第7話 自転車に乗って

●小獅子

 315号室は、和やかな空気に包まれていた。安井は、これまでの時間を一気に取り戻すように笑い、話した。タヌキが合いの手や、冗談を返す。それを樹が実況し、また安井が笑っていた。


「あぁ、ようけ話した。ちょっとQちゃん、ドア開けてくれるか」と安井は、ベッドに横になりながら言った。


「うん」

 樹は315号室のドアを開き、廊下をひょいと覗いた。そういえば、あれだけ「バーン」を繰り返したのに、なぜ誰も来ないのだろう。廊下は普段通りで、詰所の方から何かの音が反響して伝わってくる。


「なぁタヌキのおっちゃん、誰もなんも気ぃつかへんかったんかな」

 樹は、丸椅子に戻りながら言った。タヌキも廊下に出てみる。


「ぁあ。ほんまやなぁ。これだけ誰も来んと…。あれ?」


 廊下の先に、ひょいと大きな猫の影が現れた。詰所の方から来たようだ。


「お、おいおい、Qちゃんよ。あれ見えるか。大屋根におった猫か犬かわからんしゃべる猫や」


「ええ!?見たい見たい」

 樹と春が廊下に飛び出す。飛び出す樹らと入れ替わるように315号室に影は飛び込んできた。


「ひゃ!」と、驚く二人。猫はベッドの下に潜り込むと、顔を覗かせてペロリと舌で自分の鼻の頭を舐めた。


「扉を閉めてお入りなさい」と、猫は穏やかな声でしゃべった。


「ふぇ…、は、はい」と樹は、恐る恐るドアを閉めた。


「召され慌てて来てみれば、驚く有り様…」

 静かな落ち着いた声で言葉が続く。が、


「わあ、これライオンの子供やん!」と樹は指差して、大きな声をあげた。

「春ちゃん、ライオンやで」「らいおん!」

 二人は、そのまま駆け寄り、頭や体を撫で廻し始めた。


「え?そうなんか。わしライオンの子ぉて、見たことないねん。そうか道理で、どっちつかずの格好してると…」


 小獅子は、二人に撫で廻され、無言でじっとしている。


「すごい可愛い、可愛いなぁ」「かわいいね」


タヌキは、冷や冷やしながら、二人に寄っていく。


「お、おい、そ、そんなん、畏れ多いんちゃうか」


「え?そうなん?」と樹達は、さっと手を引いて小獅子の顔を見た。小獅子は、深くうつむきため息をついた。


「消えるやもとは、案じませぬか?」


「ハッ、あ!そうか!ごめんなさい!」

 樹は自分の手のひらと小獅子を交互に見て、慌てて頭を下げた。


「痛なかった?」と、二人は小獅子の顔を覗き込む。


「この通り、この身は…。それはさておき、少々手立てを講じておきました」と、小獅子は変わらず丁寧に話し続ける。


「あ、なんか気ぃそらしてくれてはったんや。ほんで誰も来なんだか。えらいすんません」とタヌキは、その場で膝をついた。


「こちらでは、内道の説教と異道の力による決着、正に驚く有り様で。本来は時を曲げ、外道のなお外の異道の法。この度はあくまで怪我の功名なりと、秘して語らず、肝に銘じておかれませ」


「『げどう』、『いどう』て…、なんかえげつない…」とタヌキは、小獅子の意図を測りかねた。


「内道すなわち、仏法の道、その法を奉ずるもののことにございましょう。内道以外が外道九十五、更にその外、魂の進化と成長の枠の外から施す異道の法、このようにございます」


「そ、そんなにこの子ぉらがしたこと、道に外れとりましたやろか」

 タヌキはなんとか樹を守ってやりたい一心だった。


「そうご心配には及びませぬ」

 小獅子はちょっと小首をかしげるように、樹の足元を顔で撫でた。


「樹殿、今日の見舞いの目当てはいかに」

 小獅子に問われて、樹は春と顔を見合わせた後、答えた。


「ええと、お母さんに言われたもん届けるんと、あと僕が一緒におったら幽霊が寄ってけえへんから、少しの間でもええから、寝かせたげよって思っててん…です」

 春も頷く。小獅子も大きく頷いた。


「それはご立派。それも力の使い様」

 樹と春の顔がホッと緩む。


「ただ、人が難渋するのも、迷い進んだ当人の隘路。すぐ傍らの目抜き通りも、それ目と鼻の先」

 小獅子は少し洒落た風に例えたが、誰からも反応を得られず、おかしな間をあけて続けた。


「そこに気づくも、その人の成長」


「あ、豊ちゃんが、自分で独楽の執着を吹っ切らなあかんかったとかってこと?」


「あ、ああ、それや」

 タヌキは少し遅れて合点がいった。樹と春も膝をつき、小獅子が自分の膝小僧や手先に頭をすりつけるのを嬉しく見ていた。


「彼我も然り、似たる隘路に立たざらんや」


 今度はタヌキが先に理解した。


「Qちゃんも、もしかしたら、狭い道に迷い込んでしもてんのかも知れんでって言うてはるで」


「あ、ううん。僕は…」と言いかけた樹だったが、続きの言葉はでてこなかった。樹はそのままうなだれて、涙を床に落とした。春が小さな体を樹の背中いっぱいに乗せるように覆い庇って、撫でさすった。


 小獅子は、タヌキの方に向きを変えた。


「人の道は、二股枝の繰り返し。小枝の先にはまた小枝。噛み砕いて教えられませ」

 タヌキがお辞儀をしようとした瞬間、安井がむせて目覚めた。


「ごほっ」

 思わず三人がそちらに目をやった間に、小獅子は姿を消した。





●三階詰所

 安井は、砲弾ショックが思わず快癒したことで、晴やかな気持ちを取り持出した。今までの時間を取り戻すように、一気に樹と、そして樹越しにタヌキらとおしゃべりをし、少し疲れてうたた寝をしていた。目覚めると樹がドアの前で膝をついている。思いつめて泣いているようだ。


「ど、どないしたんや。僕、大丈夫か」と言って安井は、ベッドから起き上がろうとした。


 樹もよろよろと立ち上がり、俯いたままで「大丈夫」と言うと、


「看護婦さん呼んでくるわ」と廊下に出た。その背中にタヌキが、


「またあんじょう教えたるから、あんま気にすなよ」と言っている。樹は、ちょっと振り返って手を振って詰所にむかった。


「なんや、なに泣いてんねん」

 折悪く、また野洲ひろしと顔を合わせてしまった。樹は小さく横に首を振って、詰所前に立っていた看護婦に言った。


「えっと、安井さん、目ぇ覚めて、すっきりした言うてます」

 看護婦は樹の泣き顔と言葉に違和感を感じ、腑に落ちないようだったが、ひとまず、315号室に行くことにした。その看護婦はすぐ詰所を出た。


 詰所は、書類や文具が散乱し、突風がかき回していったような有様だった。


「なにがあったん?」と、今度は樹がひろしに聞いた。


「なんやおまえなんも知らへんねんな。さっきすごい騒ぎなっとってんぞ」「へえ」

 これが、小獅子が講じた『手立て』のことか、と樹は合点がいった。


「でも物壊れたりしてへんなぁ」と樹は、面会簿の辺りに散らばっている紙や文具、カルテや、書類を入れていた籠を拾った。


「おまえ、教えて欲しないんか。教えたらへんぞ」

 ひろしの声を尻目に、周りを少し片づけ終える。別の若い看護婦が、


「あ、僕ありがとう」と言う。ひろしはまた妬まし気な顔になった。


「お前なんかに教えたるか」


「あの、家に電話したいんですけど、お金持ってなくて…」と樹は、若い看護婦に話した。


「何の連絡したいの?」「安井さん、急にすごい元気になって、調子よくなったんで」


「でも、今朝も寝込んでうなされてはったんよ」


「そうじゃ、3階は長く入院する人ばっかしやねんぞ」とひろしも口を挟んでくる。


「えっと、さっき面会して…」と樹が思案しながら説明しようとした時、先の看護婦が戻ってきた。


「戻りました。安井さんほんまやったわ。すごいな、よかったな、僕。ちょっと先生にも連絡入れといて」


「はい」と若い看護婦は返事をすると、


「よかったなぁ、お父さんの友達…やったな。何番や?」と受話器を上げて、樹に笑顔を向けた。「はい。06の…」





 電話は、母が取った。


「うん、いま市民病院。そやねん。安井さん、『ずっと続いとった悪夢が晴れたような気持ちや』って言うて立ち上がったりできたで。砲弾ショックも治ったみたいって」


「へえ…。なんやようわからんけど、ほんまによかったわぁ。お父さん出先やからすぐ電話しとくわ。安井さんには、改めてお父さんが行くからって言うといて。Qちゃんは帰っておいでな」


 電話を切る。「ありがとうございました」。樹は、母や看護婦らの『よかった』を聞いて、ようやく気持ちが戻って来た。病室に戻る樹は、少しひろしに手を振った。ひろしは何か言いたそうな顔で樹を見送った。





●自転車に乗って

 樹は、ぐったりした様子でのろのろと帰り道を走った。一旦図書館の近くまで進み、川沿いを戻る。やがて途中の浄水場あたりで、力なく自転車を降り、自転車に半ば持たれるように歩きだした。


「なんかすごい疲れた」


「うんつかれたね」


「いっぱい『バーン』ってしてしもたし、『実況』もな」


「そうだね。でも、やすいさんよかったね。おとうさんよろこぶね」


「ほんまや。ほんまやなぁ」

 樹は歩きながら、うつらうつらし始めた。


「いつき、いつき」

 春の呼び掛けに「…ぅ…ん」と半ば寝言のような返事を返す。


 いつのまにか、布団の中で母と話した時のように、眠った樹の代わりに春が体を動かし、自転車を押していた。


 春は、急に視点が高くなったことに驚いた。手足の距離感も違う。舌先に触れる歯の並び具合まで今までの自分のものではない。不思議な感覚でしばらく春はじっとその場に立ち尽くした。ゆっくりと歩きだす。自分の左右の足の動きを確かめながら、からからと自転車を進めていく。自分の歩みに合わせて車輪が廻り、景色が動いていく。春は、言葉に表せないような自由を感じた。ずっと樹を通して同じ感覚であったはずなのに、肌に感じる風や、6月の少し湿り気のある空気の匂いなど様々なものが新鮮に感じた。


 春は、川沿いの道を浮き浮きと自転車を押して歩き続けた。やがて、体が少し疲れてくる。ふと、自分がどこに向かっていたっけ?という思いに至った。


「Qちゃんはかえっておいでな」

 母の言葉が思い出された。


「おかあさん」

 春に、暖かい母への気持ちが一気に湧きあがった。早く、早く帰りたい!そうだ、自転車に乗れば!春はその時初めて、自分が自転車の右側に立って押していることに気づいた。左利きの樹は、自転車を降りるとき、つい右側に降りることも多い。春は、自転車を一度立てて、左側に回り、自転車に乗りなおした。ずっと樹の体を通してなじんできた動きが左右逆になっている。春はどんどん力をこめてペダルを踏んだ。


 川沿いの道は、駅と直角に交わり、踏切を越える。交通量の多い道路と、折よく遮断機が上がっていた踏切を一気に突き抜けて、勢いよく春は走り続けた。


 すぐ川向いに、事件のあった洋銀の裏口が見える。大きく通り過ぎたところで、春は橋を渡った。すぐ向こうの道を左折すれば、三福荘に続く道だ。春は更に息を弾ませ、ペダルを踏みこもうとした。


 その時、急に後ろに引き戻されるような感覚が全身に広がった。


「う、うわ!!」

 樹は、自転車を全力で漕ぎながら、目覚めた。バランスを崩しそうになりながら、慌ててブレーキをかけ、両足を地面に擦って自転車を止めた。三福荘の前まで来ている。


「は、春ちゃん、なんなんこれ?はあはあ」


「いつき、ねむったの。かわりにじてんしゃをこいでかえろうとしたの」


「そうなん?え、そんなんできんの。あ、こないだもちょっとおかあさんと話したって言うてたなぁ。うわぁ…。びっくりしたあ!はあはあ」

 樹は、どっと全身から汗を拭きだしながら大きく息をした。心臓がどくどくと打っている。


「ごめんね。はやくかえろうとしたの」「あ、うん」

 樹は頷きながらも、自転車を壁にもたれかけさせて、しゃがみこんだ。疲れ切って深い眠りに落ちたところを全力で走った状態で叩き起こされたようなものだ。


「ごめんね」「あ、かめへん。はあはあ。かめへんよ。はあはあ」


 樹は、少し息が整ったところでゆるゆると立ち上がった。


「あれ?Qちゃん?」

 三福荘の玄関から敦子が顔を出している。


「あ、こんにちはー はあはあ」


「どげしたん?えろうくたびれて」


 敦子は道路端まで出てくると、ちょっと膝を折り、樹の背中を撫でた。


「まあすごい汗。ちょっと休んでいかんとねぇ」

 敦子は、軽く樹の背中を押して促した。


「おかあさんがかえっておいでっていってたよ」「うん」

 樹は促されるままに歩きながら、


「お母さんから帰っておいでって言われてんね、です」と言った。


「何かせいとる(急いで)の?」「え?そんなことは…」


「そしたら余計に汗も拭いて綺麗にして帰らんと。返って心配なさるよ」


「あ、そうか」

 二人は頷いた。樹はそんなに急がなくてもと思い、春は心配させたくないと思った。

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