第2話 いかさまと執着
●いかさま
「昨日、焼きそばしてへんかったからなぁ」と千鶴子とさと子が、鉄板の上でキャベツを炒め始めている。瀞は、ふくらはぎをさすりながら食卓の座についた。
「痛い、痛い、足つったんかな」
樹が見ると、乳白色の霊の残骸のようなものが瀞の足首に絡み付き、触手のようなものでふくらはぎを刺している。樹は、怖い気持ちを抑えて、意を決した。
千鶴子が炒めたキャベツに麺を載せ、熱したスープをかける。「じゃーー」という音に紛れて、樹は乳白色のそれをゆっくり握りつぶした。それは最後にあえぐように「いかさま…」と呟くと、みるみる崩れて空気に溶けていった。樹はそのままふくらはぎから足首にかけて、手の平の体温を伝えるように撫でた。
「ふーっ、楽なったわ」
「おとうさんよかったね」
先に言ったのは春だった。樹も「よかったなぁ」と続けた。触手の先が散逸するのを見届けて、樹は手を離した。
「洋銀からずっと?」
「そや、ようわかったな」
やっぱりあそこの欠片だ。樹は、バルサンから逃げて父の足に絡み付いて来たものと思った。
「もうついてないかな」と樹は頷きながら、
「肩こりは?」と肩や背中に手を当てた。微かに青白い煙が沸いたようになったがそれっきりになった。
樹は、食卓の自分の座に戻ると「洋銀ってお店、気持ち悪かったわ」と言った。父は苦笑いした。
「昔はもっと際どい店でな、ちょいちょい喧嘩沙汰もあって修理よう行ったで」
「なんで喧嘩すんのん?」と、さと子が聞く。
「ホステスが煽って客に博打させるんや。銀さんが胴元なってな。大きく勝ったらホステスと座敷やら二階に上がれるような…」と、父はここで子供にする話ではないと気付き、一旦、口をつぐんだ。
「飲んだ上で、金賭けて、いろんな欲が絡むと喧嘩も起こるんや」
「いかさまって?」
「相手が負けるように細工することや。よう知ってるな、そんな言葉」
「えっ、あ、えっと…」と、樹が言い淀んだ時、
「できたで」と、母が二人に声をかけた。
いかさまの話は、それっきりになった。
●春、夢のようなひととき
食後、樹は一旦宿題を片付け始めたが、半分を過ぎたころ、そのままうとうとと眠ってしまった。さと子がそれを見つけて母・千鶴子に知らせ、千鶴子は布団を敷いて寝かしつけた。
樹はぐっすり眠っていたが、春はうとうととしていて抱き起こされ、寝かされるのを心地好く感じていた。
千鶴子は、樹の寝顔を確認すると、前髪をちょっと直してやった。春は、目を開き、母を見た。
「おかあさん」
春は言ってみた。樹の口が動いて声が出ている。
「あ、起こした?」と、千鶴子は微笑んだ。
「ううん、ありがとう」と恥ずかしそうに春は、布団の裾を両手で引き上げ、顔を隠した。
「春…ちゃんか?」
千鶴子は、先程のイントネーションや仕草から気づいた。
「うん」
春は布団に顔を埋めたまま頷く。
「うん、うん」
千鶴子は頷きながら、布団から覗いている髪を優しく撫でた。
「いつもQちゃんのことおおきに、ほんまありがとうなぁ」
春は小さく頷いた。そのうち、深い寝息をたて始めた。
千鶴子は、心にしっとりと温かいものを感じた。このように春を直接感じたのは二度目だ。普段、樹とどのように過ごしているのだろう。樹の最近の落ち着きぶりは、春のどんな関わり方で生まれてきたのだろう。次々と様々な思いが溢れてくる。
「おかあさん、ありがとうって…」と、つい先程の春の言葉を口ずさんでみる。
千鶴子にほんの少しの違和感が湧いた。この違和感はなんだろう。「ありがとう…」をもう一度繰り返してみる。
「はっ」
これは綺麗な標準語に聞こえる。樹が普段使っているのは言うまでもなく、大阪弁、いや河内の言葉遣いだ。春はどうして標準語なのだろう。先程の温かい気持ちが消え、得たいの知れない不安に置き換わった。
千鶴子は、ごくりと息を飲むと、そろそろと階段を降りていった。
●タヌキのいる菜の花の河原
樹は、菜の花が一面に咲く草原に立っていた。なだらかな下り斜面の向こうに、幅の広い川が流れている。
「ここ、下宮のおじさんと会おうたとこやんな」
樹は、独り言のように春に話しかけた。が、春の返事はなかった。無意識に春がいつも寄り添っている右側に首を振る。
「あれ?」
慌てて左側を見る。
「えっ」
どちらにも、どこにも春はいなかった。
「春ちゃん?春ちゃん?」
樹は、きょろきょろ辺りを見渡した。更に声高に春の名を叫ぼうとした時、右手の平に、柔らかい細い指先が絡んだ。
樹は反射的にその指を握り返し、右を向いた。
「春ちゃん?」
そこには、いつもより、明るい笑顔の春がいた。それまで一気に張りつめようとしていた樹の不安と緊張の糸がプツンと切れた。
「春ちゃんおった~」と、泣きそうになる樹の言葉にかぶせるように、
「ずっといたよ。すこしめがさめたの」
「な、なんなん?」
泣く機を削がれて、樹は聞き返した。
「いつきとしゅくだいしながら、ねちゃったの」「うん」
「おかあさんが、ねかせてくれたの」
「今、僕ここに一人やってんで」
「いま、いつきとわたし、ゆめをみている」
「あー、ここ夢なんかー」と樹は、安心を取り戻していった。
「そのとき、すこしめがさめたの」「うん」
「おかあさんとおはなししたの」「うん、えっ、そんなんできんねや」
春は、はにかみ、頬を染めていた。
「いっぱい、あたまなでてもらったの」と言いながら、両手で真っ赤になった顔を隠した。
「よかったなぁ!」
二人は嬉しげにピョンピョン跳ねた。
二人は川に行ってみることにした。菜の花の野原を二人が楽しげにスキップをするように降りていく。穏やかな風が川に向かって吹き、二人の背を優しく押していた。
樹は、少し大きな石にぴょんと飛び乗って、ぴょんと飛び降りた。
「春ちゃんもしてみ」
春は頷き、やってみる。樹は手を貸して石に登らせてやった。
石に登った春は、にこにこして手を振った。気づけば春は、今日祥子が着ていたワンピースを着ている。スカートの裾が吹き下ろす穏やかな風に揺らめいた。
「春ちゃん、春ちゃん、可愛いなぁ」
春も嬉しげに、風をはらむスカートを押さえたり、裾を持って振ったりしている。
樹は嬉しかった。春が、母に頭を撫でてもらったこと、白いふんわりとした祥子のワンピースを着ていること、風に遊んで笑っていることが嬉しかった。
普段、なにかしらの心の内側の存在で話し相手として自分にずっと連れ添ってくれている、そんな春が笑顔を見せ、新しい服を喜び、楽しくしている。樹は、春が何かを与えられたことが嬉しかった。
吹き下ろしてくる風が止んだ。すると微かに煙草の匂いが流れて来る。二人がそちらを見やると、河原に人影があった。川面に向かって胡座をかいた大きな背中が見えた。
「あ、タヌキのおっちゃんや」「たぬきさん」
「おっちゃ~ん」
二人が声を上げ手を振ると、タヌキも気づいて振り向き、タバコを持った手を振った。樹は春に手を差しのべる。春は、手を握りながら、ぴょんと飛び降りた。二人は、一斉に駆け出していく。また穏やかな風が吹き始めた。
「おう、ご機嫌やな」
タヌキはタバコを地面に擦り付け、立ち上がった。
「こんにちは~」
二人は声を揃えて挨拶をした。
「おう、お前の協力で、棚も天井もすっきりや。月曜から内装工事開始や」「へぇ~」
「わしらが組んだら、あっちゅう間やのぉ!」
「おっちゃんが邪魔しとったんやん」
「あほ、おまえがしゅっと来んからや。物事には段取りっちゅうもんがあるんや」
「う~ん」
二人が揃って腕を組み唸ったので、タヌキは少し笑った。
「そうや」
タヌキは、少し目玉だけを上向きにぎょろぎょろさせて考え事をした上で、
「ちょうど、そういうこと言うたろう思て待っとったんや」と言った。
樹達は、首をかしげて話の続きを待った。タヌキは、何かを巡らせているようだ。
「ま、まず坊っちゃんはおまえにほんまに感謝してはるんや」
少し樹の顔が上がり、春と互いに微笑みあった。
「まあ待て。まず幽霊てなんかわかるか」
「死んだ人?」「人のなんや?」
「死んだ人の…気持ち」
「そうや。人が死ぬ時に持っとった強~い気持ちが、人間の形したままそこに焼き付いたようなもんや」
「強い気持ち?独楽を穣さんと交換したい…とか?」
「お、うん、まぁそうや。そやけど、そういう強い気持ち、執着を持ち続けることはほんまはあかんことなんや」
「?」「?」二人の顔に、?の字が浮かんでいる。
「しゅうじゃくって何?」
「なんかにきつぅ囚われてしまうことや」
「ぼ、僕は豊ちゃんが幽霊になってまでやりたいこと無理やりでけへんようにしてしもたって思てたわ」
「そ、そこや。ほんまは、幽霊になった後、いつか坊っちゃんは独楽を守るとかの執着に自分で気付いて、吹っ切らなあかなんだんや」
「ええっ、何それ」
そんなことは考えたことがない。再び樹は豊への申し訳なさにうなだれた。が、「ゆうれいからとおざかろうよ」と、春が改めて樹に向かって言う。
「そやな、やっぱりそやな」
「ま、待て待て待て、落ち着け。あー、わしの時、おまえが色々走り回ってくれたやろう」
「え……」と考えながら樹が、少し顔を上げる。「でもおっちゃんが邪魔ばっかりしとったから……」
「あー、そこはもうええねん。おまえ福知に頼まれてんやろ」
「…あ、うん」と、二人は頷いた。
「そこが一つ大事なことなんや。頼まれへんのにしたらあかん。頼まれたら、やって礼もらう」
「アイスとサイダーもろたで」
「なんでもええわい。けど、釣り合うもんはもろとけよ。それでおまえには、仕事っちゅう道理ができるわい」
「へぇ」と、二人は互いの顔を見あわせて頷いた。
「で、でもおっちゃんみたいに、ついてきて騒がれたら?」
「あー、騒いでへんわ!いや、えー、ちゅうかやなあ、あそこでおまえが話聞いてくれたやろ」
「おっちゃんがわーわーしゃべってんやん」
「あー、話しにくいなあ。わしも話したけど、それはおまえっちゅう聞いてくれる者がおったからや!」
「う、うん」
筋が通るようで通らないようにも聞こえ、樹は一先ず返事をした感じだった。だが、春は、
「しもみやのおじさん、『ぼくとはなせるといろいろおもいだせるんや』っていってたね」
「そうや、ほんで『ありがたい』って消えていきはったなぁ」
「ちゃんとしとるやないか」
「あ、おっちゃんも僕が穣さんとかに……」
「そうや。それや。わしがおった店に穣ぼっちゃんを連れて来てくれた。そうやって、自分に気付いて執着を無くして、次に行けるようにしたるんや」
二人はまた、揃って首をかしげた。タヌキは、
「もっと子供向けの教え方、したったらええんやろなぁ」とこぼし、
「また、教えに来たるから、これだけ覚えとけ。問答無用に消さんこと、相手に頼まれて相応の礼をもろたら受けてもええ。ちゃんと話聞いて、自分から消えたいっちゅうてから消すこっちゃ」
二人は指を三つまで折りながら、それを聞いた。
「春ちゃん、覚えた?」
「うん」
二人のやり取りを、ほのぼのと見ていたタヌキだが、
「あ、そや。それとな。これは、『バーン』に限らんけど、」「うん」
「持ってる力には、必ず生かし方があるんや。覚えとけよ」「うん」
「よっしゃ。ほなこんなもんやな」とタヌキは、川に背を向け、菜の原に入っていこうとした。
「お、おっちゃん、川の方ちゃうん?」と樹は、少しタヌキを追いかけて言った。
「あほ。渡ったらあっち側や。それに、川見てみぃ、あんなん深こうてよう渡らんわ」
樹達が振り向くと、川の様子は、下宮が渡った時とまるで違っていた。あの時は、さわさわと大小の石に流れが小さな水しぶきを一面に輝かせていた。川面は以前と違って、底が見えないほど暗く、早く流れていた。
「あ、あのなおっちゃん」と樹は、大きな声でタヌキを呼び止めた。タヌキはその場で振り向いた。
「なんや」
タヌキの声は少し遠い。
「さっきぼくお父さんの足刺してたやつやっつけてん」
タヌキは樹の方に戻りながら言う。
「そいつどんなんや」
「顔と肩と手だけ引っ付いたみたいなんで刺すとこついてて、それでお父さんの足刺しててん」
「上等兵やな」
「うん、今、工事に行ってるお店、いっぱい変なんおってん。お父さん痛い痛いって言うててん」
「自分の父親守るんや。胸張ってやれ!」
「ぅ、うん」
樹には、意外な返答に思えた。
「親を守るっちゅう道理があるやろ」
「あ、そうか、ほんまやな」
樹は頷いた。タヌキは膝を折り、樹の肩に手を置いた。
「ええか、親とか、ほら兄弟とか、大事なもんは必ず守れ」
「うん」
「よっしゃ。あ、それとな、まあまた話したるけど、霊っちゅうても、壊れてしもたやつみたいやないか。そんなもん消してもべっちょない(大丈夫)ぞ」
「ほっ、壊れたやつかぁ、お店にいっぱいおったわ。そいつ『さかさま』言うてたわ」
間髪いれずに春が修正する。「いかさま」
「あ、いかさま」
「いかさま?そら博打の恨み…、生き霊のカスみたいやな」
「いきりょう?」
「生きてるもんでも死ぬ程強う何か思たら、霊が残るんやろな」
「へぇ」
「わしも成仏したてであんましわからんのや。また会うた時に答えたるわ」
「うん」
生き霊のカスは家族を守るためなら消していいんだと、樹は学んだ。
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