Q 編2

みはらなおき

第1話 洋銀

●ぽつん

 タヌキが豊に出迎えられて成仏した夜、樹は、敦子らの車の中で眠ってしまった。


 自宅の茶の間で目覚めると、目の前では、母、姉、敦子、祥子が食卓を囲んで、お好み焼きを焼いて食べていた。


「Qちゃん、おはよう」

 笑顔の祥子が、ぼんやりした樹の顔を覗き込む。


「どげよ、夢見た?」


「ううん」

 樹は起き上がると、無意識に股間辺りを探り、にっこりした。が、敦子と祥子に見られていたことに気付き、赤面した。


「なんなん?」


「…なんでもない…」

 樹は返事もそこそこに台所の奥の便所に消えた。


「今日はそんなにえろう(しんどい)なかったみたいですわ」と、千鶴子が言う。


「それてどげな…」と敦子が訊くと、


「退院した日は、日本橋で寝てしもてから、次の朝までおねしょもせんとぐっすりやったんです」とさと子が、股間を確かめる仕草を真似た。


「ぁ…」と敦子らは頷き微笑んだ。


 樹が戻る頃には、四人の話題は、祥子の洋裁の話になっていた。今日も手縫いのワンピースを着ている。祥子の話から、さと子が得意な刺繍の話、それを教えた千鶴子は、親元がクリーニング店で服の洗い方やアイロンのコツなど服飾全般の話題に花が咲いた。四人が盛り上がる中、ほとんどそれらの話がわからない樹は、作りおかれたお好み焼きをぽつんと食べていた。樹にとって親戚などの集まりは、この「ぽつん」と置かれることが多く、今日が特別ではなかった。


 樹の父瀞・母千鶴子はともに兄弟姉妹が多く、樹には従兄姉も多くいる。二人の結婚が遅かったことから、従兄姉たちとはかなり年齢が離れていて、話題も遊びも違っていた。樹自身、最近落ち着くまでおかしな行動が多かったこともあり、従兄姉たちから距離を置かれていたことも原因と言える。こんな座で孤独に過ごすことには慣れていたのだ。そんな中、常に話相手になってくれる春の存在は、劇的に樹の孤独を埋めてくれるようになった。そっけなく扱われることも、訝しい顔をされることもない。樹にとって春がいつでも存在していることが大きな安心に繋がっていた。樹はお好み焼きを食べながら、とりとめもない話を春と続けていた。



●アイドル登場


 6月5日、土曜日。祥子が学校に行くと、いや、登校の途中から少し異変が起こっていた。登校途中で会うクラスの女子生徒がいつになく話しかけてくる。ニコニコと笑顔で挨拶をして、長い髪を褒めたりする。クラス以外の生徒たちの様子も違う。自分に視線を向けてくる。それも以前の、見慣れない転校生を見るような目つきではない。教室につくと、それはもっと顕著になった。以前ランドセルの件でぶつかったことのある女子生徒までが、祥子にまったく悪意のない憧れのような視線を向ける。自分の周りに数名が集まってくる。祥子は思わず、


「なんなん、なんかあったん?」と聞こうとした。するとその言葉にかぶせるように一人が言った。


「テレビ見たとき、すっごい驚いてん」

「そうそう」

「すごい綺麗」

「すごく似てる」

「可愛い」

 次々に女子生徒達が話し始める。一人が下敷きに挟んだ雑誌の切り抜きを持ち出した。


「あっ」

 一瞬、祥子自身が自分の写真を見たように錯覚した。それは6月1日にデビューしたばかりの南沙織だった。よくよく見れば、五つも年上のアイドルは顔立ちもスタイルも違っている。ただ、長い髪、小麦色の肌とつぶらな瞳などはとてもよく似ていた。


「三宅さん、いつから髪伸ばしてたん?」

「南沙織と親戚?」

「身長何センチ?」など、矢継ぎ早に様々な、自分に関わりがあることやない質問が投げかけられる。授業を挟んで休み時間中、それまで話したことがない生徒や別のクラスや学年の生徒が教室を覗き込むほどになっていった。


「今日、みんなで遊ばへん?」といった誘いをなんとか振り切って、祥子は帰宅した。




「只今戻りましたー」

 いつものような声を出そうとしたが、少し勝手が違う。口の端がひくついていることに気付いた。


 管理人室には扉を入ってすぐの壁に大きな姿見が張ってある。祥子は鏡の前に立ち、照れながらほんの少し様子をした。


 鏡面には、自分が三才で引き取られていった頃に初めて見た十六才の妖精のような敦子が一瞬見えた。


 我に返り手元を見る。元通りの自分だ。そうだ、今日の自分は、まるであの頃の若奥様のようだった。周りを魅了し、うっとりと支配していく。そんな自分が一瞬見えた。そんなのはいやだ。自分の手に職をつけてお店を出して、自立するんだ。


 両唇の端は、いまも軽くひくひくしている。ああ!私は今日、憧れの歓声と、視線、自分を称える声にうっとりとして一日中にやけ、お追従の笑いを浮かべていたのだ。その筋肉が疲れて痙攣している。


 祥子は、その日着ていった服から下着、靴下まで脱いで、新しい下着を、最新の自分の服を身につけた。「ふん」と小さく身震いした祥子が管理人室を飛び出した時、敦子が二階から降りてきた。


「あら。帰っとったの。おかずでも買いにいくのかい?」


「えっ、あ…」

 祥子は自分が普段やるべき事を見失っていたことに気づいた。


「あ、朝下ごしらえしたものが」と照れ笑いしながら祥子は、管理人室の扉を開けた。昼食の、漬け込んだ鶏肉と野菜の炒めもののこしらえが始まった。




「なるほどねえ、つい媚びた自分に気付いたと」

 敦子の言葉に祥子は黙って頷いた。


「で、どげしようと?」

 敦子の問いかけに、祥子は顔をあげ、強い表情をして、にっと笑った。敦子はそれで察したか、


「出掛ける前に写真撮りましょう」と言った。




●スナック「洋銀」


 樹は、父親と駅近くのスナックの改装工事の現場に来ていた。昔ながらの店舗付き長屋がスナックになっている店だったが、奥の畳部屋を潰して店舗を広げようというのだ。この家は、二階に居宅を移す計画だ。何人かの大工が、板を剥がしたり、鴨居を切り落としていた。こんな場面に樹の出番はないが、その後の電気配線の打ち合わせに連れてこられている。


 先日の不動産屋が地主である雪上から任されて現場を仕切っている。図面を見せられて、瀞と大工の棟梁が打ち合わせをしている。畳の部屋は柱を残して、ほぼ解体されていた。二階に上がる階段が取り残されたようになっている。


 階段の途中と、階段下の 押し入れの跡に数人のぼんやりした影が見えた。店中がなんとなく気持ち悪く感じられた。樹は人影たちに気付かない振りをしながら、後ずさりすると、


「車のとこにおるわ」と瀞に声をかけた。


 カウンターの中や、テーブル席にも人影があり、その隅に形が崩れた者もいる。表のダンプにも、この店の廃材に引っ付いて積み込まれた、いわば霊の残骸のようなものがへばりついていた。


 知らん顔をして表に出て、堺屋の軽トラックの荷台のあおりを倒して腰掛けると、目の前を自転車に乗った祥子が通りかかった。


「何しとんの?」


「お手伝い」

 なんでもないような会話に、祥子は少しほっとした。


「祥子ちゃんは?」


「うふふ、そうだ。Qちゃん、何時くらいまでここにおるん」

 祥子は、少し答えを焦らした。無意識に勿体をつける会話が身に付いていることを祥子自身気付いていない。


「うわ、何?何?」

 樹は簡単に引っ掛かった。


「一時間かちょっとおるん?」


「多分おるよ」

 祥子は、先程と同じように、にっと笑った。


「待っとってや!」

 祥子はペダルを強く踏み込んだ。


 樹が祥子を見送っていると、この店の女主人銀がやってきた。細いからだ付きの初老の女性だが、まだまだ商売にギラギラしたものを持っている女だ。


「お父さん、奥?これして貰おう思て」と、紙袋いっぱいにバルサンを入れている。


「はぁい」と答えると、樹は一瞬中に消えてすぐ飛び出してきた。


 工事は、一時止められ必要以上の量のバルサンが仕掛けられた。不動産屋は店を出て、銀と話し始めた。瀞や棟梁、他の大工もでてくる。ほどなく独特の匂いと煙が店内、二階に充満した。数十匹のゴキブリが一切に飛び出した。


「休憩やな」

 三人は荷台に上がると図面を真ん中にして胡座をかいた。


「ほんまは、何本か天井に線、這わせとこう思うたけどな、しばらく無理や。Q、飲みもん、買うてきて」


「うん」

 樹が荷台から飛び降りると、今度は目の前に、畠中幸子が立っていた。今日は赤い安物のトレーナーにデニムだ。樹に気づくと一瞬「ちっ」と舌を打った。「これ銀ママから」と言って、缶コーヒーなどの入った紙袋を渡した。


「改装の間、銀ママも洋子ママも三福荘に部屋借りてるけど、うちはもうあんなとこ引越してん」

 幸子はあたかも自分の意思で三福荘を出たかのような言い様をして、そっぽを向いた。樹は、幸子の虚勢がわからない。


「へぇ」と、ただ頷いた。幸子はくびれた腰に手をやると、当てが外れて話すことが尽きてしまったのか、銀を探していってしまった。どうやら銀と幸子は、改装中の挨拶に隣近所を廻っているらしい。店の評判はけっして良くないが、同時に必ず近所に金を落とすのが、銀のやり方だ。また、言い出したらこちらが従うまで押しきるのも銀の強い癖だった。バルサンもすぐにやらなくては気が済まない。瀞は銀と掛け合うこともなく、仕事を止めてでもバルサンに従っていた。


「今日はアンテナやりますわ」

 棟梁も頷き、大工たちと解体ガラの残りをダンプに積み始めた。





 この家の一番奥は、川沿いの路地に面した坪庭と便所がある古風な作りだが、そこから二階の物干し台に登ることができた。更に梯子を立てて、簡単に大屋根に登ることができる。瀞と樹は、一気にアンテナをあげてしまった。何時もの手順でてきぱきと組み立ててしまう。


「調整は、明日テレビに繋いでやろ。一階と二階で分波するから…」と瀞の説明が続く。アンテナ線を二階の軒下に垂らしたところで、


「チリンチリン」と、川沿いの路地を走ってくる祥子の自転車のベルが聞こえた。


「あ、祥子ちゃんや。ちょっと行ってもええ?」


「ああ、もう特に用事あらへんしな」


 地上に降りた樹が見たものは、あの長い髪を大胆に切り、耳まで出した姿だった。


「祥子ちゃん凄い可愛いな!」

 祥子は照れ臭そうに笑った。


「なんか映画の中の人がでてきたみたいやで」と言った時、瀞が降りてきて「オードリーヘップバーンみたいやな」といった。


「オードリー?」と二人が聞き返す。瀞が、


「ローマの休日のアン王女や」と答えると、祥子は、リバイバルで敦子と行ったであろう映画を思い出した。


 映画のあらすじをうっとりと祥子が聞いている時、川向こうの道を浮浪者が通りかかった。


「あ、ゴミドンや」と、樹が指差す。


「指差したらあかん。どんな成りでもうちのお客さんや」


「へぇ」と祥子が言う。


「ちょっと前にラジオの単三乾電池買いにきたことあったわ。自分で蓋開けられへんみたいやから、やったげてん」と、樹が言う。


 ゴミドンは、右足を引きずり、よろよろとしながら川縁の手すりに掴まって、立ち止まった。


「うぉぅぁ…」とゴミドンはこちらに向かって、届くかどうかの危うい弱々しい声で、何かを言って、また歩きだした。


「じろじろ見るんやないで。さぁ、片付けよか」

 瀞の声があるまで、祥子たちはゴミドンが去る背中に釘付けだった。


 何か奇異なものを怖いもの見たさで見ていたような気持ちに気付き、祥子と樹は恥じ入るような気持ちになって、顔を見合わせた。





 スナック洋銀の表に戻ると、既にダンプは引き上げていた。扉を開けると、殺虫剤のきつい匂いが残っている。


「外におり」

 瀞は上着の裾を口に当てて店内に入ると、手早く換気扇のスイッチを入れ、窓を開けた。


 樹は瀞がこちらに戻ってくるのを、まるでテレビドラマの、ガス室に潜入した部隊の隊長を待つ隊員のような気持ちで待っていた。


 隣の料理屋の店主が出てきた。瀞が話している間に、樹は、二度程裏に回って、工具等を軽トラックに積み込んだ。瀞は、まだ店主と苦笑いしながら話している。樹は、そろりと洋銀の店内に入った。


 先刻のぼんやりした人影は姿を消し、崩れかけのものはさらに散逸して残骸になり、糸がほどけるように空気の中に消えつつあった。


「バルサンこんなんにも効くんかなぁ」

 樹は、ぐるりと見て回りながら、少し安堵の表情を浮かべた。


「きえたね」「こんなんで人影くらいのも消えたんかな」「こわれたのも、もういないね」

 春と話し合いながら、確かめていく。樹たちは、出来るだけ彼らと関わりにならないようにと考えていた。


 豊とタヌキの件は、春にとって親に心配をかけたり、面倒をかけた経験になっていた。樹にとっては、豊の幽霊がずっと取り組んできたことを、偶然とはいえ台無しにしたことで、豊のやり遂げたかったことを探しぬいた、罪滅ぼしの経験になっていた。


 二人は共に、偶然とはいえ「余計なことをしなければ良かった」、「幽霊から遠ざかろう、遠ざけよう」という考えに至っていた。



「もう今日は『終い』や」と瀞は改めて店に入り、突き当たりの坪庭への戸口を内側から閉めた。戸締まりをし、店の鍵も閉めた。


「三福荘に届けにいこな」と、軽トラックに乗り込んだ時、銀と幸子の姿が見えた。


「ちょうどよかったな」

 瀞は車を二人の傍で停め、鍵を渡しにいった。


 二人は今日の食材を買っていたのだろうか、また紙袋を抱えている。幸子が、片手で鍵を受け取った。




 帰宅すると瀞は、


「埃っぽかったな。風呂屋行っとき」と言いながら、自分は仕掛かりの掃除機の修理の続きを始めた。


「うん」と気のない返事をして樹が振り向いた時には、千鶴子が洗面器に石鹸とタオル、着替えをまとめて、上がり口に持ってきていた。


「はい、お風呂券」




●鯉の滝登り


 樹は、風呂屋の洗い場で体を洗っている。夕方は近所の子供達も風呂屋をよく遣う時間だ。幸い入った時は、年寄りがちらほらいるばかりだった。早く済ませてしまおうと、体を流し始めた時、


「お、あれオバQやんけ」と聞き覚えのある上級生の声が聞こえた。続いて何人かの「Q,Q」とからかうような声が聞こえる。ぞろぞろと近づいた何人もの足音は、樹の傍の浴槽にじゃぶじゃぶ入っていった。


「はやくしよう」「うん、タオルゆすぐわ」


「流すの手伝おたれ」と上級生の誰かがゲラゲラ笑いながら命じると、樹と同い年の取り巻きたちが、手近な風呂桶に浴槽の湯を入れ、


「どや」と勢いよく浴びせかけた。更に二人が浴槽から飛び出してくる。樹は痛いほどの勢いで何度も湯を叩きつけられた。


「盛り上がっとんのぅ」


 上級生達が、びくっと振り向くと、そこには全身筋肉質で彫りかけの刺青をした五分刈りの刺すような眼をした若い男が立っていた。


「あ…」

 三福荘で自分を突き飛ばしたヤクザだと気付き、樹は固唾を飲んだ。


「お前ら友達に優しいのぅ。俺にも掛けてくれや」

 男は、樹の隣に腰掛けると小学生相手に凄んで見せた。


 桶を持った二人は、半泣きになりながら、じょろじょろと湯をかけた。


「なんじゃあ、年寄りの小便か!」

 二人は震え上がって、桶を置いて逃げ出した。他の者もこそこそと出ていってしまった。樹が立ち上がって脱衣場を見ると、体を拭くのもそこそこに慌てて服を来ている。


 樹は、改めて腰掛けた。自分に向かって男はちょっと微笑んでいる。三福荘の時と違う。何よりいやな子達を追い払ってくれたていになっているし、一回やられてはいるが自分は「平気やったぞ」という男の子らしい小さな誇りが混ざった気持ちが沸き上がってきた。昼間、父に言われた「どんな成りでもお客さん」という言葉も浮かんできた。樹は少し、落ち着いた様子でシャンプーを手につけた。


「エエもん使ことるな。わしにもちょっとくれや」と、男はにやっと笑った。


 樹はシャンプーを左手で持ち、右手で、受けるような仕草をして男の顔を見た。


「こうか」

 男は言われるがままに手の平を差し出した。シャンプーを手の平に出す。


「お前、気前ええのう」

 男は、五分刈りの頭にがしがしと泡を立て始めた。


 樹はシャワーを出して髪を濯ぐ。


「おい、流してくれ」

 樹が見ると、男は強く眼を閉じたままで泡まみれになっていて、シャワーのカランを探り当てられないでいた。


 立ち上がった樹は男の前のシャワーヘッドを握ると、男の肩に手をかけながら、ザーッと男の頭を洗い流した。微かに二人の間で「バシッ」という音がして、男に重なっていた白いものが、固まりあぐねた白身のように散逸していく。湯気とシャワーの音と、風呂屋の大浴場の反響音の中で、樹は全く気づかないまま、憑依していたであろうものを徐霊してしまった。勿論、男もそんなことに全く気づいていない。


「ふー」と二人は、ため息をついた。


 男は頭を上げると、顔を手で拭い、眼を開いた。


「後ろ残ってるで」

 樹は、爪先立ちになると、耳の後ろあたりを流してやった。


「へへっ、すまんのう。…こんなに、シャンプーてさっぱりするもんか」


 先程、脱衣所におたおた逃げ出した者達は逃げ腰のままこちらを覗いていた。


「わしのこと怖わないんか」


「う~ん、ちょっと怖いけど、追い払ろてくれたし」

 樹は泡を流し終えると、浴槽に腰掛け、足を湯に浸けた。男も隣に座る。


「あいつらから守ったろか?わしらがついとったらあんなガキ小便チビらせたるぞ」

 男は言い終わると脱衣所を見やり、拳を振り上げる仕草をした。


「のう」

 男は樹の方を見てニヤリと笑った。樹もにっこり笑った。


「怪我どうじゃ」


「うん、平気」


「ほうか。強いのう。わしもこんなん入れても平気じゃ」と背中を少しねじって刺青を見せた。


「これ、よう見てもええ?」

 男は黙って頷く。樹は、男の背中に廻ると、顔を近づけ、指でなぞったり少し爪を立てたり、しげしげと刺青を見た。


「こそばいわい。なんの絵かわかるか」


「えっと、鮒…」


「鮒ちゃうわ!誰が背中に鮒入れるねん。鯉や、鯉の滝登りや!」


「あ、へぇ…凄い。痛ないの?」


「そんなもん平気じゃ。どやお前も入れたいか」

 樹はタオルで少し鯉の頭を擦ってみた。


「これ二度ととれへんの?」


「…当たり前や」

 男は、一瞬息を止め、答えた。


「ほな…、僕はええわ」

 樹は、また浴槽の縁に座った。


 男は、揺らぐ湯の面にしばらく目を落とし、


「…そうやのう」と呟いた。樹は、男が何か続きを話すような気がして、黙って顔を見上げた。


 しばらくして、男の目が湯面からあがった。


「歳なんぼじゃ」


「七歳」


「ほうか。そんな歳の子供がおるわけなかろうがのう」「え?」

 樹は意味を取りあぐねた。


「あのとき、『こら、われこんなこぉおったんかい』っていってたよ」

 少したって春が言った。


「あ、畠中さんのこと?」


「わしより年下にのう」

 男は、苦笑いとも照れ笑いともとれる顔をした。樹もようやく、年齢的に幸子の子であるはずがないことに気付いた男が恥じていることがわかった。男は、勢いよく湯に浸かると、その水音に紛れながら、


「すまなんだのう」と言った。樹も湯に肩まで浸かると「うん」と小さく頷いた。


 二人は、揃って湯舟から上がると、揃って脱衣所で服を着て、番台を出た。ヤクザ者が入っている知らせを受けて、番台は女将から主人に代わっている。男が樹に続いて、番台を通ろうとした時、主人は少し硬い表情で言った。


「お兄さん、組合の取り決めで『刺青』の人は遠慮してもろてるんですわ」

 男は、主人には目を合わさず、


「すまなんだのう」とこぼすように言って、ゆっくり引き戸を閉めた。主人は、小学生たちが慌てふためいて逃げ出した話や風呂屋に入って来た時の様子といった女将の話と随分違うことに違和感を感じた。男も、履き捨てていたサンダルを探しながら、


「なんや調子でんのう」と首を傾げた。自身は気づいていないが、自分に憑くものが一切いなくなったことで、余計な心の荒立ちや本来の心以外の行動が起きないことに、違和感を感じていた。


「おう、あったあった」

 男は自分のサンダルに足を通した。樹は、下駄箱から運動靴を出して履いている。


「お兄ちゃんほなな」

 樹は手を振りながら、風呂屋の暖簾をくぐり出た。


「なんかすごいくたびれたわぁ」「おかしなことはなかったのにね」「うん」

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