救いのない夢に


 差し込む東陽が埃と七色に舞う。朝の部屋は油に汚れた換気扇と回る。深酒の跡が横で寝息を立てる女の熱を教え、去った夜がひどく寂しいものだったのだと疼く頭を撫でる。くしゃくしゃになった枕元のタバコを取ると、フィルターから折れたタバコが数本湿って収まっていた。


 昨日はそういえば雨だった。冷たい雨だった。

 雨に濡れる二人は腕を組み千鳥足でこの部屋に戻ったのだ。

 それだけは思い出せた。


 まだねむろう…。女が私の腰を抱く。

 ああ神様、どうかこの瞬間に世界を終わらせてはくれないか。

 神など信じぬ心がその名を呼び、ひどく深刻なのにどこか冗談めいた問題が首を擡げて眠りへと私を誘う。


 夢は痛快な喜劇だった。不眠症の男が好きな時に好きなだけ眠れるようになるマシンを作った。男はマシンの副作用で好きな夢を見る。やがて夢と現実との境界がわからなくなり、最後には夢の世界へ逃げ込むのだ。夢のマシンは足踏みミシンのような音を立て男の枕元に揺れ、そのリズムがいつまでも部屋に響く。


 夢が覚めると女が裸のまま台所に立っていた。匂いから察するに味噌汁と鯵の干物らしい。


 私はまた居眠りを続け、夢のマシンと男の夢を見ることにした。

 夢の続きは不確かに、不眠症の男はその男であるのかそれとも全くの別人の女であるのか、それか男であるのか全く不明瞭に、乾いた風景が走る車の窓に流れていった。

 好きな夢を好きな時に見れたなら、私はいったいどんな夢を見るのだろう。ぼんやりと薄れた私という意識が夢の視点の耳元で囁くのだった。


 いい加減起きなさい。女の影が私を覗き込む。これが私の求めた夢だったのだろうか。


 昼の風がカーテンを揺らす。重く湿った風だった。

 大きなカタツムリが一匹ベランダの格子を伝い、羽虫が網戸にぶち当たる。扇風機の弱々しさにどこか共感を覚え、女はハミングする。遠く南国の古い曲をハミングする。女の褐色の肌に浮かんだ汗を舐めとると、塩の効いたライムのように匂った。それから二人また液状に混ざり合ってベッドの中を転げ回る。汗も涙も抱え込んで、ベッドの中を転げ回る。この不毛が豊饒の証ならば、どこへだって行ってしまえるのに。そんな感傷が私をこの場所とこの時に縛り付ける。


 旭日は斜陽に、東は西に代わり、橙の光が部屋の壁に影を焦がす。

 もう終わりにしよう。私はそう言いたかった。また女は先出しで涙した。もう終わりにしよう。ぐるぐると答えだけが耳鳴りのように響く。その過程はまるで無意味な出来事であったように私の腕は女を抱いていた。

「今日も雨が降るのだろうか」

 天気なんて気にしていないのに、空を見た私の口はそう言った。

「もし、そうなら帰らなくて良いのにね」

 女が濡れた声で応える。


 雨が降る。冷たい雨が夜に降る。網戸越しに冷えた風を呼び、女は帰らない。街灯の白い明かりが青に染まり、カーテンの隙間を縫って雨は降る。明日など、望まぬ明日など来なければ良いのに違いない。このまま女の腕の中に果ててしまえば良いのに違いない。

 鎖骨を噛むと女が悶える。また噛むと涙を浮かべる。もっと前から私たち二人は泣き疲れ、弱っていたのかもしれない。女が私の首に手を置く。私はそっと手を添えて、私を殺す手伝いをした。闇の中に閃光がちらつく。女を噛み、突き上げる。悶える声が聞こえる。随分遠くに聞こえる。また突き上げる。女の手が緩む。さっと頭の芯が熱くなり、暴力的な感性が顔を出す。なぜ殺してくれなかった。女の腕に抱かれ死んでしまいたかった。そんな私のこころを女は知ってか知らずか首を締める力を緩めた。私は女を打った。鼻先から赤い線が引かれる。舐めとると鉄の味がした。そして絶え、水溶の疲れの中で雨音を飲み込みながら、天井を眺めた。


 朝の部屋は油に汚れた換気扇と回る。

 ひどい悪寒がした。腕の中の女の肌がひんやりと湿っている。吐き気に便所へ駆け込もうとすると、頭が疼き世界が揺れた。どてと床に転げると、なにがあったのかと目を擦りながら女がこちらを覗く。どうにか便器に顔を埋めると、尿臭が吐き気を盛り上げた。ピンク色の吐瀉物が落ち飛び散り、下水に飲み込まれていった。

 女が後ろから大丈夫と気休めにもならない言葉を吐く。てんでダメだった。まるでここに私は居ない。頭蓋の鈍痛以上に、視界の澱んだ浮遊感をどうにかしないといけない。一刻でも同じ場所に留まっていれば、私は消失してしまうような気がした。布団へ戻ると、もう一歩も動けなかった。

 寝苦しさに目を開ける。身体中に鈍い痛みがあった。声は嗄れて一言もしゃべりたくなかった。

 女は私を医者に診せに行き、季節性の風邪とわかると仕事を休んで、甲斐々々しく看病をやいた。粥を口に運んだり、水と苦い薬を飲ませたり、体を拭いたりするのは皆女の仕事だった。

 病臥の私はいつも以上に無力で、女はいつも以上に甘えてきた。

 これっぽちも同情的にはなれず、私は揺れる視界の中で夢の男のことを考えた。男はなぜ不眠症になったのだろうか。目を瞑ると男の視界が私の熱ぼったい瞳に広がった。


 男は眺めていた。夜の路地の嬌声を、その後にある罪を。男は寝ぼけ眼を擦り、事件を夢に陥れた。男が次の朝目覚めコーヒーを飲みながらニュースペーパーを眺めると、昨夜の夢が書かれていた。

 不意に血の香りが立ち込め、指先に生暖かいものが流れている錯覚に襲われる。目玉焼きを突ついていたナイフは妖しげに光を揺らし、口元は笑うようにつり上がった。

 男は眺めていた。嬌声の先端を掴み、一歩一歩近づいていく。湿った冷たい風が脇を通り過ぎ、ポケットの中で手が汗を掻く。向こうの路地から女が微笑みながら近づいてくる…。

 頭が疼く。私が起き上がると女が驚いた顔をした。また横になると、ほっというため息が聞こえてきた。この病の底には女との別れがある。耳鳴りがして、目を瞑ると赤い暴力的な感情がふつふつと湧き出した。女を呼ぶと、甘い声で女が応える。そうだ、この生活というものに私は耐えられなくなったのだ。


 革靴がタイルの隙間の水たまりを蹴り上げる。霧が立ち込める路地に、足音が飲まれていく。肩にかかる鞄の重みに論文の納期を数え、先ほどまでカフェで計算していた証明を頭の中で反芻する。閃きは路地に落ちている。3カ所の間違いを見つけ、結果ほぼ全て始めからやり直さなくてはならない。眠れない夜を前に男は欠伸して、ガス灯の揺らぎを見つめながら道を歩いた。

 駆ける子供達の歓声と気配が通り過ぎて行った。

 またか。と男は思う。

 指を鳴らし、口笛を吹き、踵を蹴って、不安を隠す。

 霧が音を攫っていく。街が佇み、見下ろしている。その中でまるで自分ばかり異物のように浮き出して、路地に落ちた陰は存在を嘲笑していた。

 動悸がした。蹴り上げる水の先端が頬を濡らし、路地を攫う霧の向こうに赤々とした欲望を見た。野良犬がトボトボと目の前を通り過ぎていく。その視線はまるで何も見ないように、俯いていた。


 女の呼び声がする。ふと目を開けると、暗がりが延びていた。女は私の胸を抱き、鼻息が耳をくすぐっていた。私の名だと思ったものは女の鼾だった。窓枠が風に揺れる音がする。雨が路地を叩く。木の陰に野鳥は肩をすぼめ、私の空想的な可視感は加速度的に空へ溶けていった。女は寝息を立てている。愛おしいばかりの生命が、私をここに繋ぎ止める。寂しいばかりの感傷が、私をここで堰きとめる。手を伸ばせば掴めそうなほど闇は眼前に押し迫り、中空を漂う体が重力の底へと落ちていった。


 雨が降る。夢の夜に雨が降る。

 男は眺めていた。その疾駆する身体の揺らぎを、不安を奪い取る力を、沈黙を隠す夜の雨を。マシンがカタカタと悲鳴をあげる。首に巻いた金属の冷たさが、ゆっくりと鈍化する現実を薄れさせ、眠りが落ちてくる。

 立ち込める靄の先から女が笑いかける。その白い首筋の銀の首輪がガス灯の淡い光に揺れる。靄に伸びた陰が男を抱いて、この行き場のない生活という絶望の濃淡が男の胸に熱を伝える。指先に込められた力が抜けていくのを感じながら、男は悦びに沈んでいった。上気した顔の女はまるで無垢で、その先にある終焉など知らぬように肢体には若さが満ちていた。鼻先を艶かしい香りが掠め、悦びもその終わりにある苦しみも奪い去るただ一つの思考が、嗜好が男の背骨を駆け巡る。成し遂げなければならないのだ。成し遂げるのだ。


 私は鞄の外ポケットに入った鈍色のペーパーナイフが指先に触れる。冷たく湿っていた。


 大丈夫、ねえ。

 心地悪い汗が身体を覆っていた。いったいなにがあったというのか。女は私の顔を、目をじっと覗き込んでいた。それほどの大事だと言うのだろうか。私が言葉を忘れていると、女は立ち上がり台所へ消えていった。蛇口をひねる。さらさと水が流れ、ガラスのコップに注がれる。不気味な音の連続が、私の精神を弱らせる。そういえば女とはそういった関係なのだ。

 女がコップに水を溜め帰ってくる。そして水を私に飲ませようとする。それくらいはやれるというのに、どこまでも力を削ごうというのだ。どこまでも落ちていける。私たちはどこまでも。


 その昼の私は快調だった。身体は軽く、家を出ればどこまでも疾駆していけるほどに恢復していた。女はそれが悲しいのか、まだ休んでいろともう読み飽きたような本を数冊枕元に置いた。私は仕方ないからそれに従い、精神の自由を願った。

 暖かく乾いた風が網戸から吹き込み、虫たちが夏の到来を喜んでいる。病褥の苦しみとは懸け離れた快活な汗が溢れ、ベランダで蒸すタバコがひどく苦く感じられた。ふと酒でも飲みたいものだと思ったが、女は私をまだ病人扱いした。


 相変わらず夢では雨が降っていた。

 淡い白光の雲の陰の下紫陽花の青が揺れ、がらがらと沼辺のカエルたちが盛んに鳴いている。水を含んだ緑の香りの淵で、東屋の二人は無言で居た。女の首には銀の首輪が揺れる。女は詩集を読みながらぽつりぽつり言葉を落とし、私の視線をもてあそぶように左手の指先が首輪で遊ぶ。私はある数式を思い浮かべていたが、ちっとも打ち込めないで首輪を遊ぶ女の指先ばかり眺めていた。萎れかけた花菖蒲の先端の水滴の光に妙に共感を覚えた。雷鳴がときより私たちを襲い、遠い街の空を焼いていた。

 こんなときに酒があったら。いつもなら思考を鈍らせるから嫌うあの液体を、これほど愛おしく思うことはないのだった。

 胸の抑揚を、忘れていた臀部のしびれを思い出し私が立つと、女もゆっくり詩集を閉じて立ち上がる。音も忘れて私の側に寄り添い、開いた傘の音にまた世界は煩雑に動きだすのだった。

 帰路の私は憂鬱だった。ぴたりと離れない女の腕とかさに構わず体を濡らす雨とに挟まれて、この体の不自由に願った。雲の上は晴れているのだ。


 電話の音に夢が途切れる。

 上司からいつになったら出られそうかという連絡だった。

 快復しつつあり、明日には出勤できそうだと伝えると、明日の出勤後に待っている詰めるだけ詰め込まれた仕事を捲し立てるように言付けられ、電話は途切れた。女に伝えようとその名を呼ぶが返事がない。知らぬ間に出たかしたのだろう。

夕暮れの街に煙草の煙を吐いた。夕暮れが昼と夜との境界に座している、夜はいつからなのか。昼はいつまでなのか。この指先で香る煙さえ不確かなものであるように感じた。この私はいつから私なのか。夢はどこからが夢なのか。赤の閃光が脳裏にこびりつき、夢の男が笑う。女はどうした。あの銀の首輪の女か。銀の女は誰だったのか。若かったのか、それとも年老いていたのか。男は誰だったのか、存在しているのか、それともこの時間は夢なのか。

 マシンの悲鳴が響いてくる。今にも止まろうとしているマシンの悲鳴に空間が共振している。

 夢の雨はマシンが降らせていたのだろうか。テレビの砂嵐のように、壊れかけのノイズだったのだろうか。断続的な思考が、有るようでも無い、ただ流れていく時間の中に揺れ、さっきまでの空想的な出来事は遥か遠くに浮かんではシャボンのように消えていった。



 次の朝、女は浴室で死んでいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る