第6話 砲弾ショック

●村井の亡霊

 帰宅した樹には、病院へのお使いが待っていた。ゴミドンこと安井への差し入れが大きな紙袋に詰められていた。


 荷台に荷物をくくりつけた樹の自転車が、病院に滑り込んだ。


「315、315……」

 階段を駆け上がって三階の詰所に着き、面会簿に「堺屋樹」と書き込んでいると、後ろから声がした。


「あ、Q」

 振り向くとそこには、野洲ひろしが驚いた顔で立っていた。ひろしは続けて、


「おまえなんでこんなとこおんねん」

 ひろしの顔は、少し怒ったような、恥ずかしそうな表情だった。


「何?友達?」と、ひろしの後ろからパジャマ姿の小太りの入院患者らしい婦人が声を掛けてきた。


「出てくんなや。なんでもないわ。クラスのやつや」と、ひろしは少し語気を強めて言った。


「へえ、クラスメイトか。こんにちは。うちのひろしがお世話になって」


「こんにちはー。堺屋樹ですー」と樹は、お手伝いの時の型通りの挨拶をした。


「あら、きっちり」と、ひろしの母は、樹の挨拶を誉めた。ひろし達にとって樹のこういった礼儀正しさはむかつくところだ。樹が、小さな頃から店で教え込まれてきているのに比して、自分達はそんな言葉遣いが馴染んでおらず、あまり知らない。


「別に世話なってへんわ」

 ひろしの言葉遣いを少し咎める顔をした後、ひろしの母は、樹に笑顔を向けて言った。


「堺屋君のおうちも誰か入院してんの?」


「えっと…」「しぃ」と、春がとっさに樹を止めた。樹は、返答に詰まった。


「えっと、お、お客さんのお使い…です。お…父さんの…お手伝い」と樹と春は、振り絞って答えた。ただこの答えも、『えらいなぁ、あんたもお手伝いしぃや』という言葉と、ひろしからの『ええ子ぶんな』という反感に繋がりそうに案じられた。


「えらいなぁ、あんたもお手伝いしぃや」「ちっ」


 樹は、うつむいたまま小さく「さようなら」とお辞儀をすると、詰所を後にした。


 廊下をすぐに曲がり、樹はひろしがつけてこないかしばらくじっと立ち尽くしていた。野洲親子の会話は、廊下に反響して聞こえながら遠ざかっていった。


「ふぅ」と二人は、胸を撫で下ろすと、改めて315号室に向かった。


 315号室のドアの前には、タヌキが立っていた。既にドアの隙間からじくじくとした陰鬱な空気と呟く声が聞こえている。樹は意を決して、ドアを開けた。


「こんにちはー。堺屋ですー」

 敢えていつもの明るい声を出すと、安井のベッドに群がっていた白い影は、一斉に樹を振り返り、凝視しながら後ずさりしていった。


「安井のおっちゃん、こんにちは」

 樹は、丸椅子に腰かけ、母から預かった紙袋を開いた。眉をしかめて目を閉じていた安井だが、霊たちの声が静まり、やがて、恐る恐る目を開いた。


「お…お、僕か」


「お母さんから荷物預かってきてん。脇机に入れとくから。僕しばらくおるから、おっちゃん寝ててええよ」


「お…お…、おおきに」

 安井は涙を浮かべ、その目を閉じた。ほどなく軽くいびきをたてるほどすぐに眠りに落ちた。


 半分ほど開いた窓から、柔らかい風が入ってくる。壁の隅にへばりついたように立っている白い影がなにかぶつぶつ小さな声で言いながらうろうろしている。樹と春は人数を数えた。


「7…8、10人。向こう側にしゃがみ込んでる人もいれたら11人。11人いる」「じゅういちにんいるんだね」


「こいつら、もう自分が誰かとか、なんの執着でここにおるかもわからへんようなってもうてるなぁ」


 タヌキは、端の小柄な一人に近づき、目を細めてよく見ようとしている。ぶつぶつ言う声も聞こうと耳を傾けるが、うまく聞き取れないようだ。


「誰かに何かを聞いてほしい、そんなもんしか残ったらへんのんちゃうか」

 タヌキに迫られて、その小柄な亡霊は、よろよろと壁伝いにドア側の隅に向かって歩いて行った。


 その時、ドアを挟んで向こう側にしゃがみこんでいた一体が、突然、その亡霊に飛びついた。


「も……もあ!もむもむ」

 飛びついた一体が大口を開けて、小柄な亡霊を飲み込んでいった。それは鮒や鯉等の魚が餌を吸い込むようでもあり、魚を大きな鳥が飲み込むようにも見えた。


 樹は恐怖と驚きで丸椅子から転げ落ちた。タヌキは、樹の前に割り込み、立ちはだかった。春は、樹の両肩を背後から支えながらしゃがんで後ろに隠れている。残りの九体の亡霊も、混乱した様子で我先にと、反対側の隅に後退りしていく。


「そうや、亡霊っちゅうもんは、人間っちゅう電源をなくした人形みたいなもんや。自分の電池が尽きたら終わり。せやから生身の人間に憑くんや。せやけど、他の霊の電池を横取りしたら、自分の電池の足しにはなるわなぁ」

 タヌキの説明を聞いて、二人は小さく頷いた。そして、ドアのそばで今亡霊を飲み込んだ一体も、タヌキの方に向き直り、にやりと笑った。


「ふぅふぅ、け…けど、そんなに腹膨れん…ぞ」と肩で大きく息をしながら、じょじょに形がくっきりしていく。ギラギラした目に痩せた体の村井だった。だが、もちろんここにいる誰一人、生前の村井を知っている者はいない。


 タヌキは一二歩下がって、樹たちを隠すようにした。振り向くと、他の霊たちは、樹や春の更に後ろに隠れるようにこそこそと並んでいる。


「おまえら根性なさすぎやろ」と、タヌキが亡霊たちにつっこんでいると、構わずに村井が口を開いた。


「おまえ、太一がしばいたっちゅう電気屋のガキやろ。『堺屋のトラック停まっとったなあ』『なにしててん』」と、大声を張り上げた。


 樹と春の体がびくりと強張った。教室の亡霊の言葉だった。


「あ、お、お見舞いに来てた野洲にくっついて学校にきてたんや!」

 樹は、春を右後ろにかばいながら立ち上がった。村井はげらげら笑いながら、


「学校なんかわしがいくか」と言うと、口に手を突っ込み、「ぐぅぇぇぇ」と何かを吐き出した。樹にはそれは嘔吐物か、大便のように見えて、思わず目をそらした。じょじょに嘔吐物は、汚らしい色のまま人の形になってよろよろと立ち上がった。先ほど村井が飲み込んだ小柄な亡霊とそっくりな、そのまま少し小さくしたような姿になった。ただ、表情はまるでなくなり、だらりとただ立ち暮れているように見えた。


 村井は、この亡霊の抜け殻のようなものの頭をわしづかみにすると、


「ほぅら、わしの忠実な兵隊じゃあ。こらあ、いっぴき捕まえてこい!」と、村井は耳元でがなりたてると、樹らに向かって投げつけた。


「っうわあああああ」

 樹は思わず大声をあげて春をかばった。タヌキが飛びつこうとする脇を抜けて、その兵隊は、樹に襲い掛かった。


「ばーーーーーん」と激しい爆発音がして、飛びかかった兵隊は、消し飛んだ。窓ガラスやドアがびりびり強く振動している。衝撃が腕全体に響き、思わず樹は自分の左手首を右手でかばった。後ろから樹を支えていた春も左腕に抱き着いた。後ろの亡霊たちは、混乱と怯えでわめいている。


 樹の大声と、「ばーーーーん」という爆発音に驚いて、安井は目を覚ました。安井は体をねじって少し体を起こした。


「あ、あんた…洋銀か…ら、と、びだして…きた…」

 紛れもなく安井が最後に見た顔だった。


「じゃかっしゃい!乞食にもの聞いてへんのじゃ。どないなっとんねんこれは!」と村井は、自分の体をどんどんと叩いて叫んだ。


「あ、おまえなんで死んだんか、わかっとらへんねんな。せやから、あの店でなにしてたか聞こうとしとったんやな」と、タヌキが言う。


「どういうこっちゃ。わ、わし死んだんか。こら死んだんかわれ」と、村井は混乱しながらまくしたてた。


「待て待て待て、落ち着け。死んだらもう慌てな。お前は、店の便所に詰まっとったこいつらに憑りつかれて、飛び出してきたんちゃうか」とタヌキは、先輩面をして言った。


「ほ、ほんで…、わ…しにぶつ…かって、川に」と、安井が続けた。


「うんうん」と、後ろの亡霊たちが頷く。


「はああ! なんじゃそれ」と村井は、がっくり膝をつき、うつむいた。村井の肩にぽんと手をかけてタヌキが言う。


「まあしゃあないやろ。一瞬やったけど、憑り殺されたんや。こいつら、あんたに憑りついたもんの、すぐ死んでしもたから、勢いで、こっちのおっちゃん…安井さんか、についてきたっちゅうことやねんな」


「だ、だいたいなんで便所に、ゆ、幽霊があんだけ詰まっとったんや。おかしいやないけ」と、村井はまた大声を出した。


「あ、バルサン焚いたからちゃう?」と、樹が言った。


「バ、バルサンぅ?そ、そんなもんで幽霊が便所に逃げ込むんか」


「でも、お店自体壊して、いるとこなかったみたいやし、すごいたくさん焚いたから、いぶされてお便所に逃げたんちゃう」


「こらおまえら、ほんまにバルサンの煙から逃げて、便所入っとったんか」と、村井は大声で亡霊たちにどなった。


「うんうん」と、亡霊たちは所在投げに頷いている。


「んがあ!」

 村井は怒りのやりどころをなくしていた。


「誰や!誰が、そんなにようけバルサン焚いたんやあ」


「銀さんやで。ようけ持って来はったもん」


「あの婆ぁ!」と叫ぶ村井の形相がみるみる真っ赤に沸き立ち、かき消すように病室から飛び出していった。



「はっはっ、あれあかんねん」と、タヌキは笑いながら樹たちに言った。


「どういうこと?」と、二人が聞く。


「あいつ、この安井のおっちゃんに憑りついてしもとるやろ。よそにいっても戻ってまう。せやから、さっきみたいな兵隊使こうて小学校に行かせとったんや」


「へぇ」と、二人が頷く。後ろに並んだ亡霊たちも小さく頷いた。タヌキはその亡霊たちに向かって、


「わかったやろ。なんかに執着していくら訴えてもなんもならん。もう死んでしもたんや。こんな病院で、会うたこともない、安井のおっちゃんにいくら何言うても、一歩も前に進まん。そのうちあの村井みたいなもんに食われたらどうしようもないやろ」


 亡霊の一人が、その場に座り直し、樹に向かって、頭を向けた。


「Qちゃん、…成仏させたれ」

 タヌキは、樹のそばに膝をつき促した。樹は、タヌキの顔や安井の顔を見る。安井も穏やかに頷いた。


 樹は、そっと、手のひらを亡霊に近づけ触れた。小さなスパークが広がる。


「ばっ、ばっばっ」と光と音が強弱し、連続しながら亡霊は光の中に消えた。


 樹は、「ふー」と大きく息を吐いた。ほかの亡霊たちは、はらはらと涙を流しながら、光を眺めていたが、一人、また一人と樹の前に座り始めた。


「春ちゃん」

 樹は右手を出した。春は黙ってその手を握る。二人は、亡霊に近づいた。


「さようなら」

 樹は、そっと、手のひらを亡霊の頭にあてた。スパークと爆発音が続いていく。室内に光と振動と爆発音、香ばしい匂いが広がっていく。


 安井は、ベッドの上で、全身を震わせながら、光と振動、そして爆発音を浴びていた。


「ぉお…、おお、おおお…」

 やがて、そこにいた亡霊は全て徐霊され、静けさと香ばしい匂いだけが残った。 


「おおお…、おお、おお!」


「あ、『砲弾ショック』!」


 安井のうめくような声に樹達は、はっとして振り向いた。


 安井は、そのまま力なくベッドに臥した。肩で息をし、虚空を見つめるように焦点が合わない。


「お、おっちゃん!」

 樹と春はベッドに駆け寄った。安井は、そのままの姿勢で荒い息を続けている。


「ぼ、僕、看護婦さん呼んでくるわ!」と言うと樹は駆け出し、ドアを開いた。


「待ったあ!」と、タヌキが呼び止める。


「えっ」

 樹と、そして、樹に追いついた春が振り向く。安井が右手を少しかざしている。


「行かんで…ええ」

 安井は、大きく息を吸い、長く吐いて、ゆっくりとベッドの上に体を起こした。


「お、おっちゃん」

 樹と春は、そっとドアを閉めて、再びベッドの脇に立った。


「へ、平気や、大丈夫。…ぁぁ、楽や」

 安井の体から強張りが抜けていく。


「ほんま?どうなってんのん」と樹は、安井とタヌキを交互に見ながら尋ねた。


「ほんまや。座ってな僕。ほんまにもう大丈夫や」と、安井の言葉は急にはっきりしてきた。樹は促されるままに丸椅子に座った。


「あ、あんな光や爆発やびりびりした体に伝わるもん戦争以来や。でも全然ちゃう。まったく反対向きの光と爆発、そうや、あんな光と爆発初めてやった」


「あんた、砲弾ショックが治ったかも知れんってことか」と、タヌキが聞いた。安井は、それには全く気付かないように言葉を続ける。


「ずっと続いとった悪夢が晴れたような気持ちや。ああ!ええ気持ちや!」と安井は、大きく伸びをしかけて、腕の端がひきつったようになり、「痛、た」と腕を縮め、笑った。


「うわ! そうなん!やったあ! やった、なあ春ちゃん」

 樹は、春と手を取りあって飛び上がった。


「あっ……」

 安井がその樹の様子に目をやって、気づいた。


「い、僕の妹ちゃん…、それに付き添いの人、どこいったんや」

 安井は、ベッドからゆるゆると立ち上がって、二、三度手を振り、そこに立ち尽くした。


「見えんようになってもた。聞こえんようになってもた。なんかしゃべってくれてるか?」と安井は、樹に向かって聞く。


「うはは、こりゃ砲弾ショックが治ったついでや。見えんでええし、聞こえんでええやろ!」とタヌキは安井の顔の間近でおかしな顔やからかうような仕草をして、大笑いした。春もその様子を見て声を出して笑っている。


 樹は、


「砲弾ショックが治ったついでやって。見えんでええし、聞こえんでええやろ!っておっちゃんが言うてます。春ちゃんも嬉しくて笑ってます」と笑いながら実況した。

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