第17話 海の怪物と王子


 とたん静かになった海原を、アーシェはじっと見つめつづけた。


 クラーケンは約束してくれた。

 ならば、絶対もう一度会いに来てくれるはずだ。

 だって、クラ―ケンが嘘をついたことはないし、クラーケンが負けるはずないのだから。


 だけどもしかして、私が潜っていった方が早いのかしら?


「”我海より―――”」

「アーシェ、待て!!」


 じりじりと待つのが面倒になってきたアーシェが海生石に手をかけ、起動詩を唱えかけたとき、背後から羽交い締めにされて止められた。


「王子!? 別の船にいたんじゃないんですか!?」

「君が突っ走らないか心配で小舟を使ってきたんだが案の上だ。まだ海中へ行くのは危険だ」

「でも、このままじゃ本当に悪魔鯨が倒せたかわからないでしょう。ひと潜りして見てきますから、止めないでくださいっ」


 アーシェは言いつつもがいたが、王子の腕はゆるまない。

 仕方なくあきらめたアーシェが抵抗をやめて向き直ると、王子はひどくほっとした顔をしていた。


「まずは、君が無事で良かった」

「……王子も、信じてくれてありがとうございます」

「礼を言うのは私の方だろう。君のおかげで、重大な過ちを犯さずにすんだのだから」


 静かに首を横にふった王子に、アーシェは両手を取られた。


「あれほどの化け物を前にして、一隻も欠けず港へ帰ることができる。君がこの奇跡をもたらしてくれたのだ。そうだろう、皆の者っ!!」


 歓声で応じる船員達の異様な熱に、アーシェはほんの少し背筋がふるえた。

 改めて見れば、アーシェを見る船員たちの表情は、畏れと敬意と何か……そう、アーシェを特別なものでも見るような雰囲気なのだ。

 

「クラーケンに、あのでっけえ鯨を倒すように命令してるようにみえた」

「あの怪物から降りてきたのを見た時にゃあぶるっときたな」

「まるで、そう、伝承の聖女様みてえだった」

「俺たちを助けるために、聖女様が現れたのか」

「そうだ、そうに違いない」


 興奮した船員たちが口々に言い合うのに重々しくうなずいた王子は、また声を張り上げる。


「私は、この活躍と感謝の意を示すために、我らを救った聖女を城に招き、もてなしたいのだがどうだろう!!」

「ちょっと、殿下!?」


 いきなりの発言にぎょっとしたアーシェが仰ぎ見れば、王子はわざとあおっている風だった。

 この間と言っていることが違うっ!と思ったが、船員たちの間には肯定的な雰囲気が広がっていく。


「おお、そいつは良い!」

「それぐらいは当然だ!!」

「そのまま王子と結婚なんてのも……」

「ちょ、ちょっと……」


 このまま放っておいたらまずいと口を開きかけたアーシェだったが、その時、海面を監視していた船員の一人が声を上げた。


「おおい! 馬鹿でかい何かが上がってくるぞー!!」


 瞬間、大きな水しぶきをあげて現れた青紫の触腕に、アーシェは全部を忘れた。


「クラーケンっ!!」


 王子の手をふりほどくと、アーシェは全力で船の外で揺らめく触腕に飛びついた。


「大丈夫なの?」

《トロールフィスクは、生命活動の停止は確認した。この海域は安全だ》

「そうじゃなくて、あなたの怪我のほう!」

《触腕の4割が行動不能になったが、休めば元に戻る》


 その返答に、アーシェはどっと安堵した。

 少し疲れたような気配が混ざっているし、体表の青紫の風合いがどことなくくすんで見えた。

 クラーケンですら危うい相手だったのだ。

 それでも、生きてここにいる。


「本当に、良かった。クラーケンが無事で。約束守ってくれて、ありがとう」

《かまわない》


 アーシェがぎゅうっと抱きついて、もう一本の触手がなだめるように頭を滑るのに任せていると、アーシェの脇に王子が立った。


「君は今、クラーケンと話しているのかい」


 ごく自然に話しかけてきた王子は、アーシェが眉をしかめて睨み付けても、飄然としている。

 その詫びれた風もない態度ににアーシェは以前王子が言った「あきらめるつもりはない」という言葉の意味を理解した。

 言いたいことが山ほどあるが、アーシェはとりあえず王子の言葉にうなずいてみせる。


「ええ。……そうだ、悪魔鯨は死んだって! もうこの海域は安全だって。クラーケンが倒してくれたわっ」


 アーシェが振り返って高らかに宣言すれば、背後で遠巻きにしていた船員達から爆発的な歓声が上がった。

 皆が抱き合って喜ぶ中、王子は大きく深呼吸したかと思うと、こわばった顔でアーシェが抱えている触腕に手を伸ばしてふれたのだ。


「クラーケンよ、聞こえるか。私はこの国の王子、トヴィアス・ド・ザサールだ」

《よく聞こえるし、良く見える。こうして言葉を交わすのは初めてだな。我は海底都市の守護者。君たちがクラーケンと呼ぶ存在だ》


 低く厳めしいクラーケンの思念に、王子の顔に驚きが広がり、海面をのぞき込む。

 ごく浅い部分に揺らめいて見えるのはクラーケンの銀の双眸で、アーシェが片手をはなして手を振れば、目を細めて応じてくれた。

 見れば、王子は何ともいえない顔をしていたけど、大きく深呼吸をすると、海面に向き直った。


「一度お会いしたかった」

《そうか》

「今回の悪魔鯨の討伐、心より感謝する」

《我は己の使命を全うしているだけだ。君たちを助けることになったのは結果論だよ》

「あなたの使命とは何か、聞かせてもらえないだろうか」

《我は、海底に存在する都市と、それに付随するものに害をなす勢力の排除を使命としている》


 アーシェが聞いたものと同じ答えに王子はさらに踏み込んだ。


「その付随するものの定義はなにか」

《ここから西にある陸に住む人間達だ》

「つまり、今回の悪魔鯨のような、街の住民達に害なすものを排除すると」

《おおむね肯定だ。陸の王子よ》

「そう、か」


 王子が難しい顔で考え込んでいると、クラーケンが言った。


《君たちの援護は有用だった。感謝する》

「いや……。我らははじめあなたを討伐するつもりできたのだ。元凶が悪魔鯨とわからなければ、あなたを攻撃していただろう」


 真っ正直な王子の言動にアーシェですらぎょっとしたが、クラーケンはあっさりしたものだった。


《我が君たちにとって脅威と映ることを認識している。同胞に危害が及んだのであれば、そしてその元凶と疑わしきものがあれば、それを排除しようと考えるのは自然だ》

「あなたは我らの行為を罰しないと?」

《人は小さく弱い。強大なものに対抗するために武器を持つことも必要だ。その上で、過ちを認められるその強さを評価しよう》


 王子は絶句した後、苦く息を吐いた。


「どこまでも器が違う、か……」


 その小さな声はアーシェにだけしか聞こえず、次の瞬間王子は決然と顔を上げた。


「あなたとは、これから良き隣人としての関係を築いていければと思う。クラーケンよ。どうかこれからも、この海を守って欲しい」

《我の使命は範囲内であれば、善処しよう》


 そのやりとりに、アーシェは我慢ができなくなって、王子に身を乗り出した。


「ねえ、クラーケンが味方って認めてくれるの?」

「まずは陛下に報告しなければならないが。意志の疎通ができる上に倒しがたい海獣を倒してくれるとあれば、討伐するよりも放っておいた方が有用だと言うことになるだろう」

「なんだか、ずいぶん勝手ないいぐさね」

「政治、とはそういうものだよ。利用できるものは何でも利用する。そもそも、我らで倒せないものをどうこうしようと考える方が無謀だ」


 あきらめたように肩をすくめる王子の開いている片手を握り、アーシェは感謝の気持ちをこめて笑う。


「ありがとう、殿下。 私にできることなら何でも協力するから!」

「ならば……」


 少し頬を染めた王子が何か言い掛けたとき、アーシェの腰にするりと触腕が巻き付いた。

 自然と王子から手を離すことになったアーシェは触腕に腰掛けてきょとんとする。


「急になに?」

《陸の王子は我を黙認するしかないのだから、特に君がなにかをする必要はない》

「ええ、でも……」

《我の使命は都市守護だよ。アーシェ。もとより交流は必要としていないのだ。今まで通り、我は海にいる》

「でもクラーケン、それじゃあ寂しすぎるわ」


 納得できずに考え込んだアーシェは、ふと王子が妙な顔になっていることに気付いた。


「どうかした?」

「……いや、本当に君は、クラーケンを慕っているのだな、と」

「当然よ。あ、そうだ、もしクラーケンとはなす必要があるのなら、私がつなぎ役になるわ。クラーケンがいつもいる海底都市には今のところ私しか行けないのだし」


 そうすれば堂々と会いに行けるとアーシェが提案すれば、王子はますます妙な……なんだか泣きそうな顔になる。


「確かに、クラーケンとの交流はできたらよいとは思うのだが……」

《それなら、受け入れよう》

「え、いいの? 私が来るのあんなにいやがっていたのに!」


 半ば冗談だったというのにあっさり受け入れられてアーシェがびっくりしていると、クラーケンは淡々と言った。


《騒がしいのは君一人で十分だ》

「なによそれどういう意味っ!?」


 向かっ腹をたてていたアーシェは、王子が何ともいえない顔でため息をついているのには気付かなかった。

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