S症候群



 なにもせずに一日は過ぎていく。

 汚れた食器も、汗を吸った洗濯物も、持ち越した仕事も、まだ読まない本も溜まったまま休日を過ごす。

 朝起きて窓を開き、ぼっけと空を眺め煙草を吹かし、昨日は酒を飲み過ぎたと耳の裏で呟き、煙草が短くなると火を消して、また新しい煙草を吸う。それからごろり畳へ寝ころび、なにをしたかっただろうかと考えるが、とくに何も思い浮かばず、耳鳴りと頭痛に包まれる。

 こうして休日は過ぎていく。

 また明日がきて、仕事へ行かなくてはならないのだ。机の上に積まれた書類の束も、付けきれていない記録も、頭の中のイメージもごった返したまま一日を飛び越えて、転落し、また到来する。

 明日の朝と、今日の夜とは同じではないのか。何が違っているのだろうか。一体何が。そこに何があると言うのか。一体何が。朝と夜、労働と休息、酒と肴。時間も空間も移動も固定も、飛び越えられるのだ。そして転落する。絶望ののなかに飛び越えがあり、それは転落を意味して、そして到来の兆しとなる。

 寝ぼけながら淹れたコーヒーの中に鼻を埋め、一口呑んで、煙草に火を点ける。何本目だろう。おそらく4本目。

 なぜ目覚めから数え始めるのだろう。

 今日何食目か、何杯目か、何時からか、何人目か。

 なぜどこかに位置させたものから計るのだろう。

 煙草の煙が鼻から溢れる。

 子どもの叫声が空へ響く。笑い声。洗濯機。風、車、下手くそな歌声。暇つぶしの空想を批評し合う。

「くだらない。安っぽい言葉遣い。安っぽい風景。安っぽい名前。安っぽい香り。安っぽい心。くだらない」

「そうかな。僕は好きだな。こういった青臭いのが」

「きみたち、会話になっていないじゃないか。それにこれはとても高尚な精神に依って描かれたものに違いないよ。それはもうわたしを越えているのだから」

「物語は得てして作者の意図とは無関係に飛躍するものだ。それを作者に帰属させてしまうから、その誤差によってつまらない諍いがおきるのだよ。僕はこの話が嫌いだ。悲しすぎるから」

「そうかな。僕には喜劇に見えたよ。青年ドン・キホーテだ」

「それはパラドクス、矛盾じゃないか。セルバンデスは天才で、高い人だ。それを若いドン・キホーテだなんて。この作者はそれ以上に違いないよ」

「それは反証されるべきだ。ドン・キホーテと比べるまでもない。世界一つまらない小説、バイブルにも劣る出来なのだから」

「バイブルだって。世界一のヒットセラーじゃないか。ドン・キホーテもあれには劣る。あれは人をだまくらかすによくできているものだから。でもいまいちスパイスが足りないのは確かだけどね」

「君たちはこの物語について何一つ話してもいないのは何故だい。それともこの物語は始めからなかったのか」

 末っ子が言った。

「君たちが話しているのは、この物語ではなくて、自分のこと。つまり自分の性癖についてでしかない。君たちの話しているのは、君たちのなかに、いま始めから有ったモノでしかない。物語は想像されるために、君たちを必要とするのに。僕も僕自身の言葉に反駁を試みよう。物語は始めからなかったのか。物語は始めからはない。物語は始まり、そして終る。だから物語は始めからはない。でも終点へ辿り着くまで走りつづける。物語を覗くものは、始めからある。そこに始めから。でも物語は始まるまではない。すでに終っているかもしれないのに。君たちは、始めから物語を覗いている。そして、終わりを見届ける。そこから始まり、そして終る。終って始まる。どちらも同じ意味でしかないが、物語にあっては、それが重要なのだ。始めから始まっていない。それが重要なのだ。僕は形ないものを語ることはできない。つまりこの物語は始まり有ったのか、それを語ることはできない。ただ、それがドン・キホーテと比べるまでもないことは分かっている。ドン・キホーテはすでに終っているが、この物語はここに取り残されているのだから」

「うんそうだ、そういう青臭い独白が良いんだ」

 末っ子のため息が響く。後頭部が疼き、耳鳴りがする。声は掻き消え、身体が揺れる。煙草を灰皿に押し付けて倒れ込む。不毛なのだ。分かっていても何一つ変わらない。諦めているのだろうか。それとも興味がないのだろうか。

 電車に人が埋まり、高速道路の上を車がのろのろ走る。路の上を、ものと人が移動する。それだけ浪費する。移動できるように並べられたものを眺め、選択する。始めは物珍しく、そして飽き、また新しいものを求める。それだけ消費する。それだけじゃ充足しきらないから、触れ合いを求める。顔と顔を見合わせなくちゃ落ちつかない。それだけ摩耗させる。

 本当にそこになくてはならないものがどれくらいあるのだろう。

 本当にそれでなくてはならないものはどれくらいあるのだろう。

 人間の本質的発展は移動ではないのか。知能より、自我より以前に有ったものは旅の羨望ではないのか。飢えではないのか。移動こそが、浪費こそが、飢えを充たす手段ではなかったのか。移動こそが新しいものを見つけ、手に入れる手段ではなかったのか。

 時間は飛び越え、転落し、到来する。思考は過ぎ去り、予期し、問いを立てる。

 コーヒーはすっかり冷めていた。煙草を咥える。冷たい煙、冷たい液体。風が吹く。金木犀の香り。



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