第2話

 将暉はこっちの世界の母親、幸子の死を悼んでいた。将暉がいろいろ問題を起こすせいでノイローゼに陥り自宅で焼身自殺した。

 将暉の正体は平 経正だ。平安時代末期の平家一門の武将。歌人。平経盛の長男で、平敦盛の兄。平清盛の甥にあたる。

 平家一門の中でも俊才として知られ、歌人として活躍した。また平安貴族が愛用した楽器の琵琶の名手として名を挙げた。藤原俊成や仁和寺五世門跡覚性法親王といった文化人と親交が深く、とりわけ覚性からは、経正が幼少時を仁和寺で過ごしたこともあり、楽才を認められ琵琶の銘器『青山』を下賜されるなど寵愛を受けた。


 寿永2年(1183年)の平家都落ちの際に仁和寺に駆けつけ、拝領の『青山』を返上し和歌を残した逸話は、『平家物語』中「経正都落」、『源平盛衰記』中「経正仁和寺宮ヘ参リシ事」条などで著名である。


 寿永3年(1184年)、一ノ谷の戦いにおいて、河越重房の手勢に討ち取られそうになったとき虚ろ舟がやって来て平清範と一緒に逃げた。


 昨日、稲村ヶ崎温泉で清範とバッタリ会った。♨  

 重曹温泉とモール泉のものが期待でき、一般的には、神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消火器病、痔疾、冷え性、疲労回復、健康増進などがあげられるが、モール泉には保温・保湿効果があり、美肌効果やアトピーにも効能があるとされ、温泉を利用した美肌ローション「稲村ヶ崎温泉 美肌湯」なども販売している。

 国道134号線沿いに日帰り入浴施設が存在する。

施設は13歳未満利用禁止であり内装が暗めの木造りで落ち着いた雰囲気である。

 駐車場側に入り口があり江ノ島方面からだと施設が見えるが鎌倉からだとレストランが目印になる。

 開館時間は9:00~21:00。但し入浴受付は20:00まで年中無休で一人1,500円。

 駐車場はレストランと共用、38台収納可能で施設利用で2時間まで無料。


 内湯と露天からカラン、かけ湯まで全て源泉を使用している。

 シャワーだけが水道水で冷たかった。

 浴室は「大島之湯」と「富士見之湯」があり1週間ごとに男湯と女湯が入れ替わる。

 内湯は石組みの湯船(湯温40度前後)のややぬるめの加熱循環。

 外には小ぶりの加熱循環の露天風呂(同42度前後)と源泉かけ流しの水風呂(同18度前後)がある。

 周囲は塀に囲まれており風景などを見る事はできないが解放感があり風向きによっては潮の香りを感じる事はできる。

 露天の向こう側には小型の独立サウナ(内面積5人分ほど)があり、サウナと水風呂の交互浴を楽しむことができる。

 サウナの中で清範は言っていた。

「但馬っておかしな奴と会った。奴は二重人格らしくて、時々義経になる」

 将暉は源氏アレルギーだ。義経って名前を聞いたときに体が痒くなった。

 一ノ谷の戦いを思い出した。

 一ノ谷の戦いは、平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。


 寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦いと6月の篠原の戦いで源義仲に敗れた平氏は兵力の大半を失い、同年7月に安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れた。京を制圧した義仲だが、統治に失敗して後白河法皇とも対立するようになった。義仲は後白河法皇の命で平氏追討のために出兵するが備中国で大敗を喫してしまう(水島の戦い)。後白河法皇は義仲を見限り、鎌倉の源頼朝を頼ろうとするが、これが義仲を激怒させ、後白河法皇は幽閉されてしまう(法住寺合戦)。


 情勢が不利になり脱落者が続出して義仲の兵力は激減してしまい、讃岐国屋島にまで復帰していた平氏へ和平を申し出るが、平氏はこれを拒絶した。寿永3年(1184年)1月20日、頼朝が派遣した範頼、義経の鎌倉政権軍に攻められて義仲は滅んだ(宇治川の戦い)。


 この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、同年1月には大輪田泊に上陸して、かつて平清盛が都を計画した福原まで進出していた。平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。平氏は同年2月には京奪回の軍を起こすことを予定していた。


 1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。平氏の所領500ヵ所が頼朝へ与えられた。


 寿永3年(1184年)2月4日、鎌倉方は矢合せを7日と定め、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。平氏は福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。


 同日、搦手を率い丹波路を進む義経軍は播磨国・三草山の資盛、有盛らの陣に夜襲を仕掛けて撃破する(三草山の戦い)。前哨戦に勝利した義経は敗走した資盛、有盛らを土肥実平に追撃させて山道を進撃した。


 2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平氏一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じた。平氏一門がこれを信用してしまい、警戒を緩めたことが一ノ谷の戦いの勝敗を決したとの説がある。


 迂回進撃を続ける搦手軍の義経は鵯越ひよどりごえで軍を二分して、安田義定、多田行綱らに大半の兵を与えて通盛・教経の1万騎が守る夢野口(山の手)へ向かわせる。義経は僅か70騎を率いて山中の難路を西へ転進した。


『平家物語』によれば、義経の郎党の武蔵坊弁慶が年老いた猟師を道案内として見つけてきた。猟師が鵯越は到底人馬は越えることのできぬ難路であると説明すると、義経は鹿はこの道を越えるかと問い、冬を挟んで餌場を求め鹿が往復すると答えた。義経は「鹿が通えるならば、馬も通えよう」と言い案内するよう求めたが老猟師は自分は歳をとりすぎているとして息子を紹介した。義経はこの若者を気に入り、郎党に加えて鷲尾三郎義久と名乗らせた。


 難路をようやく越えて義経ら70騎は平氏の一ノ谷陣営の裏手に出た。断崖絶壁の上であり、平氏は山側を全く警戒していなかった。


 2月7日払暁、先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。平氏は最初は少数と侮って相手にしなかったが、やがて討ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲む。直実らは奮戦するが、多勢に無勢で討ち取られかけた時に土肥実平率いる7000余騎が駆けつけて激戦となった。


 午前6時、知盛、重衡ら平氏軍主力の守る東側の生田口の陣の前には範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。範頼軍は激しく矢を射かけるが、平氏は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていた。平氏軍も雨のように矢を射かけて応じ源氏軍をひるませる。平氏軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、死傷者が続出して攻めあぐねた。そこへ梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、ふりそそぐ矢の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。


 義経と分かれた安田義定、多田行綱らも夢野口(山の手)を攻撃する。


 生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、平氏は激しく抵抗して、源氏軍は容易には突破できなかった。


 精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は戦機と見て坂を駆け下る決断をする。


『平家物語』によれば、義経は馬2頭を落として、1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と言うや先陣となって駆け下った。坂東武者たちもこれに続いて駆け下る。二町ほど駆け下ると、屏風が立ったような険しい岩場となっており、さすがの坂東武者も怖気づくが、三浦氏の一族佐原義連が「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ」と言うや、真っ先に駆け下った。義経らもこれに続く。大力の畠山重忠は馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け下った。なお『吾妻鏡』によれば、畠山重忠は範頼の大手軍に属しており、義経の軍勢にはいない。


 崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入する。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけた。平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。


 混乱が波及して平忠度の守る塩屋口の西城戸も突破される。逃げ惑う平氏の兵たちが船に殺到して、溺死者が続出した。


 生田口の東城戸では副将の重衡が8000騎を率いて安田義定、多田行綱らに攻められ危機に陥っている夢野口(山の手)の救援に向かった。午前11時頃、一ノ谷から煙が上がるのを見た範頼は大手軍に総攻撃を命じた。知盛は必死に防戦するが兵が浮き足立ち、遂に敗走を始めた。


 安徳天皇、建礼門院らと沖合いの船にいた総大将の宗盛は敗北を悟って屋島へ向かった。


 西城戸の将の忠度は逃れようとしていたところを岡部忠澄に組まれて負傷し、覚悟して端座して念仏をとなえ首を刎ねられた。歌人だった忠度が箙に和歌を残していた逸話が残っている。


 合戦の一番乗りの功名を果たした熊谷直実は敵を探していると、馬に乗って海に入り、沖の船へ逃れようとする平氏の武者を見つけて「敵に背を向けるのは卑怯であろう。戻りなされ」と呼びかけた。武者はこれに応じて、陸へ引きかえして直実と組むが、勇士の直実にはとても敵わず、組み伏せられた。直実は首を取ろうとするが、武者の顔を見ると薄化粧をした美しい顔立ちの少年だった。武者は清盛の弟経盛の子敦盛16歳と名乗った(『源平盛衰記』による。『平家物語』では名乗らない)。直実の息子直家も同じ16歳で、憐れに思い逃そうとするが、他の源氏の武者が迫っており、とうてい逃れることはできまいと泣く泣く敦盛を討ち取った。直実は武家の無情を悟り、後に出家して高野山に登った。『平家物語』の名場面である。史実でも直実は敦盛を高野山で供養し、その後出家して法然に仕えている。『吾妻鏡』によると出家の直接の理由は所領を巡る訴訟に敗れた際、梶原景時の言動に怒ったためである。


 敗走した平重衡は、梶原景季と庄氏によって捕らえられた。


「あの野郎、1つ目小僧を軽々と倒しやがった。味方にしたらどれだけ心強いか……」

 清範は義経を味方にする気でいるらしい。

 無理な話だ。

 将暉は陣馬山にやってきた。

 陣馬山は、東京都八王子市と神奈川県相模原市緑区との境界にある標高854.8mの山である。

 関東山地(秩父山地)の東縁に位置する山で、広く平坦な頂上のため陣馬高原とも呼ばれる。東京都立高尾陣場自然公園、および神奈川県立陣馬相模湖自然公園に指定されており、関東の富士見百景、かながわの景勝50選および八王子八十八景に選ばれている。また奥高尾縦走路、桜の名所の山としても知られる。


 名前の由来は、北条氏の滝山城を攻めた武田氏が陣を張った「陣場」説、カヤ刈場であったことから「茅(チガヤ)場」から音が変化したとの説、馬の陣を張ったことから「陣馬」の文字が使われた説とがある。 1960年代後半に京王帝都電鉄(現:京王電鉄)が、観光地として売り出すために山頂に白馬の像を建てて象徴化した。


 山頂にトイレはあるが水場は無い。売店は信玄茶屋、富士見茶屋、清水茶屋がある。売店の営業時間は9時頃〜夕方で、平日の営業縮小・定休日・冬期休業などがある。


 真夜中なので誰もいなかった。

 宝刀がこの山の中に隠されていると源太って奴が言っていた。

 それがありゃあ義経なんぞいなくても源氏を倒せる。後ろに妙な気配を感じた。ブウンッ!風切り音がした。

 

 1月20日 - 未明の午前2時40分過ぎに関東地方の北部などで、マイナス等級の明るい火球が目撃されている。火球の原因となった物体は上空で燃え尽きた可能性があるが、隕石として鹿島灘の海上に落下した可能性もある。

  

 明け方の空にサイレンが響く。🚓

 神奈川県警捜査1課の大文字警部は現場にやってきた。立ち入り禁止のロープを潜り、仏さんに合掌した。仏さんは胴体と頭が真っ二つになっていた。

 頭が樫の木の根本に転がってる。  

 大文字は豪快に吐いた。

 首を切り落とすなんてサムライみたいだな?と、ゲロをハンカチで拭いながら大文字は思った。

 

 


 

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