第3話 事件

●汚らしい心

 風呂屋の暖簾をくぐり出ると、樹の背中を見送りながら、男は商店街を三福荘の方に歩き出した。


 商店と街灯が途切れた辺りに畠中幸子が現れた。風呂屋に行く支度をぶら下げている。幸子は、男に気づくと一瞬立ち止まり、また歩き出した。


「太一っちゃん、村井さんが『太一おるか』って来てるよ」

 幸子は、作り笑いを浮かべて、少しぎこちなく髪を手で直したり、スカートの裾を気にしている。


「なんやろうのう」

 太一は、いつもなら疑り深く見抜いてしまうはずが、何も気づかず、言葉を返した。


 (バレてないわ)先刻、幸子は、自分の部屋に来た太一を風呂屋に行かせた間に、訪ねてきた村井に身体を売っていた。やがて帰ってくるはずの太一が気になり、また、自分の身体を洗うため、風呂屋に行こうとしていた。ところがその太一といきなり顔を合わせてしまい、その場で体裁を繕っていた。幸子は、少しほっとした顔を隠しながらすり寄ると、太一の手に千円札を握らせ、


「そこの酒屋で、ビールと摘まめるもん買うて帰って」と、少し気が利く女の振りをした。


「おう」

 太一の返事はいつになく素直になっている。幸子は、そんな太一を少し変に思いながらも、隠れるように風呂屋の暖簾をくぐって行った。






 下宮房子の家の客間に明かりがついている。太一の兄貴分といった関係の村井が、だらしなく柱に持たれて、盆に置かれたビールをすすっている。つい先程まで、幸子と絡み合っていた納戸にはしわになった布団がそのままになっていた。


 房子は、先日元上司の池田に連れて行かれた洋銀で幸子と知り合った。幸子は店の改装後、二階に住まわせて貰う約束を銀と交わしていると言う。理不尽に三福荘を追い出されたと言い繕って、店の二階が出来るまでという約束で、房子の家の納戸を借りている。


 房子は今夜、実家に泊まることを幸子に告げていた。その隙につけこんだ今夜だった。


「村井の兄貴、遅うなりました」

 太一は、縁で頭を下げると、買ってきたビールと摘まみを盆に置き、畳に正座した。


 村井は、青白い顔色にギラギラした目の痩せた男だった。柱にもたれたまま、ジロリと太一を睨む。


「おまえ何でまだこの辺うろついてるねん」

 村井は、先日の三福荘の件を言っていた。「社長に恥かかして、まだ…」


「あ、そんなつもりは」と言いかけて太一は「しもた」と思った。村井は目下の者がわずかでも言い訳をすると鉄拳を振るう。自分も何度も痛い目にあってきた。いつもの自分なら、もっと上手く立ち回ったところだ。太一は身を固くして堪えようとした。が、村井の拳は飛んでこなかった。


 村井は、ゆっくりとコップにあけたビールを飲み干すと、盆に「コトリ」と音をさせて置いた。


「どないしたんや」


「えっ」


「ガキしばいて、なにしとんねんちゅうねん」

 村井は、社長の杉原から騒動の話をされ、自分の兵隊ならよく締めておけと言われてきたのだ。少し調子をやわらげて村井は続けた。


「なんか溜まってんのか。せやけど、したとこやってんやろ」


 村井は、太一が今夜幸子と楽しむことがわかっていてわざとここに来ていた。弟分をいびって屈服させてやろうという魂胆の持ち主だった。太一の不在を知ると、更に屈辱的な思いをさせようと半ば強引に金を握らせて幸子を弄んだ。なにも気づいていない太一に親切ごかしな言葉をかけながら、村井は汚い快感に浸っていた。


「す、すいません」

 ついさっき、風呂屋で自戒したところを言い当てられた気がして、太一はうろたえた。あの時、これまで自身に憑きに憑いたものが過敏に樹に反応したことに加え、樹に一種の天罰を下す力が働いたことも、太一は知る由もない。また、自分から樹を殴りに行ったことが、逆に自分の憑依の一部を消滅させ、復活した自身を守る本来の力に導かれて風呂屋に行き、一切を流せたこともわかっていなかった。


 太一は、どうしたら良いかわからなかった。これまでなら、「ありがとうございます」と頭を下げながら酌をしにいっていたところだ。だが今の太一は自分を守り導く力にくっきりと導かれ、それが村井への恐れや警戒、怯えのようなものになって表れていた。


「なんやなんや、この村井の兄貴に言うてみぃ、もっとええ女抱きたいんか、酒か」

 そう言いながら、村井は、太一の背中に左手を回し抱きかかえた。太一はぞくりとした。冷たく生臭くて大きなものが、身体の中に、ぬるりと這い込んでくる気がした。太一はそれが、入り込んでくるに従って、心に拡がるしんとした冷たく重い怒りや焦りの感覚に、自分の暖かい力がかき消されていく、いやな気持ちに覆われていった。太一は、村井を突き放して飛び退くこともできず、辛く冷たい、それでいて懐かしい感覚に支配されていった。


「へ、へへ、わしにもメンツがあるんで」

 太一は、思ってもいないことを喋っていた。あ、これはあの時と同じようだと思い出した。


「なんじゃわりゃこら!われこんな子ぉおったんかい!」「余計なとこに顔突っ込んでくるからや!」


 あの時も誰かの言葉が勝手に口をついて出た。太一は、それが自分の心と染み重なり、自分の感情のようになっていたことに、ここで気づいた。


「う、うあっ」

 吐き気が込み上げる。


「すまん、兄貴」

 太一は、這いずるように台所に駆け込み、流し台に頭を突っ込んだ。


 首をかしげ、村井は立ち上がった。


「ラリっとんか…、おっと」

 村井は、太一が吐いている隙に、布団の傍に置き忘れていたメガネを取りに、納戸に入った。以前房子が使っていたタンスは、居間に動かされている。そこには幸子のわずかな引っ越し荷物が隅にかためて積まれている。


 村井は、そこに「洋銀」と書かれた札がついた鍵を見つけた。


 太一は、空えずきを数回し、その場にしゃがみこんだ。


 えずきが収まるのと、村井が引き上げるのは、同時だった。太一の身体から、先程の生臭くて大きなものが、ずるずると村井に引きずられていった。


 太一が振り向いた時、そこにはがらんとした客間があるだけだった。




●泥棒

 村井は、深夜の駅前の飲み屋で、悪だくみを巡らせながら、閉店まで時間を潰した。

 人通りが絶えた頃店に忍び込んで、金目のものを盗み、鍵を幸子の手元に戻しておけばいい。売春をしているような女だ。叩けば埃が立つだろう。幸子が逃げ出すなら、かくまう振りをして金になるところに売り飛ばせばいい。太一も容疑者になれば薬物検査で黒だろう。かくまってやって恩を売るも良し、逃がして厄介払いをするも良し。


 村井は、飲み屋のトイレにたった時、柱にかかっている「非常用」の懐中電灯を盗み、内ポケットに隠した。


 村井は人通りが無くなった午前1時、飲み屋をでた。周りを見渡し、鍵を開け、忍び込んだ。かなり飲んでいるが、足取りは確かだ。飲み屋で盗んだ懐中電灯であたりを照らす。


「くそ、なんも残ったらへん」

 村井はブツブツ言いながら、殺風景な店内を物色する。階段をあがると、二階にはいくらかの荷物が運び上げられている。手提げ金庫がある。鍵は掛かっていない。開けても中身は空だった。が、村井は、金庫が二重底になっていないか、ひっくり返して、畳の上で手荒く踏みつけた。


「かたん」と軽い音がして、上蓋の内側のプラスチックが外れ、そこから封筒が出てきた。


「ほほ」

 封筒には10万円が入っている。早速内ポケットに入れる。


「因業婆め」

 村井は、上蓋などをもとの形に戻し、金庫をもとの場所に戻した。露見を遅らせるためだ。村井は階段を降りた。座敷を解体したところは、土がむき出しになっている。村井は、10万円を自分の財布に入れ、持っていたマッチで封筒に火をつけた。封筒がすっかり燃えてしまうように、指先でつまんだまま、ひらひらと角度を変える。暗い店内で、ぼんやりとした火がゆらゆらとうごめいた。


 一方、洋銀の裏手の川沿いの路地にも動く影があった。料理屋から出されてくる食べ残しを漁りに来たゴミドンだった。ゴミ箱を片付け、料理人に挨拶をして、褒美に残り物の折りを受け取って、次の店に移っていく。


 次の日本料理屋に行く手前でゴミドンは、洋銀の坪庭越しに、店内でぼんやりとした光がゆらゆらと動くところを目にした。今日、堺屋の親子が仕事をしていたところだ。ゴミドンは裏木戸の隙間から中を覗いた。


 火は燃え尽きた。村井は懐中電灯をかざし、「便所借りまっせ」と言うと、奥の便所の戸を勢いよく開いた。


 そこには、昼間バルサンの燻煙で追いやられた幽霊たちがすし詰めになっていた。様々な形相や、白骨化した顔、手や足がぎっしりと便所に詰まっている。村井は女や金、人を騙し、陥れることもなんとも思っていない男だった。ここにすし詰めになっている幽霊達にとってこれ以上憑りつきやすい獲物はない。幽霊達は一気に村井に襲い掛かった。


 恐ろしい形相で、すべての口が怒り、呪い、あるいは、不平、言い訳を叫んでいる。何十本もの手が伸び、村井の体を掴み、引っ掻き、殴ろうとする。恐ろしい勢いで村井に向かって突っ込んできた。


「ぎゃああああああ」

 裏の戸を突き破って、村井が飛び出してきた。真っ青な顔で、ゴミドンが立っている裏木戸を蹴り破って表に飛び出した。


 いきなり突き破られた木戸に体を打ち付け、ゴミドンはよろけた。そこに村井が突っ込んでくる。


「う、うわあああああ」

 二人はそのまま裏の川に落ちていった。


 叫び声を聞いた店主たちが裏に飛び出し、警察を呼び、たちまち付近は大騒ぎになった。


 村井は、護岸のコンクリートに頭から突っ込み、即死だった。ゴミドンは後頭部から血を流しながらも息がある。警察官は息を飲んだ。


「何があったんや」

 引き揚げられた村井の顔は、頭頂部がばっくり割れ、恐怖にひきつり、目を血走らせたままカッと見開いて、自身も何か叫んでいるかのように口を大きく開いている。また、顔を含む全身に、無数の打撲痕と引っ掻かかれた痕が見つかった。また、何十人分もの手形や強く握られた痕もあった。


 一方のゴミドンは、村井に巻き込まれて後頭部から落ちた怪我以外にこれといったものは発見できなかった。




●三福荘包囲

 真夜中の三福荘に電話の音が鳴り響いた。眠たい目を擦りながら、祥子が受話器を上げる。


「はい、三福荘でございます」

 みるみる祥子の表情が緊張していく。


「少々お待ち下さい!」

 受話器を傍に置くと祥子は、急いで敦子を起こした。


 敦子が起き出してくるのを確認すると祥子は、廊下へ飛び出していった。敦子は受話器を耳にあて、


「三福荘管理人の雪上と申します。もう少しお待ち…、ええ、ええ、うちには改装の間だけちぃて…」


「こちらです」

 祥子の声がする。管理人室の扉が開き、洋子と銀が入ってきた。洋子は銀よりずっと背が高く、スタイルも保っている。銀がずっと小言のように何かを喋り続けているところを「しっ」と戒めて、受話器を取った。


「もしもし、洋銀の沖洋子と申します。はい、今からですか?はあ……」。洋子は受話器の口を押さえて、「今から警察が迎えにくるて」と、早口で伝えた。



 表では警邏用の自転車のスタンドを立てる音がしている。巡査が表道路で合図をしたのか回転灯を回したパトカーが、三福荘の前の広場に二台停まった。


 パトカーから六人の警察官が降りてきた。何人かが家の裏に回り、三福荘全体を固めた。最後に降りてきた背広の男が、玄関から入ってきた。中肉中背だが、全体に烏のような印象で、日に焼けた顔、髪をオールバックにし、細い眼鏡をしている。眼鏡の奥の細い目は、獲物を探すようによく動いていた。


「警察で刑事やってます。山下です。洋銀のママて?」


「私です」「うちや」と、二人が返事をした。


「今さっき電話で話した洋銀のママの沖洋子です」と洋子は、改めて落ち着いて、品よく、深く頭を下げた。


「すんませんねぇ。こんな時間に。けどお店の裏を突き破って男が飛び出して、そのまま浮浪者巻き込んで川に突っ込んで死んでしもたんですわ」


「ど、泥棒かいな!」と、銀が声を荒げた。


「そない思いましてんけど、こちらの鍵持ってますねん。従業員とか身内とか…」


「そんなんおらへん!うちにはチコだけ、チコが鍵も持ってるはずや!」と、銀が捲し立てる。


「どこですか。そのチコちゃんて」と、山下が聞き返す。


「え、えっと、すぐ裏のなんたらいう家にひとま借りたいうて…」と銀は、急にたどたどしくなる。


 洋子が前に出ていた銀の腕を引いて、前に出た。


「ここのすぐ裏の『下宮さん』っちゅう家ですねん」

 山下は、最初に自転車でやってきた警察官を手招きした。


「おい、片岡、裏手の下宮て家や。あ、チコちゃんて、何て言いますねん」


「畠中幸子いいます」


「はっ」

 片岡と呼ばれた警察官は、他二人と下宮家に向かった。


「な、なんや大袈裟なことですなぁ」と、洋子が言う。山下は、


「まぁ、簡単な空き巣なんか、ちょっとわかりませんねん。巻き添えの浮浪者は近所でも馴染みのゴミドンて呼ばれてるやつですけど、死んだ方が、杉原組の村井っちゅう奴で、まあわしらの管轄では有名人ですねん」


「ま!村井さんて滝渕さんとよう来てた。はっ!チコ!」

 銀は、びくんとして顔色を変えた。後ろで見ていた敦子や祥子にもわかる様子だった。


「どないしはったんですか銀ママさん」と山下は、銀の顔を覗き込む。


 幸子の売春は銀の口利きで行われていた。村井や滝渕太一も馴染みの客、幸子が口を割ってしまえば自分にも類が及ぶことに気づいた。


 洋子は、銀の背中を強くつつくとそっぽを向いた。


 しばらくして、片岡が戻ってきた。眠そうな幸子と太一を連れている。


「いっとき村井も下宮宅に来とったらしいんですが、畠中さんが風呂屋から戻った頃には、もう村井はおらなんだそうです」と、片岡が報告する。


「店の鍵は?」と、山下が聞く。


「うちは知りません。あれへんようなってたんです!ちゃんと置いといたのに!」と、幸子が大声を出す。山下は、まあまあとなだめた。


「滝渕、おまえもわしと馴染みやのお。そっちのチコちゃんとずっと部屋におったんか」と、山下が少し構えながら聞く。


「おう、おったのう」

 あまりにも平凡な太一の答え方に山下は、力が抜けた。


「なんや調子狂うのう。おまえそんなに素直な奴やったか」

 山下の言葉に反応したのは幸子だった。


「ほんまや!そや!風呂屋の帰りからおかしいわあんた」


「お、おう」

 太一自身もそれは感じていることだ。だが理由を説明などできない。


 山下は訝しい顔で、太一と幸子を見ていたが、


「ちょっと手え見せてくれるか」と、太一の拳を確認した。継いで幸子の指先も確認する。真っ赤な爪は先まで綺麗に手入れされている。


「いやぁ、こんな真夜中に失礼しました。明日改めて署の方にお願いします」

 山下はそう言って、踵を返した。玄関を出ると、山下は、


「片岡、二人くらい出して、念のため、今夜は、滝渕太一と畠中幸子見張っといてくれ。やくざのいざこざっちゅうのかもわからんしな」

 一同は敬礼した。

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