10月の病
電話がふつと切れ、どこか胸を撫でた僕は不甲斐ない躯に引き戻される。
大したことのない疲労に熱を出し、大丈夫だと言い聞かせ部屋を後にしたが、少し歩くと酷い頭痛と吐き気がした。
部屋へとんぼ返りし、朦朧とする意識のなか、結ばれたネクタイをよちよちと解き、衣服を脱ぎ捨て、どてっとベッドに倒れ込む。
部屋は蒸していた。
それからあの電話。まだ新米の僕が休んで、それで職場はどう思うのだろう。そんな不甲斐なさもすぐに忘れるほど、身体はままならなかった。人の優しい声が体を重くする。
頭痛薬を水で流し込んだ。
異様に存在感のある眼球が重たくのしかかり、瞼が静かに閉じていく。
気付いた時には眠っていた。
眠っているというのに、身体中から噴き出す汗が感じられ、ぬめりとしたその質感が夢の中にまで入り込んできた。
いや、夢など見ていなかった。
視界には、ただ、どす黒い赤と紫の陰がクルクルと回転して、ずっと続いていた。ずっと回転していた。回転が止み、瞼を開けると昼も過ぎ、空いてもいないのに腹がぐうと鳴いた。
仕方ないから、菓子を取りに這って行き、ぽりぽり齧った。異様に粗食音が骨に響き、それが痛みを伴って半径20センチの世界に波のように押し寄せる。
つくづく病人じゃないか。
ベッドサイドに準備していた頭痛薬と2リットルペットボトルの口から水を飲み、また瞼を閉じて、眠った。
尿意に目が覚めた。もう三時を回っていた。日当りの良い子の部屋には、西から陽が照りつけ、相変わらず部屋は蒸していた。
思うようにならない身体を無理矢理起こし、悲鳴を上げる頭蓋を無視して、便所で用を足す。濃い尿がどぼどぼと溢れた。その場で寝てしまうかとも考えたが、思い直し、冷蔵庫のゼリーとスプーンを取って、ベッドに帰った。ゼリーを食べて、空の容器とスプーンを放って、また眠った。
相変わらず、どす黒い赤と紫の陰がクルクルと回転していた。
目が覚めると夜になっていた。
熱は下がり、頭痛もちくりとする程度に恢復していた。身体だけは重かった。また明日のコトを考えると少し陰鬱で、そんな考えをかき消そうと、また眠った。
昼に眠ったせいか、なかなか眠りは訪れない。仕方ないから、繋がりきらない回路であれこれ考えた。
今日のこと、昨日のこと、遠い昔、これからのこと、死ぬこと、性愛と君との関連、とにかくあれこれ考えたけど、もともと疲れた頭はそれ以上疲れなかった。疲れ知らずの馬鹿な頭は、冴えることもなければ、眠ることも忘れていた。それでもたまに想いだしたように、ずきずきと疼いた。
どうっと風が吹き、窓に体当たりして、オンボロな窓格子をがたがたと揺らしていることに気がついた。そういえば、台風が近づいているとかと、昨日に耳の隅で聞いたような気もした。
そんなことを考えている最中、力のない四肢が勝手きままにあちらこちら向いて、僕なんてものをこれっぽっちも知らぬ顔をしている。
そう言えば、はじめから僕の身体と思考の主体とは緩やかに交わっているに過ぎない、そんな集合体だった。僕と身体との関係は、容器とその中身との関係にも似ている。
容器を振ると、中身が揺れる。中身が揺れた振動は、容器に伝わる。容器が割れてしまえば、中身も辺りに打ち撒かれる。中身が冷めてしまうと、容器の熱も奪われる。中身がなければ、容器は容器に過ぎないし、容器がなければ中身は全く別のもので、容器に入ってはじめて、一体になる。そんな関係なのだ。
僕は身体という容器に詰められて、母体から出荷された。どちらともがだんだんと膨れて、熟成されていく。いつか、古びて崩れるその日まで…。
くだらない。くだらない思考ばかり煮立って、ぐつぐついっている。この思考が病の弱気がもたらすのか、病の弱気がこの思考をもたらすのか。容器、内容物、吐き気。
朝が来る。
僕はスーツに袖を通す。
病んだ家を後にして、そして体を運び出す。
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