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それからというもの、神の美しい娘は大地に緑と水を描き続け、生まれた緑や水が絶えず育つように人間が世話をし続けた。娘の描く芽や雫は強い力を持ち、人間が世話をすればたちまち恵みのものとして広がっていった。娘は国を救った使者として、国民に親しまれた。国王も娘に心から感謝し、創造の神との約束を必ず果たすことを忘れたことはなかった。
しかし国が変わりつつある4年目の時、病で国王が急死した。するとその時期を待っていたかのように国王の息子、王子が娘を娶ると言い始めたのだった。
「俺はずっとこの娘に恋焦がれてきた。父には神の子に手をだすことは許されないと言われてきたが、そんなことはどうでも良いくらいに彼女を愛しているんだ。父が死んだ今、国王は俺だ。国王は神に一番近い存在なのだから、彼女と結婚して何が悪いというんだ」
王子はそう捲し立てたが、娘は王子の求婚にこう答えた。
「申し上げますが、貴方様は人間なのです。神に一番近いと仰られても、それは人間の中での話。神ではないのです。それに父との約束を破ればこの国は死んでしまうのですよ。私はあなたと、人間と結婚する気はございません」
娘のこの言葉に、王子は激怒した。娘はそれからも変わらず淡々と緑と水を描き続けたが、王子は何とかして娘を手に入れようと考えた。そして虱潰しに王宮の書庫にあった本を読み漁り、何か方法がないかを探した。
娘が帰る日まであと数日という頃、王子は埃の被った一冊の黒い本を見つけた。表紙には何も書かれていないただの古ぼけた本だ。だが何故か王子は吸い込まれるようにしてその本のページを捲った。その時何かの気配を感じて王子がハッと顔を上げると、目の前には端正な顔立ちの若い男が立っていた。異様に肌の白いその男は王子の知る人物ではない。
「貴様、誰だ。いつからそこにいる」
王子が問いかけると、男にっこりと笑って答えた。
「これはこれは失礼いたしました、王子様。私は魔王と呼ばれる者です」
「ま、魔王……だと? そんな邪悪な者が何故ここにいる! ここは神の国だぞ!」
王子は腰に差していた剣を抜いて男に向けた。しかし男は笑顔を崩さずに言った。
「いやですねえ、貴方がどんな手段でも手に入れたい者があると願って私を呼んで下さったのではないですか」
この言葉に王子は動揺を隠せなかった。確かに、神の子である娘と結婚する方法を探すために、書庫の本を調べていたのだから。そんな王子の動揺を知ってか知らずか、男は言葉を続けた。
「――神の娘と結婚したいんでしょう? いいですよ、叶えてあげましょう」
「何っ、それは、本当なのか!」
王子は剣を下げて男に詰め寄った。とにかく娘と結婚できるならばその方法を知りたかったのだ。
「ええ、本当ですとも。貴方の高祖父の更に高祖父は何としても戦争に勝利させてほしいと私に頼んできたことがありましたよ。私はこの国が好きなんでねえ、もちろん王子の願いも叶えてあげたいのですよ」
遥か昔この国が戦乱の世だった頃、もう勝ち目はないと言われた戦いに奇跡的に勝ち、国を繁栄させたという記録があることをこの言葉で王子は思い出した。そして、狂おしいほど娘と結婚をしたい王子は、他に方法もないのだから、先祖が頼ったというこの男を信じることにしたのだった。
「本当に魔王なのか。娘と結婚するという願いを叶えてくれるのか。創造の神は約束を守らなければこの国を滅ぼすと言っているが、この国も守ってくれるのか」
男、もとい魔王はもちろんです、と答えた。そして、王子を見つめてこう言った。
「ただし、私も望みがあるのですよ。貴方の高祖父の高祖父の望みを叶えた時、私は少しずつでも良いから豊かになるこの国の生気を食べさせてほしいとお願いしたんです。私は一度空の神々に、不本意ながらも負けたという過去がありましてね。体と力を失った私は魂だけでこの本の中に逃げ込んで、本を開いてくれる人を待っていたのですが、その本を開いてくれた人というのが、貴方の高祖父の高祖父というわけなんです」
魔王は更に続ける。
「この国の生気を食べ続けて、私は力を蓄えた。次は体が欲しいのです。いいですか、悪というものも神なのです。最初は善の心だけを持って生まれた神も、一人や二人は負の気持ちに取り込まれる者がいる。そしてそこから私という魔王が生まれた。私はもう一度神から生まれ、肉体を取り戻したいのです。この願いを貴方が叶えてくれるのなら、貴方と娘を結婚させて差し上げましょう」
王子にはすぐに理解できなかった。神から生まれたい、という願いは当然ながら神にしか叶えられないからだ。
――貴方の妻となる、神の子に生んでほしいのですよ。
魔王は、王子の耳元でそう囁いた。
王子は言いようのない寒気を感じて身震いした。そして同時に、魔王は先祖の望みを叶えた時から、今こうなることをわかっていたのだと確信した。
「魔王、お前は先祖を戦争に勝たせて国を豊かにし、大国となったこの国の生気を時間をかけて食べ続けた。そしてこの国の生気を食べ尽くした時に、危機を迎えた国を見かねて創造の神が人間に神の娘を貸すことを予想できていたのだな。私が娘に惚れ込むことさえも」
王子の言葉に、魔王は歓喜して言った。
「そうです、その通り! 平和ボケした馬鹿な空の神どもは全然気づいていないようですけどね。まあ私も悪の神、魔王ですから、あんな奴らは簡単に騙せますよ。私が生気を食べたせいで国が砂漠化したことも、あいつらは人間が緑を切りすぎたせいだと思っているくらいですからね。さ、では早速契約しましょう。」
魔王はどこからか羽ペンを取り出し、王子に差し出した。しかし王子にはまだ疑問が残っていた。
「騙せると言っても、どうやるのだ。その方法が確かでないと安心できない」
王子は早く娘と結ばれたかったが、神を完全に騙す具体的な方法を知っておきたいと考えた。魔王は、それなら、とにっこり微笑んだ。
「神の子、あの娘が貴方に惚れ込めば良いんですよ。私があの娘の心をコントロールして差し上げますから。娘が貴方と結婚して地上に残りたいと言い張ればあいつは反対するでしょうが、その前に貴方と娘が一夜を共にすれば問題ありません。人間と交わった神は神聖なものではなくなるからです。人間に近い存在となり、空には必然的に帰れなくなる。そして私が娘の腹に宿れば、全て解決です!」
魔王は両手を広げ高らかに笑い声を上げた。娘に人間である貴方とは結婚できないと言われていた王子は、娘が自分と交われば人間に近い存在となるという言葉に強い興奮を覚えていた。
「よし、お前を信じよう。たとえ生まれてくる子が魔王だとしても構わない。あの娘を娶れるなら他は望まない。契約を進めよう」
王子は羽ペンを手に取った。魔王が宙に自分の名前を書くよう指示すると、迷いなく王子は自分の名を宙に刻んだ。魔王はそれを確認すると、一文字ずつ手に取って王子の名前を飲み込んだ。
「……契約完了。王子、貴方は本当に賢いお方だ」
そう呟くと、魔王は跡形もなくその場から姿を消した。
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