第4話 守護霊のタヌキ

●守護霊のタヌキ

 翌、6月6日日曜日、のんびりと目を覚ました樹は、ポンポンと股間を叩きにっこりすると、家族がまだ眠っている様子を見てのろのろと立ち上がった。


「しゅくだい」と、春が言う。


「うん、おしっこ」

 おぼつかない足取りで樹が階段に一歩を踏み出した時、右足のかかとが花に触れたような気がした。樹は反射的にその花を避けた。次の瞬間、樹は階段を踏み外し、まっ逆さまに階段を落ちようとした。


「三点支持や!」と、どこからか声が聞こえる。樹は反射的に体をつっぱった。


右膝が階段を、左足が壁を、左手が手すりを掴んでいた。


「や、やったぁ」

 体の動きが止まり、樹は右手を階段について、同じ段に両足を置き、真っ直ぐ立った。


 まるで階段から、側転で一回転したようになった。樹の心臓はドキドキしている。


「ふー、落ちてまうかと思ったぁ」「よかったね、さんてんしじ」「うん、あ」

 階段下の踊り場を見下ろすと、そこにタヌキがしゃがみこんで、樹を受け止める姿勢をとっていた。ゆっくり立ち上がる。


「ようそこで止まったのう」


「おっちゃんが言うてくれたん?」「おう」と、タヌキは軽く頷いた。


「わー、ありがとう。落ちたらすごい痛いねん」「いたいね」


「そやろな。今のは足を折るはずやったんや」


「な、なにそれ?」と、二人は聞き返しながら階段を降りる。茶の間に三人が座った。


「お前に夢で話したこと覚えてるか」


「うん、3つやろ」と、樹は答えると春の回答を待った。春が言う。


「もんどうむようにけさんこと、あいてにたのまれて、そうおうのれいもろたらうけてもええ。ちゃんとはなしきいて、じぶんからきえたいっちゅうてからけすこっちゃ」


「そや、自分でも覚えてなあかんやろ」「へへ、親とか守るって道理があったらええねんで」


「そやったな」とタヌキは軽く頷いた後、「おまえ夢で話す前にやらかしとったやろ。足骨折して、図書館もしばらく行かれへんようになる天罰受けるとこやったんや」と、少し低い声で言った。


「ええっ、いかさま?」


「そんなんちゃうわ。お前、風呂屋でやくざの兄ちゃんの憑きもんごっそり洗い落としとったやろ」


「あ」

 確かに太一のシャンプーをしたり、流してやったり、刺青に触っていた。


「ええー、そんなんもあかんの」


「そや、せやから、そもそも何かに憑かれてる奴はお前を触りにいかへんのや。怖がらしたりして近づけさせへんようにしよる」

 そうだ、いじめっ子達も離れてからかったり、誰かをけしかけてきている。


「で、でも家族とか祥子ちゃんとかは」


「お前に触ってくる奴は何もついてへん奴か、自分が綺麗になることがなんとなくわかってる奴ちゃうか」。続けて、「堺屋上等兵な、そもそも親子やし、当たり前みたいにお前に触って、憑依の掃除とかできてるんや。嫁はんもそや。二人とも調子崩すことものうて元気やろ?」


「ほんまや。あ、でも鮒の兄ちゃん自分から座ってきてんで」


「細かいことまでわしにわかるかい。とにかく、今は、罰があたりかけたんや」

 樹はうなだれてしまう。少し間があいた。


「いつき、うけとめたら、たぬきさん、きえてた?」と春が聞いた。


「あ、そや。僕に当たったら、おっちゃん消えてまうやん!」


「まぁな」と、たぬきはそっぽを向いて照れ笑いした。「お前には守護霊おらへんしのう」


「えっ、おっちゃん僕の守護霊になってくれるのん?」


「触ったら消えてまうから、大したことでけへんけどな。あ、お前の前の守護霊さんもそうやって消えたんかも知れんのう」


 樹は驚き、しょんぼりとした顔になった。「ぼくが。そう…なんや」


「まあまあ、消えたもんはしゃーないやろ。そのうちもっとええ守護霊来てくれるで。それまでわしで我慢しとけ」と、たぬきはことさらに明るく笑って見せた。つられて二人も笑い出す。その時、店先の電話が鳴り出した。


「リリリン、リリリン」

 誰もまだ起きてきていない。樹はまだあまり電話に出たことがないが、普段の父母の様子を思い出して受話器を取った。


「もしもし、堺屋電工舎ですー」


「あ、警察のものですが、……えっと、お父さんかお母さんいてはるかな?」


「は、はい、ちょっとお待ち下さいー」

 樹は受話器を電話の横に置いて、二階に駆け上がった。





●事件現場の洋銀

 堺屋の軽トラックが駅前に向かって走っている。


「洋銀の工事現場に泥棒入ったんや」と、瀞が言う。


「ええっ」

 樹は瀞に引っ付いてきていた。


「犯人のとばっちり受けて、あんたらがゴミドン言うてる『安井さん』、怪我してしもたらしいんや」


 洋銀の前には、パトカーが停まっている。その鼻先に軽トラックは停まった。


「あ、警察の山下言います。堺屋さんでんな。わざわざすんません、ここの工事お宅がやりはるそうですな」


「はぁ、そうですけど」


「怪我したゴミドン、知り合いみたいですな」


「はぁ、けどこのへん、みんなよう知ってはるんちゃいますか」


「あんたんとこの商店街とはちょっと離れてまっせ」

 山下の疑り深い言い様にむかっときたのは、瀞でも樹でも春でもなく、タヌキだった。


「おい、お前、何偉そうに言うてるねん」と、山下の顔に噛みつきそうな勢いだ。


「おっちゃん、やめとき、聞こえてへんて」と、樹は恥ずかしそうに間に入った。


「何言うてんねん。堺屋上等兵が疑われてんねんぞ。おまえもしっかり実況せえ」


「え、ええ~、実況?」


 瀞は、普段の穏やかな表情のまま、樹の両肩に手を置いて言った。


「どんな成りでも立派なうちのお客さんや。こっちでは店に入りにくいかも知れんけど、うちの店では気持ちよう電池買うてくれはりまっせ」

 山下は少し押し返されたような顔をした。


「そや、僕、ラジオの単三電池換えてあげたわ」

 山下は、顔を背けてポケットから手の平程のラジオを取り出した。山下は浮浪者が不相応なトランジスタラジオを持っていたことを怪しんでいるようだ。


「ボク、そのラジオてこんなんか」


「そや、これやで」と、樹は即答した。山下は樹にラジオを持たせると、


「単三で間違いないか」と、瀞と樹をジロリと見た。


「いつまでごちゃごちゃ細かいことを」と、タヌキが声を荒げようとした時、


「ナショナルの赤の単三が四本、間違いないで」と、樹はラジオの裏側に爪を引っ掛けると、簡単に裏蓋を外した。


「ほら」

 樹は赤い単三電池を四本取り出してみせた。


 山下は小さく「ふん」と言って顔を背けた。更に、軽トラックに一旦戻った堺屋の主人が目の前にドライバーを持って来てラジオを分解し、カバーの裏に「堺屋電工舎」と紙が貼られていることから、堺屋から買っていたことまで判明してしまった。


「なんでわざわざ、裏にお宅の店の名前入れますねん」


「あんな恰好しとったら、今みたいに持ち物すぐ疑われはるんですわ。こないしといたら、問い合わせが入って、濡れ衣やってわかりますなぁ」


「あ、お父さん、中びしょびしょや」

 電池ケースの隙間から滴が落ちた。


 ようやくゴミドンは本当にとばっちりを受けただけと警察も見なしたようだ。


「まあ、昨日と違うとこないか、見てもらえますか」と、皮肉な笑い顔をして山下は、二人を店内に入れた。


「あ、特に怖いもんもないから、ボクも入ってもろてよろしいで。昨日は一緒におったんやろ。なんか気ぃついたら、この刑事さんに教えてな」と言葉面は優しいが、山下からは、餌を求める烏のような仕草が滲んでいた。


「おかしいのはここですねん」と山下が指差す先には、扉の外れた便所があった。


「ほら、入り口からずっと村井の足跡…」と、山下が指を動かしていく。


「一旦二階に上がって…降りてきて、ここでなんか燃やしてます。ほんで便所に向かった」

 便所からは無数の足跡が裏の坪庭に続き、打ち破られた裏の戸口に向かっていた。


「便所の戸はちゃんとついてましたで」と瀞は、引きちぎれた蝶番を指差した。樹は、便所から裏の戸口にかけて、白い残りかすが空気に溶けかけているのを眺めていた。それは戸口の外の路地に続いている。


「便所からの足跡、事件の前からついとったってことおまへんか」


「え?」

 瀞と樹は、思わず山下を見た。


「この便所、押し込んでも二、三人…五人は無理や。でも足跡は、十人分以上はおまっせ。けどそんな人数が逃げるとこ誰も見てへんのですわ」と山下は顔をしかめている。


「そら、埃舞うから、裏も開けるし、大工も四~五人、タバコ吸いに出入りは。ようわかりませんけど」


「山下はかなり飲んどったようです。せっかく鍵盗んでんのに、泥酔して、泥棒の手口も足跡ベタベタ、…素人並みでんな。最後は錯乱して飛び出したやなんて」


 瀞は、つきやぶられて散らばった材木の上にも、多くの足跡があるのをちらっと見た。


「なんか変なとこおまっか」と、あからさまに山下が聞く。


「工事、いつから掛かれます?」

 瀞は、山下がこの事件を早く終わらせてしまいたいのだと感じた。こちらも工事に掛かったところだ。便所の戸が壊れた後にできたであろう、足跡には気づかないふりをしておいた。


「ま、早よ返事しますわ」と山下が言った時、洋子と銀、そして幸子が入ってきた。堺屋との挨拶もそこそこに、


「なんも盗られへんかったし、村井さんも勝手に川に飛び込んで死んだんやろ!」と、銀がいきなり捲し立てた。


 それを尻目に、「子供も連れてるんでここらで」と瀞は、樹の手を引いて表に出た。


「話途中とちゃうの?」と樹が聞くと、瀞は、人指し指を唇にあて、


「あんなん、結果だけ聞いたらええ。関わらんでええ」と、いつもの合理的な考えがこんなところでも出ていた。


 表にはタヌキが立っている。開いた扉ごしに現れた樹にタヌキは、驚いた様子だ。


「おうQちゃん」「あれ?さっきおらへんかったやん」と、樹がひそひそ話すと


「わからん、ついていったろう思たけど、なんや入れなんだんや」「ふうん」


「それよりQ,ラジオ持ったままか」

 瀞は、もちろんそんなタヌキとのやりとりなど気づかぬままで樹に声を掛けた。「うん」

 樹は、両手でラジオを大切に持っている。


「よっしゃ。持って帰って、直してみよ」「うん!」

 樹は、父の優しさが嬉しかった。


 表には不動産屋が立っていた。それとなく様子を見ていたようだったが、堺屋親子が出てくると、声をかけてきた。


「どないでっか」


「さあ、皆目わかりませんわ」と、瀞はとぼけた返事をした。


「いやぁ、死んだんが、杉原の組のもんですやろ、社長がピリついとって」

 杉原は、村井の死体に残った不自然な手形にいち早く不信を持ち、調べるように指図を飛ばしていたようだ。


「なんやお前。そんなもん中の刑事に聞いてこいちゅうねん」と、再びタヌキが声をあげる。樹が、また、割って入るように、瀞に声を掛けた。


「僕、荷台に乗っとくわ」

 そう言うと、タヌキを追い立てるようなそぶりをする。瀞と不動産屋の会話は続く。


「工事止まっても困るし、このまま進めても縁起悪いままですやろ。どないするか…」と、瀞が言っている。


「便所も庭もバンバーンて潰して店にしてまえや」と、またタヌキが割り込む。


「ほれ」と、手で煽られて、樹もつい実況してしまった。「お便所も庭も潰して店にしてもたら」


「あ、そらええなあ。さっぱり取り替えて厄払いや。店も広げて、工事料もはずんでもらお」

 ぽんと手を打って不動産屋は、店の扉を開いた。体が店に入りかけたところで、顔だけを外に残し、


「村井はん、大人数に焼き入れられた後で川に飛び出して頭打って死んどって。相手によってはもめまっせ」と言って消えた。


 樹は荷台の一番奥にもたれた。タヌキもそばに座り込む。


「お店の奥のな、お便所からいっぱい幽霊の足跡が川までついてて、川に落ちてしもてん。ずっと幽霊のカスとか残ってたもん」


「ほほっ、名探偵みたいやな」

 軽く樹は笑ったが、樹も春も、これで幽霊たちが自分や父親から離れたことにホッとしていた。




●タヌキ、業を埋める

「一先ず、よう乾かそな」

 堺屋の作業台に分解されたラジオが広げられた。タヌキは狭い店内を覗いてまわっている。


 樹たちは、ようやく遅い朝食にありついた。さと子は、バレエの発表会に備えてもう練習に出かけたそうだ。


「朝から、妙なところわざわざいかんでよかったんよ」と千鶴子が少し咎めるような、気の毒がるような声を二人にかけた。朝食を終えて、二階に上がると、樹と春はやっと宿題を再開した。





 宿題が終わった頃、気が付くとベランダ側の窓にタヌキの影が映っている。樹が木製の窓を開けると、ベランダに腰かけたタヌキが、涙を目に浮かべて、しみじみとした表情で樹と春に顔を向けた。


「どないしたん」


「さっきな、大屋根の熨斗瓦に腰かけて、ぼんやりしとったんや」「うん」「うん」


「ほんだら、ずっと向こうからその熨斗瓦を歩いてくる猫がおってな」「へえ」


「明るい茶色で足の太い猫か犬かわからんようなやっちゃ。こいつ近くまで来て…、『一つ断ち切りなさいましたね』て言うたんや」


「どういうこと?」と樹が言う。春も樹の顔を見て同じように首を傾げた。


「『既に死せる身であるにせよ、その身を投じて、幼き子供を救わんとされたこと』…こんなこと言うたんや」

 二人はしばらく考えていたが、


「僕らが階段落ちんようにしてくれてたこと?」と言った。タヌキはしみじみと泣きながら頷いた。


「…そや。…輸送船の時、自分がどんな目に合うてでも、坊ちゃんを助けなあかなんだ。輪廻、言うてわかるかなぁ、これまできっと何回も、子供を見捨てて我が身を守ることを繰り返してきとったんやて。何べんも生まれ変わる中で、今、そういう自分を断ち切りなさいましたなちゅうこっちゃ」「う~ん」「う~ん」


「また難しい話で悪いのう。輪廻の業を一つ埋めたんかも知れん」

 二人には少しわかりにくいようだ。タヌキは目で空を仰いでしばらく考えて言った。


「何べん生まれ変わっても、同じような失敗することがあるんや。それがもう失敗せんようなったらええやろ」「あ、うん」

 二人は頷いた。


「そんな試練はいつでも用意されてんねやな」「うん」「あ、朝の天罰の話も聞いといたったで」「え?」「お前、足踏み外す前、花踏まんようにしたやろ」


「え、そやったかな…、あ、うんたぶん」「それや。ほんまは階段に花なんか生えてへんけど、無意識にでもそういうもんを大切にする心があったから、わしの『三点支持』の声が聞こえたんや」


「ふぇ…、なんか難しいなぁ。また、罰当たんのかなぁ」「むつかしいね」


「ほんまやな。またそのうち誰か教えに来てくれるやろ。あんまり気にすな」


「うん」

 樹の考え込む性格と、楽天的なタヌキの性格が出ていた。その時、階下から母の声がした。


「Qちゃ~ん、お父さん呼んでるよ」


「おっちゃん。ほな」と、樹が階段を降りていく。タヌキはもう少し話したそうな顔をして見送った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る