源義経の事件簿⑧ そんな理由で殺すなよ!

鷹山トシキ

第1話

 2008年1月10日

 この日のニュース📰

 ◎パスネット販売終了。

 ◎松下電器産業、同年10月1日から社名を「パナソニック株式会社」(英名:Panasonic Corporation)と変更することを発表。


 茨城空港に初老の男が降り立った。男は強盗の累犯で収監されていた浅井貫一。9年の刑期を終えて出獄した彼は、水戸市で暮らしていた一人娘、桜子の訃報を受け取っていた。


 訃報の送り主である桜子の友人、竹中直子のもとで、浅井は桜子の死が飲酒運転による事故死であったことと、交際していたYouTuberの服部将暉との間に何らかのトラブルを抱えていたことを知る。


 信頼する娘の飲酒運転による死を信じられない浅井は、直子の証言に基づき、桜子が死の2週間前に訪れたという真壁町にある不審な物流会社へと、手掛かりを求めて乗り込む。

 表向きはトラックからの荷卸をするバイトだ。  

 矢島ってマッチョと仕事をした。汗だくになり熱中症になりそうだった。

「オッサン、いくつ?」

「58になったばかりだ」

 

 勤務から1週間、矢島に感づかれてしまった。ゴロツキと事を構え、娘の死は事故ではないとの確信を得た浅井は、真実を知る筈の服部を追い詰めるべく、行動を開始する。


 横須賀

 身寄りがなく、恋人の平清範と暮らす恵子は長らく清範による暴力的な生活に日々苦しめられていた。しかし、自堕落な生活に終止符を打つべく恵子は再起動をはじめる。彼女の経歴に目を付けた公安の職員、若狭から「軍事訓練1年、現場勤務4年、その後は自由」と公安に誘われ、渋々そのオファーを受けることにした。1年間の過酷なトレーニングに耐えた後、彼女は上官の蒲生からのテストに時間をオーバーさせながらも合格し、その後、最初の暗殺任務を遂行した。

 

 殺し屋がランキングされ、すべての殺し屋がナンバー1になろうとしのぎを削る世界。ナンバー3の矢島乱は、ある人物の護送を依頼され、その任務中にナンバー2の桜子を倒してナンバー2の座を獲得する。

 しかし、栄光の座についたのも束の間、死に取り憑かれた財前に依頼された狙撃に失敗した矢島は、彼をナンバー2の座から蹴落とそうとする殺し屋たちの追撃を受ける羽目になる。挑戦者をすべて倒した矢島の前に最後の敵として現れたのは、恵子だった。

 恵子はハニートラップを駆使して矢島の自宅に潜り込む。彼が就寝した後ガスの元栓を開けておいた。翌朝、火を使った瞬間に爆発を起こし矢島は爆死した。


 恵子は今では恋人でもある若狭の「軍事訓練1年、現場勤務4年、その後は自由」という言葉を信じ、自らの感情を殺して任務のための暗殺を繰り返していたが、財前長官から「苦痛から解放される唯一の方法は死ぬことだ」と言われ、若狭の言葉が嘘だったと知る。


 それから5年の時が流れ、恵子は鎌倉の喫茶店でバイトとして活動する傍ら、諜報活動や暗殺の任務を遂行していた。そんなある夜、任務中に恵子がスパイであることが平家に見抜かれ、拘束されてしまう。

 

 2013年1月6日

 NHK大河ドラマ『八重の桜』放送開始(〜12月15日)。

 夏目漱石の全集未収録随筆分「韓満所感」が発掘されたことがわかった。

 

 鎌倉時代からテレポートしてきた、エージェントの服部将暉は恵子に死ぬか二重スパイになるか迫り、恵子は「1年間だけ働き、その後は江ノ島での保護」を条件に取引を受け入れる。

 江ノ島は今やナメック星人も目ン玉をひん剥くほどの超人の集合体となっていた。


 公安に所属し、暗殺に従事しながら、平家の二重スパイとして働くうちに、恵子は服部将暉とも惹かれあうようになる。


 そして、恵子は服部から3年かけて計画したという、報復のための“財前長官暗殺作戦”への参加と実行を迫られる。自由になるために、指示通りに公安本部にて財前を暗殺しようとした恵子であったが、逃げられ公安から裏切り者として命を狙われ、また脱出後に姿を消したことから平家からも追われることになる。


 但馬渉はしがない派遣社員だ。秋葉原事件の犯人をヒーローのように感じた。だが、未だに派遣切りはある。真壁にある物流工場を昨日辞めた。

 渉は義経に変身した。失業すると炎系の魔法を使えるようになる。

 1月8日、工場に赴き燃やした。念を送るだけで燃やせる。知り合いの竹中直子に昼前にスーパーで会った。

「あれ、但馬くん?」

「俺は義経だ」

「どうかしちゃったの?」

 直子はトマトをカゴに入れながらキョトンとしてる。

 渉はバイクに跨り笠間市にある山にやってきた。散策道の脇には大きな岩がある。この岩は戦国時代、上から落とされたもので、下敷きになって死んだ武士が何人もいた。岩に近づくとうめき声が聞こえてきた。岩肌から黒い血がじわじわ染み出てくるって言い伝えがある。

 笠間は古くから日本三大稲荷に数えられる笠間稲荷神社の鳥居前町として、また笠間城の城下町として栄えてきた。最近では笠間焼の生産地として知られ、春や秋に行われる陶器市の時期には、多くの観光客で賑わう。


 2006年3月19日に笠間市(旧制)、旧西茨城郡(友部町、岩間町)の1市2町が新設合併し、新制の笠間市として発足した。

 茨城県の中部に位置し、北西部に八溝山系が穏やかに連なる丘陵地帯で、西部には吾国山南西部には愛宕山が位置する。北西部から東南部にかけては概ね平坦な台地が広がり、中央を涸沼川が北西部から東部にかけ貫流する。

 笠間市には『上を向いて歩こう』などで有名な坂本九の生家があるって噂だ。

 渉は宍戸藩陣屋にやって来た。

 宍戸陣屋の前身の宍戸城は鎌倉時代初期に八田氏が築いたといわれる。戦国時代になると佐竹氏の持城となった。


 慶長7年(1602年)秋田実季が出羽国より入り、正保2年(1645年)子の俊季の代に陸奥三春藩に転封となった。


 天和2年(1682年)、水戸藩主徳川頼房の七男・松平頼雄が1万石を与えられ、城を陣屋に改めた。


 以後9代頼徳まで続くが、幕末の元治元年(1864年)、天狗党の乱の鎮圧に失敗し、藩主自ら幕府より責任を問われて切腹を言い渡され、廃藩となった。その後、幕府の代官支配で明治維新を迎えるが、慶応4年(1868年)に朝廷のとりなしで再度立藩することとなった。


 陣屋の長屋門形式の表門が隣町の旧家に移築され、県の文化財に指定されている。また、土塁の一部が残っている。


 白い猿の怪物に追われた。渉はパイロキネシスで白猿を倒した。このことは伝説になり渉はスクープされた。


 1月16日

 第148回直木賞は朝井リョウの『何者』と安部龍太郎の『等伯』、第148回芥川龍之介賞は黒田夏子の『abさんご』が選ばれた。


 渉は昼過ぎ、江ノ島にやって来た。

 クソ寒い。

 表参道周辺を散策した。

 江の島アイランドスパ(えのすぱ) - 江ノ島弁天橋を渡って右手の旧二見館跡に2004年12月15日にオープンした天然温泉&スパ施設。温泉、プール、スパ施設の3部門がある。

 失業中で金がないから入れない。


 青銅の鳥居 - 延享4年(1747年)に創建され、文政4年(1821年)に改修されて現在に至る。市指定文化財(建造物)。

 ここから地元で宿道と呼ぶだらだら上りの参道になる。両側には旅館、飲食店、土産物店が軒を連ね、かつてはしつこいほどの呼び込みの声が飛び交っていたが、今は自粛している。1998年のかながわゆめ国体準備のために前年拡幅整備が行われた。


 堀江商店 - 江戸時代より「繪圖屋」の屋号で営業していた。文化5年(1808年)に「江嶋一望圖」という絵地図を制作している。

 商店の前に1つ目小僧が現れた。丹沢山塊の西部地域からやってきた妖怪、彼が背負ってる籠には無数の目があった。

「キモいんだよ!」

 渉はパイロキネシスを使って1つ目小僧を倒した。

 1人の男が渉を称賛していた。そいつはスキンヘッドだった。

「君強いね?名前は何て言うのかな?」

「源義経」

「昔、君みたいな奴がいたな。どこで何をしてるんだか……」

「あの、あなたは?」

「俺は平清範。もしかして、君、源太じゃないよな?」

「僕は但馬渉」

「鈴木とか田中だったら偽名っぽいから、源太じゃないようだ」

「僕はある日突然、人格がおかしくなった。目の前が真っ白になって、もう1人の僕が現れた」

「分かるよ。僕もそうだから……僕の場合は安徳天皇だ」

 安徳天皇(1178年12月22日〈治承2年11月12日〉- 1185年4月25日〈寿永4年3月24日〉)は、第81代天皇(在位: 1180年3月18日〈治承4年2月21日〉- 1185年4月25日〈寿永4年3月24日〉)。諱は言仁ときひと。歴代の天皇の中で最も短命だった天皇。戦乱で落命したことが記録されている唯一の天皇である。

 

 治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子。治承4年(1180年)2月21日に数え年3歳(満1歳2か月)で践祚し、4月22日に即位する。幼帝の政治の補佐は外祖父たる平清盛が取り仕切った。即位前には、天皇の祖父後白河法皇も、清盛により幽閉されるに至った。摂政には藤原基通が任じられた。


 即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸(現在の神戸市)が行なわれるが、半年ほどで京都に還幸した。大嘗祭の為の大嘗宮は紫宸殿の前庭に建てられた。寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、平宗盛以下平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ちする。この後寿永2年8月20日(1183年9月8日)に三種の神器が無いまま後鳥羽天皇が践祚し、元暦元年(1184年)7月28日に即位。正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった。このため、以降2年間、二人の天皇が並立する事態となっている。


 一方、安徳天皇は平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、御所も造られた。昭和11年刊行の『史蹟名勝天然記念物調査報告』ではその場所を「屋島山東麓壇の浦の安徳天皇祠及び其の附近なるべし」としている。また、御所が造営されるまでは対岸の牟礼に今も現存する六萬寺を仮御所にしたとも伝わる。現在、六萬寺には「高松平家物語歴史館」の閉館に伴い奉納された安徳天皇、二位尼殿の等身大蝋人形が展示されている。結局、安徳天皇と女官たちはこの地に二年弱滞在した。


 しかし、源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍(源範頼、源義経)によって、平氏は一ノ谷の戦いと屋島の戦いに敗北。特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れる。そして寿永4年(1185年)4月、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平氏と源氏が激突。平氏軍は敗北し、一門は滅亡に至る。この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した。母の建礼門院(平徳子)も入水するが、源氏方将兵に熊手に髪をかけられ引き上げられている。この際、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保した。

 

 

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