


「ええ??そんなことないで。目ぇ覚めたら祥子ちゃんとこの前やったもん。僕、浄水場の交差点の辺で自転車から降りたし。な?」「うん」

 改めて千鶴子は驚いた。1キロくらいはあるだろう。途中に駅前の交差点や踏切もある。居眠り運転は考えにくかった。


「ほんでな、すごい心臓ドキドキしてしゃがんどったら、三福荘の若奥さんが、休んでいきって、中でサイダー飲んでてん」


「まぁ、あんたサイダーよばれて(ご馳走になって)て遅なったん」

 時間の辻褄は合った。だが、春が代わりに自転車に乗って走っていたことが、どうにも理解できない。


「は、春ちゃんは、危ないことなかったん?」

 千鶴子は、少し考えて、樹に問いかけるようで、春に問いかけるような聞き方をした。


「春ちゃんは、笑いながら首をかしげてます」と、樹は春の様子を実況した。千鶴子は必死に考えた。春と言う妹の幽霊がいること自体疑わしいが、その前提に立たないと納得がいかないことがここ一か月起きている。今も眠った樹の身代わりに春が自転車を漕いで帰って来た、と考える方が理にかなっているようにも思えた。こうなったら本当に樹の中に春がいるという想定で話さなくてはならない。


「春ちゃんは、なんで、そんなに、心臓ドキドキするくらい、自転車、こいでたん?」と千鶴子は、ゆっくりと自分の言葉を整理しながら言った。


「電話で『Qちゃんは帰っておいでな』っておかあさんが言ったから、早く帰ろうとしたって」と樹が実況する。


「あ、そうやったわ。そうや、言うたわ。でも、怪我せんと、事故せんと、人にも迷惑かけへんっていうのも大切やで。わかるなぁ」

 そう言えば幼稚園の頃の樹にも同じような説教をしたような気がする。あの頃の樹はもっと危なっかしかった。


「はいって」

 素直な返事が実況される。


「ええと、そしたらな…」

 千鶴子は、何を聞いたらいいか思案した。


「あ、お母さん、井上君に勉強習いにいってええ?」


「え?どうしたん?」


「祥子ちゃんと一緒に勉強教えてもろたらって」


「それも春ちゃんが言うてんの?そんなアドバイスまでしてくれるん?」


「あ、若奥さんが」


「もうびっくりさせんといてや」

 千鶴子は、春が『学習指導』のようなことまでするのかと思い、驚き、ほっとした。


「そうやなぁ、けど祥子ちゃん私立中学受けはるんやろ。返ってご迷惑ちゃう?」


「迷惑かけへんもん」「やめよう。ちゅうがくいってほしいね」

 春に言い返すことができず、樹は口をぱくぱくさせた。千鶴子は顔を覗き込み、樹に話すよう促した。


「春ちゃんが、やめよう。中学行って欲しいねって」

 樹は俯いて考え込んでしまった。


また、樹らしくない様子を千鶴子は感じた。春の言葉でブレーキがかかっているようだ。


 最近の樹の変わり様の一つは、春が止めていたのだ。これでいいのか悪いのか、千鶴子は測りかねた。


「春ちゃん、自分は、勉強したいん?」と千鶴子が尋ねる。


「うん」「うんって」


「え?ほななんでいま?」「おかあさんがごめいわくちゃうといったから」「お母さんがご迷惑ちゃうって言ったからやって」


千鶴子は思った。春は幼い子供らしく、母に気に入られたい、誉められたいという思いでいるかもしれない。


「そ…したら、Qちゃんは迷惑かけへんようにして、春ちゃんは気づいたらQちゃんに言うてあげて、自分も一緒に勉強教えてもらおか」


「ほんま?やったぁ」「うん」


「春ちゃんはどないや?」


「あ、うんって言うてるで」

 樹はもう一度あくびをした。


 千鶴子は、何かもっと聞き出さなくてはならないことがあるのに、思い付かずにいた。何とも言えない表情をして、しばらく樹を見つめていたが、その間に樹は座ったままでうとうとし始める。


「あ、こんなとこで寝んと…」と言う間に溶けるように傾く。千鶴子が座布団を当てるのと同時に深い寝息をたて始めた。


 千鶴子は、樹の耳元で、「春…ちゃーん、春ちゃーん」と小声で囁いてみる。


だが、二人とも深い深い眠りに落ちているようだ。子供の寝顔をしばらく眺め、考えがまとまらないまま、千鶴子は、ため息をついた。


「あ、三福荘にお礼言わなあかんな」

 千鶴子は電話口に立った。

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